第百七十面 ボクの王様
ナザリオは負傷している様子のランスロットを前にして臨戦態勢を取っている。温厚な彼がこんな態度を見せるのは非常に珍しいことだ。前に鉢合わせた時にも警戒していたけれど、何か思うところでもあるのだろうか。
「アリス、この人やっぱりなんか怖い感じするよ」
「でも、放っても置けないよ。ぼくは地下鉄の事件の時に助けてもらってるし……」
体の状態を確認しようと思って抱きしめている愛剣アーロンにぼくが手を掛けた瞬間、閉じられていた目が見開かれて青白い瞳がこちらを睨みつけた。立ち上がると同時にぼくの手からアーロンを奪い、鞘から僅かに刃を覗かせる。
「何者だ!」
「うわ、ごめん! ごめんね!」
「……アレクシス君?」
目の前にいるのがぼくであることを認識すると、ランスロットはほっとした様子で剣を鞘に納めた。
銀のローブには血が付いており、立ち上がったことで中に着ている服も所々赤くなっているのが見えるようになった。一際目を引くのはカーディガンの腹部を染め上げる赤である。いつ怪我をしたのかは分からないけれど、まだ出血が続いているらしくじんわりと染まっている部分が広がっているようだった。
「ねえ、その人のことどうするの」
「街へ行くんだし、病院まで運んであげようよ。……駄目かな」
ナザリオはちょっぴり不服そうだ。
「あまりお友達には好かれていないみたいだね。ボクは平気だから、用事があるならさっさと行きなよ」
全然平気そうには見えないけれど。
ランスロットはアーロンを杖のようにして体を支えながら、お腹を押さえていた。指の間から血が滲んでいる。
「先輩が迎えに来てくれるはずだから……。大丈夫……」
「ほら、大丈夫って言ってるじゃん。行こうよ」
「でも……」
どうしてもここから離れたいらしい。本人が大丈夫と言っているし、と思いながらナザリオに手を引かれて歩き出した背後で小さな呻き声が聞こえた。振り返ると、ランスロットが倒れているのが見えた。苦しそうに顔を歪めて蹲っている。
お節介かもしれない。でも、ここで見捨てることはやっぱりできない。
ぼくはナザリオの手を引っ張り返した。普段は眠たそうにしている目が明確な不満を訴えている。
「ナザリオ」
「……分かった。ここで助けなくて死なれちゃったら後味悪いし……。ん、気を付けて……ね」
手を離し、ランスロットに歩み寄る。
「行かないのかい」
「置いていけないから。先輩はランスロットが怪我をしているの知ってる?」
「知ってると思う」
「じゃあ、先輩も病院に探しに来るかもしれないしさ」
「……病院へは行けない。身元を詮索されるわけにはいかないから。アジトに戻れば治療くらいできるし……。ぐ、う……」
「そんな悠長なこと言ってられないよ。早く手当てしないと」
気だるげな青白い瞳がぼくのことを見上げている。ちょっぴり笑ったように見えた。
「キミは本当に変わった子だね……」
「……ナザリオ、アーサーさんって確か軽い応急処置くらいできるよね」
「え。うん……。つまらない知識もたくさん持ってるからね、彼は」
「よし。じゃあランスロット、病院じゃなくてぼくの友人の家だったら大丈夫かな」
アーサーさんの名前を耳にして一瞬目を丸くしていたけれど、「まさかね……」と呟くとランスロットはぼくの問いかけに小さく頷いた。何だろう、今の反応。明らかに驚いている風だった。
それじゃあよろしく頼むね。と体を起こしたランスロットを抱き起し、ナザリオと二人で支えながら歩き出す。じわじわと広がっていく赤をローブの比較的綺麗な面で隠しつつ、街へ向かう。しっかりと支えてはくれているけれど、ランスロットの青い顔の向こうに見えるナザリオは険しい顔のままだった。
ぶたのしっぽ商店街の脇で辻馬車を拾い、目的地を告げる。
車内でもナザリオは不機嫌を極めていた。ぼくのことを守るようにして、眠っているランスロットのことを睨みつけているのだ。いつもならば自分の方が座った瞬間座席に埋もれて眠るのに。
「ナザリオ」
「ごめん、アリス。おれどうしてもこの人のこと信用できない。アリスのこと助けてくれたってのは知ってるし、それを聞くと悪い人じゃないのかもって思うんだけど……。けど、けどね、なんだか、ざわざわするんだよ」
淡褐色の瞳はゆるりとぼくから逸らされた。
アーサーさんの仮の住まいに辿り着き、馬車を見送ったぼく達は家の前に小太りの男がいるのを見付けた。ダミアンさんかな。
小太りの男と話をしていたアーサーさんがぼく達に気が付いた。眼鏡のテンプルをわざとらしく指先で撫でてから微笑む。
「アリ……アレク君、お帰りなさい」
「た、ただいま叔父さん。友達連れて来たんだけど、いいかな」
「えぇ、構いませんよ」
「おやおや! では僕はここでお暇しますね! それではキングスレーさん、ごきげんよう!」
「ごきげんよう、ディーンさん」
お腹を揺らしながら、小太りの男は数軒先の家に入って行った。ダミアンさんだと思ったけれど、彼のことをディーンさんと呼んでいたな。
「こんにちは、アリス君」
「あの、さっきの人は」
「ディーンさんです。ダミアンさんとは双子の兄弟で、彼らは一緒に暮らしているのです。お仕事も一緒なのだと言っていましたね」
すなわち双子のトゥイードル兄弟ということか。やはりあの人、もといあの人達はトゥイードルダムとトゥイードルディーなのかもしれない。イグナートさんを見たら大騒ぎするのかな……。
アーサーさんはナザリオが引き摺っているランスロットに目を止める。
「その子は?」
「前に話をしてたランスロットです」
「あぁ、傭兵の……? どうかされたのですか」
「怪我をしているのを見つけて、病院に連れて行こうとしたんですけど仕事柄病院には行けないって言うんで連れて来ました。応急手当くらいはした方がいいと思うので」
「私は別に医学の心得はないので、一般的な家庭で行える程度の手当てならば可能ですが……」
ダミアンさんに貰ったのだろうか、アーサーさんはグラタンらしきものが入ったお皿を手にしていた。作りすぎちゃったんでよかったら云々というやつかな。ご近所とは良好な付き合いができているらしい。お皿を右手に持ち替えて、左手をドアノブに伸ばす。
さあどうぞ、と迎え入れられてぼく達は家の中に入った。
この家で暮らし始めて今日で四日目。徹底的に掃除とコーディネートをしたらしく、平凡な家はすっかりアーサーさんの色に染まっていた。嫌だ嫌だと駄々をこねていたのが嘘のように、それなりに充実した暮らしを送っているようである。
ソファに血が付かないように、銀のローブを広げて敷いてからランスロットを横たえる。グラタンをキッチンに置き、手にしたものを救急箱に持ち替えたアーサーさんは眠っている傭兵のことをまじまじと見た。
「アニスさんに似ていますね、とても」
「あ、やっぱりそう思いますよね」
「なんだか、不思議な感じの方ですが……」
傷の状態を確認し手当てをするために、アーサーさんが服に手を伸ばしたところでランスロットが目を覚ました。銀に近い水色と気だるげな青白さが重なる。
「ごきげんよう、ランスロットさん」
「……は。……え。……あっ、ア、アーサー・クロックフォード!!」
あれ? フルネームは教えていないはずだよね。
自らの服に伸ばされていたアーサーさんの手を振り払い、ランスロットはソファのすみっこに飛び退いた。傷の痛む腹部を押さえつつ、己に触れるなと相手を威嚇する。
「あの、初対面の相手を前にして驚かれるのは当然だと思います。しかし、服を着たままでは手当てができませんので……」
「ボクに命令をするな」
「えっ、申し訳ありません。そのようなつもりでは。お願いをしたつもりだったのですが……」
「アナタがボクに命令をしていいわけがない」
丁寧に貼り付けられている愛想笑いが消えていた。そして眼光鋭くアーサーさんのことを睨みつけると、ランスロットは人並み外れた跳躍をして彼に飛び掛かった。
ぼくとナザリオが「あっ」と声を上げる間もなく、ランスロットはアーサーさんの胸倉を掴んで押し倒した。救急箱が床に転がる。
身を打って痛みに顔を歪める帽子屋のことを見下ろして、銀色の傭兵は言った。
「アナタは、ボクの王様じゃない」