第百六十八面 キミは知らなくていい
「先輩」
鬼丸先輩は売上リストをぱらぱらと捲っている。ぼくの呼びかけには答えずに、今度はクッキーの空き缶に入れられたお金を数え始めた。黙々と仕事をしているように見えるが、その顔には真剣さというよりも怒りが滲んでいる。
とてつもなく機嫌が悪そうである。
先輩と伊織さんの間に何があったのかは気になるけれど、詮索はしない方がいいだろう。墓穴を掘るか逆鱗に触れるか、そういう予感しかしないのだ。
「神山君」
「ひっ、はい」
「……キミは知らなくていいことだ。何も聞かなかったことにしてくれるかな」
十円玉を十枚ごとに纏めながら、こちらを一切向かずに先輩は言った。この半年で一番冷たい声音だった。凍ってしまいそうなほど冷え切っているのに、その内側では沸々と憤怒の炎が燃え上がっているようだ。
「ぼくは何も聞いてませんよ」
「そう。それならいいんだ」
先輩は百円玉を纏め始める。この怖い状態の先輩と、あとどれくらいの間店番をしていればいいのだろう。隣に座っているだけで緊張してしまう。接客なんてできるだろうか。
そんなぼくの不安なんてお客さんは知らないので、シフトに入っている間に数人が古本を見にやって来た。うまく対応できたのか自分ではよく分からない。隣にいる先輩が、たった一人なのに、クラスメイト達からの奇異の視線と同じくらいの圧力を放ち続けていたからだ。逃げ出さずに仕事を完遂したぼくは褒められてもいいと思う。
ひどく疲れたな……。状況把握も上手くできていない気がする。今のぼくに仮に作文を書いてくれなんて頼んだらできあがるのは陳腐な駄文だ。
シフト表を冷たい目で見ていた先輩がぼくの方を向く。
「神山君、そろそろ時間だね」
「そ、そうですね……。お疲れ様です」
ぼくが席を立つのとほぼ同時に、亀倉さんが音楽室に入って来た。デフォルメされた魚を模したヘアピンが前髪に光っている。
「おや、次期局長のおでましだ。やあ、亀倉さん」
「鬼丸先輩、神山君、お疲れ様です」
軽く挨拶を交わすと、すぐに先輩は売上リストの確認に戻ってしまった。音楽室を後にしようとするぼくに、亀倉さんはそっと耳打ちをする。
「ちょっとちょっと、神山君」
「何?」
「先輩、なんか怒ってない? 何かあったの?」
「寺園さんのお兄さん……伊織さんが来てて、ちょっと色々あったっぽくて……。ぼくも詳細は分からないけど、訊かない方がいいと思う」
「伊織さん、夏休みに会ったけどその時も先輩ぴりぴりしてたよね……?」
五円玉をいじっている先輩の方をちらりと見て、亀倉さんは「うん、分かった」と呟いた。
次期図書局長は、インドア派の多い図書局では珍しいアウトドアも大好きでアクティブな人である。グランピングの時も楽しそうだった。確か水泳部を兼部しているんだったかな。明るくて元気があって、人との交流も得意。あの状態の先輩が隣にいても難なく仕事をこなすだろう。でも、これはぼくの知っている範囲から考えたことにすぎないので、実際はあんなのの横にいたらそれなりに緊張自体はするのかもしれない。今だってパッと見てすぐに先輩の様子に気が付いたようだし、気になったからぼくに訊ねたんだよね。
先輩は五十円玉を突いている。
「亀倉さん、突っ立てないでここに来て座って」
「はっ、はい!」
やっぱり怒ってるね、刺激しないようにしとく。ぼくに向かってそう囁いて、亀倉さんは先程までぼくが座っていた椅子へ向かって行った。「頑張ってね」と口パクで返答し、ぼくは音楽室を後にする。
璃紗と琉衣は今どの辺りで時間を潰しているのだろう。探しながら、他のクラスや部活の展示を見て回るとするかな。
◇
去年のような悲劇に見舞われることもなく、中学校生活二年目の学校祭は無事に終わった。
「記憶力そのものに何かしらの影響がある?」
ありえなくはないな、と大和さんは呟く。
「俺は物理的に目玉を持っていかれたが、弟は外側よりも内側を大きく損傷したのかもしれない。虫ってもんは外は頑丈でも中身は柔らけえし……」
教室の片付けを終えてワンダーランドへやってきたぼくは、開け放たれたリビングの窓に青い蝶が留まっているのを見付けた。ニールさん曰く、外から窓を叩かれたので開けたら家に入り込んできたとのことである。ぼくが来るのを待っていたそうだ。
伊織さんのことはぼくと大和さんの秘密なので、今は洗面所に来て話をしている。お客さんを通すことのできる部屋がリビングと水回りしかないため仕方ない。
美しい翅の光沢が鏡越しにぼくのことを照らしてくる。モンシロチョウのような翅だとレフ版になるのかな。
大和さんは右前髪を軽く触る。
「人殺しか……。そっちの世界で何があったんだよ……。できることならそばに行ってやりたいけど、そうもいかないからなぁ」
「大和さんのことを訊いた時、無理に思い出そうとしていてとても苦しそうでした。でも、覚えてるはずだって言ってました」
「……苦しめたくはないけど、もう少し探りを入れてくれるか」
「善処します。どこまで分かるか分かりませんが」
なんだか諜報員になった気分だな。和服の人に頼まれているから雰囲気としては忍びと言った方がいいだろうか。
「チェシャ猫さんみたいに弟のことが特別大好きで大好きで仕方がないってわけじゃあない。けどよ、短い間しか共に過ごせなかった弟が遠くで暮らしているって分かってから、気になって気になって仕方がないんだ。お兄さんをこんなにしたのは有主君の所為だぜ。ちゃんと責任とってくれよな」
にひひっと笑った直後、大和さんは大きな欠伸をした。左目に薄っすら涙が浮かんでいる。
「寝不足ですか?」
「昨日の夜……いや、子供に話すことじゃないから教えねえよ……。そんな純粋無垢な目で見るな。俺はその目を向けるに値するような綺麗な人間じゃない……」
美しい翅を背負う蝶は自嘲気味に笑って見せた。ぼくが知る必要はないようだからこれ以上は訊かないでおこうかな。
一瞬沈黙が訪れ、そして、蛇口から雫がぽたんと落ちた。
その音に反応したのか、触角めいた跳ねた髪が小さく動く。あれは本当に触角なのだろうか……。ぼくの視線を振り払うように大和さんは洗面所を出て行った。なるべく奥に客人を通すなと言われているため、家の中を歩き回られては困る。ぼくはすぐに後を追う。
「有主君」
「はい」
「帽子屋さんは出かけているのか? 姿が見えないが」
「ちょっと、買い物に……」
切れ長とぱっちりのいいとこどりをした、長い睫毛で縁取られた目が細められる。
「ふーん、そう」
並んでリビングへやってきたところで、玄関のドアが叩かれた。ノッカーの音が響く。エドウィンやクラウス、それともコーカスレースだろうか。
リビングの出入口に佇むぼく達を押し退けてニールさんが応対する。家の前にいたのは数人の男達。見覚えのある制服姿で、険しい顔をして立っている。あれはどこで見た制服だろう。ぼくがここで、ワンダーランドで目にしたことのある制服の種類など限られているはずである。
隣に立つ大和さんが小さく「マズいな」と呟いたのが聞こえた。
「クロックフォードさんですね?」
「何の用だよ」
「ここにアーサーという男がいるはずだが、それはオマエか」
「俺はそれの兄だ。弟に何の用だ」
「弟はどこにいる?」
ニールさんの尻尾が不機嫌そうに揺れている。
「生憎留守だぜ。ちょっと野暮用でよ」
「では戻って来るまで待たせてもらおうか」
男達は強引に家の中に入って来ようとする。
思い出した。あの人達、警察官だ。ジャバウォックのようなものを従えたシルクハットの男が現れた件に関して、警察が近いうちに家に来る。ニールさんの言っていた通りだ。アーサーさんを街に行かせて正解だったみたいだね。
「しばらく帰ってこねえよ。出張なんだよ」
「どこへ行った」
「教えるわけねえだろ。知りてえなら弟を探す理由を先に教えやがれ」
喧嘩腰のニールさんに対して警察官達は苛立ちを隠せない様子である。警察の中でも獣に対して容赦ない人を寄せ集めたような雰囲気を放っている。この人達がこのまま引き下がってくれるとは思えないのだけれど、どうするのだろう。
玄関の様子を窺っていると背後から肩を叩かれた。
「有主君、お兄さんはこれで失礼させてもらうぜ。話は済んだからな」
「あっ、分かりまし……」
「おいっ! あれ芋虫じゃないか!?」
「うわ、やべえ見付かった!」
警察官の誰かが上げた声に大和さんは触角をぴんと跳ね動かして、絨毯に転がるナザリオを華麗に飛び越えて窓から出て行った。揉み合っていたニールさんと警察官達は手や足を止めて、大和さんがいなくなったぼくの背後を見つめている。
「オマエっ、芋虫のことも何か知っているのか!」
「知らねえよ。勝手に家に入って来ただけだ」
エドウィン曰く役場の職員を振り切って逃走しているとのことだから、警察にも要注意人物として目を付けられているのかもしれない。素性を明かすわけにはいかないから常に逃げ続けているのだろう。ぼくもその辺り気を付けないとな。
大和さんの代わりに、今度はルルーさんがぼくの背後にやって来た。朗らかな笑みは消えている。
「うわぁ、大変なことになってるね」
「なかなか引き下がってくれそうにないです」
「あまり長引かせると厄介だよ。ニールがキレ……。……えっ、何?」
「ルルーさん?」
うさ耳がびくっと震える。
「何か来る……! 音が……!!」
直後、家中の窓という窓がガラスを激しく鳴らした。突風に押され、家全体から軋む音が聞こえてくる。そして、外にいた警察官達が吹き飛んだ。巻き込まれそうになったニールさんは寸でのところで体を引っ込めたので無事である。
開いたままのドアの向こうでは葉や枝、小石が巻き上げられて踊り狂っていた。
声が聞こえた。否、咆哮だ。それは徐々に近付いてきている。吹き荒れる風を纏いながら、どんどん近付いてくる。
「ギャアアアアオオース……っ!」
来る……!!