第百七十二面 取り乱したとかのレベルじゃないよ
不可解な味のするカップケーキが置かれている。
「昨日は散々だったなぁ。面倒なことはしたくねえんだけどよ、今は俺がここの家主だし、対応は俺がするしかねえよな……」
買って来たものだと思って食べてしまったけれど、どうやら手づくりのようだ。またしばらくこの味が口の中に残るのだと考えると悲しくなるな。
「アリス。昨日あの後何かあったのか。帽子屋のところから戻って来た瞬間そっちに帰ったからどうしちまったのか気になってよ。アイツに何か言われたか?」
「いえ、別に……」
昨日はお茶を飲んですぐにナザリオと一緒に森へ帰って来た。そして、ぼくは足早に帰宅したのだ。
得体のしれない場所なのだ、ここは。それでもぼくは今日もここへ来てしまった。何の予定もない日曜日の午後、気が付いたら鏡を潜っていた。毎日読書をするのと同じで、鏡を潜ってこちらへ来るのはすっかり習慣になっているのだ。
「ニールさんは何かありましたか? ぼく、話をする間もなく帰っちゃったので」
「いや、特に何も。前と同じで、軍のやつらとかもたくさん来て、事情聴取されて、それだけだ。くっそ疲れた。ま、自慢の石畳を綺麗に掃除してくれたからそこはありがたいけどな。……あぁ、そういえば人間達が帰った後でグスタフじいさんが訪ねて来たから、ある程度のことはコーカスレースに伝えた。鳥達も大変だな。どこの誰にジャバウォックなんかの調査を依頼されてるんだか知らねえけど」
ニールさんはカップケーキをもぐもぐと咀嚼する。こうして見ていると美味しそうに見えてくるから不思議だ。あれは恐ろしく不可解な味がするものなのに。つられて食べてしまわないようにしなければ。
ぼくはお茶を一口飲む。今日のお茶はヒカリゼンマイという北東の外れで採れる草の香りを帯びているそうだ。見たことある動物、見たことある植物で溢れているのに、時々こうした謎の植物が出てくるんだよね……。
それなりに貴重な植物だから高いんだよ、このお茶。と先程ルルーさんが教えてくれた。なんでも、ブランシャール氏がまた異邦人から貰って来たものだという。昨日の今日で、ジャックの番号を所有するトランプや有力獣がてんやわんやらしい。滞在中の異邦人達も、ワンダーランドにいては危ないのではないかという気持ちと不用意に動いた方が危険なのではという気持ちがぐるぐる回っているそうである。
「アーサーから何か言われたわけじゃないけど、アリス君はランスロット君って子のことが気になるんじゃないの? ちょっと怖かったんでしょ? そっちのことはナザリオが教えてくれたけど」
絨毯の上で丸くなって眠るナザリオを見ながら、ルルーさんが言う。
「人と付き合っていくのって難しいなって……」
「えっ、なんか深刻な感じ? 僕でよかったら力になるからね。お姉さん相談に乗るよう」
「ははは、オマエじゃ頼りにならねえだろ。馬鹿じゃねえか。馬鹿兎さんだもんな」
「馬鹿に言われたくないなあ。そっちだって馬鹿猫じゃん。あっ、よかった。アリス君笑ってくれた」
あれ……。ぼく笑えてなかったのかな、今日。
思っていたよりも悩んでいるみたいだな。これまでだって惨いものや恐ろしいものをここで見ている。その度にここは怖いなあとは思っていたけれど、そういう現場よりも人間相手の方がダメージを受けるなんて。琉衣みたいな鋼のメンタルがほしいな……。
昨日「アリス」という名前を聞いて豹変したランスロットを見た時。その時と同じような感覚になったことが何度かある。それはいつだろうと思い返してみると、いずれもチェスと対峙した時なのだ。南東の浜辺で白のポーンや赤のビショップに出くわした時、北東の森で赤のナイトに出くわした時。チェス達は「アリス」の名前に反応していた。チェスに呼ばれた時と似ているのだ、昨日のあれは。
自分の好意が友人達に不満をもたらしたことだけではなくて、そこも引っ掛かっているのだと思う。彼は、ランスロットは、何者なのだろう。地下鉄で怪しく笑ってはぐらかしたことは冗談ではなく真実で、本当にチェスなのかもしれない。昼間に出歩いているのは疑問点だけれど、そもそもチェス自体謎が多いのだから昼間でも平気な個体がいる可能性はある。
「アリス君また難しい顔になっちゃった」
「気になることがあるなら教えろよ。イーハトヴの諺に三人寄ればなんとかってあるだろ」
そうだ。あのことをニールさんに訊いてみなきゃ。
「ランスロットがアーサーさんのことを知っている感じだったんですけど、面識はあるんですか」
どうなの? とルルーさんもニールさんの方を見る。
「アイツの交友関係を全部把握してるわけじゃない。けど、俺の知っている範囲ではその名前をアイツが口にしたことはないはずだ」
「ニールはアーサーに変な虫が付かないようにその辺目ぇ光らせてるもんね。変な人の名前が出て来たら『誰だソイツ』って問い質すんだよ。怖いお兄ちゃんだよねえ。大好きだもんね」
「うるせえな。今それ関係ねえだろ」
「あはは照れてる!」
「耳もぐぞ」
ということは、ニールさんも知らないしアーサーさん自身も知らないのに、ランスロットが一方的に知っているということでおおよそ間違いなさそうだね。誰が悪評を吹き込んだのだろう。
ぼくはクッキーに手を伸ばす。こちらは箱から出て来たのを見ているので既製品のはずである。
「あと、ランスロットはアーサーさんのこと『王様』って言ってました。王様だけどその資格はない、みたいな」
ニールさんの猫耳がびくっと動いた。びっくりしています、と丁寧に書かれているような顔になっている。何か思い当たることがあるのかな。
「ふむふむ。つまりアーサー王ってこと? なんか弱そうだね」
「えっ、よわ、弱そうですか? ぼくは強そうな字面だなって思いますけど」
「えー。だってアーサー運動音痴だし体力ないし、人付き合い苦手だし、王様って器じゃないよ。すぐ国滅びそう」
「馬鹿兎オマエ人のかわいい弟に向かって酷い言いようだな。否定はしないが」
否定はしないのか。
「あー、今かわいいって言った」
「言ってねえよ! 長い耳持ってるくせにそれは飾りのようだな」
「ニールさん、何か心当たりはありますか。王様って呼ばれることに関して」
ルルーさんのことを煽って笑っていたニールさんがこちらを向く。その顔から笑みは消えていた。ぼくのことを睨みつけているとか、怒っているとか、そういう風ではない。見えない何かに怯えるように、銀に近い水色の瞳が震えている。
知っているんだ、この人は。何かを。
開かれた口元に鋭い牙が覗く。言葉を発しようとしたものの、途端に食いしばられた歯によってそれは拒まれてしまう。言おうか、言うまいか、逡巡しているようだ。
「ニール、知ってるの?」
ルルーさんの問いかけに答える代わりに、ニールさんはただ笑って見せた。自らにかけた呪いに溺れている時と同じ、不気味に口角を吊り上げた笑顔だ。危険な光を孕んだ目がどこにも焦点を合わせずに揺らいでいる。
「俺が……俺がアイツを守らないと……。アイツは……王なんかじゃ……ないっ……! だから、俺が……。オマエの、こと……。アーサー……。……う、あぅ。ぐっ……」
がしがしと髪を搔き乱してニールさんは蹲ってしまった。苦し気な息遣いと呪詛の言葉を途切れ途切れに繰り返す。
「うぅ……。敵は全部殺す……。それが、誰であっても……! 守らないと! 俺が……」
「ニール、落ち着いて。今誰もアーサーのこと傷付けてないから!」
「ご、ごめんなさいっ。ぼくの質問が原因ですよね。でも、なんで」
「ぐぁ、が、ぐるる……。グルルル……。アイツのために……。全部……」
それからしばらく唸り続けたニールさんは、ナザリオが騒動に気が付いて目を覚ましたところで静かになった。握りしめた拳からは血が滴り、噛み続けた尻尾も出血していた。荒い呼吸と共に口の端を血が伝う。強引に呪いを押さえこもうとした結果の負傷だ。ぼくとルルーさんでは止めることができなかった。
ティーカップに伸ばされた指先は赤く、爪の食い込んだ手の平から血がぽたぽたと落ちている。時折噎せ込みながらも紅茶を飲み干し、呼吸を整える。
「悪い、取り乱した……」
「取り乱したとかのレベルじゃないよ。流血沙汰になってるじゃん」
「怪我したのが俺だけでよかっただろ?」
にやにや笑いを向けられ、ルルーさんが恐ろしいものを見たかのように息を呑んだのが見て分かった。無差別にぼく達のことを襲う可能性もあったということだろうか。いつにも増して呪いが強く発動したから、我を失ってしまう前に自らを傷付けて意識を保ったのか。それでも、そのことについてあなたはそうやって笑うのか。
周りを守る前にいつしか自分が壊れてしまうのではなかろうか。
ニールさんは空っぽのティーカップを弄ぶ。白い地に点々と赤が彩られていく。
「アリス。ランスロットって言ったか、帽子屋のことを王だなんだって言った餓鬼」
「は、はい」
「その餓鬼、たぶんチェスだ」
再び笑みを消し去ったチェシャ猫は、ぼくを見据えてそう言った。
「……え」




