第百七十一面 怖い場所
「そうですか、警察が家に……。では、私はまだしばらくの間ここにいなければならないようですね」
救急箱の蓋を閉めて、アーサーさんは言った。ローブにくるまりながらランスロットは寝息を立てている。
数分前、突然の攻撃に出たランスロットは意味深な言葉を放った直後に倒れてしまった。気を失っている間に手早く処置を済ませて今に至る。腹部にできた傷は何かに引っ掛かれたれたような痕があって、かなり深いところまで切られている可能性があるそうだ。家庭で施せるのは表面の傷への処置だけ。早く病院へ連れて行くなり、「先輩」なる人に「アジト」へ連れ帰ってもらうなりしないと危険だろう。
「先輩」とか「アジト」とか、傭兵の組織があるのかな……?
アーサーさんと距離を取った位置で様子を見ていたナザリオが口を開く。
「ねえ、その人から嫌な感じしない?」
「不思議な雰囲気の方だとは思いますが、嫌だとか、不気味だとか、そのような感覚はありませんね」
「んむー、今のアーサーだとおれのことの方が怖いのかなあ」
「それもあるとは思いますが、私は獣としての所謂野生の勘がかなり鈍いので感知できていない可能性がありますね……。何か、彼から感じるのですか」
完全覚醒状態のナザリオはパジャマの裾をぎゅっと握った。
「分からない。分からないけれど、初めて会った時に『アリスのことを守らないと』って思ったんだ。今日だってそう。近付かない方がよさそうって思った。……ルルーのお兄さん、クロヴィスと少し似てた」
「あっ、そうそう、クロヴィスさん。クロヴィスさんも家の前に来てたんです。来てたっていうか、ジャバウォックもどきが出て、それを追い駆けていたらしいんですけど」
救急箱を棚に片付けて、アーサーさんはソファの傍に戻ってくる。眠っているランスロットのことを見下ろす表情は硬く険しい。
チェスと関係の深そうなクロヴィスさんと、ジャバウォックもどき、それらが同時に現れた近くで負傷していたランスロット。何か繋がりがあるのだろうかと考えてしまうな。大きな爪で攻撃されたら、あのような傷痕になるのかな。
お茶を淹れて来ますね、とアーサーさんはキッチンへ向かった。簡素なリビングにはぼくとナザリオ、眠り続けるランスロットが残される。
ジャバウォックのようなもの、ジャバウォックもどき。あれの攻撃はヒトの体で受けるにはあまりにも強力で、軽く爪が掠めただけでも皮どころか肉を持っていかれる。一瞬で辺りは血だまりだ。それならば、ランスロットは別のものに襲われたのだろうか。昼間の森で人間を襲うとなると、ドミノではなくまさに獣、森に住まう動物達か。けれど、バンダースナッチ相手に大立ち回りをする彼が普通の動物相手に深手を負うとは考えにくいな。
では、何か。バンダースナッチかもしれない。あれはドミノなので普段はヒトの手をしているけれど、戦う時には鋭い爪を持つ獣の腕に変化するのだから大きなひっかき傷だって作れるはずだ。不意を突かれて攻撃されたら、彼でも後れを取る可能性は無きにしも非ずである。
「お茶が入りましたよ」
「わーい! あ、近付いちゃ駄目なんだった……」
「申し訳ありません……」
ナザリオの分をカウンターに置き、ぼくの分をテーブルに置く。アーサーさんのお茶、なんだか久し振りだな。やっぱり美味しいや。
ランスロットが眠るソファの向かいに座るぼくの隣に、アーサーさんは腰を下ろした。優雅な動きで紅茶を一口飲む。
「帽子を被った怪しげな男も見ました。もしかしたら、あの人がジャバウォックもどきを連れ歩いているのかも」
「私が覚えのない罪を問われた原因、ですか……。んん、また私に容疑がかけられそうな予感しかしないのですが。いつまでここにいればいいのですかね」
銀色のローブの塊が蠢いた。どうやらランスロットが目を覚ましたらしい。
「あ、れ……。ボクは……。……ぁ、アレクシス、君」
「おはよう。軽く手当てはしたけど、早く病院に行った方がいいよ。それか、先輩? って人に見付けてもらわないとね」
「助けられた、のか……。アーサー・クロックフォードに……!」
「あの、なぜ私をそのように見るのですか」
ランスロットはずり落ちるようにソファから下りると、ローブを羽織って立ち上がった。青白い瞳は憤怒の色を宿している。
ぼくはランスロットにアーサーさんのフルネームを教えていない。しかし、彼はフルネームを口にしている。旧知の仲なのかとも思ったけれど、一方的に知っている風だよね。敵意を持って睨まれるような名前の売り方をこの帽子屋がするとは思えないので、誰かから悪意を添えて教えられたと考えるのが妥当だろうか。
「ボクはアナタを認めない。アナタは王の器足りえない」
「大変申し訳ないのですが、私には貴方が何を仰っているのか理解できません」
「……彼女はボクだけを見てくれればいいのにな」
「ランスロットさん?」
「手当てをしてくれたことには感謝します。でも、それでボクを手懐けられただなんて思わないことですね」
ちょっと! と声を荒げたのはナザリオである。
「キミさあ、なんなのその態度! さすがのおれもびっくりして目が覚めちゃうよ! アリスがキミのことをここに連れて来て、アーサーが手当てしてくれたからそうやって動けるんだよ。失礼じゃない?」
「アリス? 今、アリスと言ったのかな」
鋭い視線をそのまま向けられ、ナザリオが少し怯む。
「ア、アリスだよ。あの子はアリス……」
そして、ぼくのことを指差した。
ランスロットの視線が今度はぼくに向けられた。いつも浮かべている愛想笑いでもない、戦闘時に見せる不敵な笑みでもない。それは、恍惚と表現していいものだった。
「あ、アァ、アリス! アリス! アリス! 待っていたよ。アリス。よく来たね」
「え……?」
「あの子は一緒じゃないのかい? あぁ、でも、まさかそんな! アレクシス君、キミがアリスだったなんて。彼はそんなこと一言も言っていなかったのに。隠していたのか、ボクに。ふふ、ふふふ、でもいいんだ。会えてよかった。アリス、アリス……!!」
なんだ。
なんだこれは。
率直な感想としては不気味で気持ち悪いと思った。なんだこいつこっち来るなと思った。思わず隣に座っているアーサーさんの腕にしがみ付いてしまった。
「アリス、アリスぅ……。へへへ。アリス、アリ……あ、待って……。出て……くるな……」
ぼくに手を伸ばして迫って来ていたランスロットの動きが止まった。がくりとうなだれ、腕もだらんと垂れる。まるでおもちゃの電源が切られてしまったかのようだ。「その人、どうしたの」というナザリオの声にも全く反応がない。
「ランスロット」
「ふふ……。いけない子……。はは、驚かせてごめんね。何でもないよ」
愛想笑いを顔面に貼り付けると、ランスロットはローブをすっぽりと被った。顔が隠れる瞬間、青白い瞳に青紫色の光が見えたような気がした。一房はみ出ている髪が銀ではなく金に見えるのは光の加減によるものかな。
ぼくはアーサーさんから手を離す。
「帽子屋さん、ありがとうございます。お陰で先輩と合流するまでは歩けそうです」
「そうですか。あの、先程私のこと……」
「ではボクはこれで。ばいばい、アレクシス君」
ソファに立て掛けていたアーロンを腰に差し、ひらりと手を振ってリビングを出て行く。突然の態度の変わりように唖然とするぼく達のことを振り返ることなどせずに、去って行った。玄関のドアの開閉音が聞こえて来た。
なんだったんだ、一体。
アリスという名前を聞いた時の豹変の仕方といい、その直後の妙な落ち着き方といい、不自然極まりない上に奇妙奇天烈だ。とにかく怖い。アーサーさんへの態度もなんだかおかしいし、ぼくの知っているランスロットではなかったみたいだ。
そもそも、ぼくは彼のことを知っているのか?
地下鉄で助けてくれたことが印象に残っているけれど、会ったことがあるのは片手で数えられるくらいだよね。彼の口から出てくる言葉が本当のことなのかそうではないのかも、ぼくには分からないのだ。ランスロットという名前が本当の名前だと思うかと問いかけてきたことだってある。本性が分からない相手のことを、ぼくは信用してしまっていた。恩はある。でも、彼のことをぼくは全然知らない。
「王様……。私が……?」
「あの子やっぱり変なやつだったじゃん」
怪我をしているのを放って置くことはできない。この人は前にぼくのことを助けてくれた。そんなお節介がもたらしたのは混乱である。
「不思議な方でしたね……」
「今更ですけどアーサーさん、背中大丈夫ですか。ばーんって倒されてましたけど」
「ルルーに飛び掛かられたり馬鹿猫に蹴飛ばされたりするので受け身を取ることには慣れています。問題ありませんよ」
「んむむー、なんなのあの子ぉ。気になって夜しか眠れなくなりそうだよう」
他人を信じすぎるのは危ないことなのかな。ここはぼくの暮らす世界とは違うから、おかしな人もたくさん住んでいるし、国自体も不思議だし。……そんな悩みはとっくのとうになくなったものだと思っていた。自分のもう一つの居場所だって、ここにいていいんだって、そう思うようになっていたんだ。
けれど。
けれどやっぱり、ここは……。
「アリス君」
「ぅひぃっ!」
眼鏡のレンズ越しに、銀に近い水色が心配そうにぼくを見ていた。
「気分が優れないようですが」
「ちょっと、考え事をしていただけです……」
ここは怖い場所なのかもしれない。
ぼくは、ここにいていいんだろうか。




