第百六十七面 アンタが忘れるわけないだろ!
アーサーさんは街で無事に過ごしているだろうかなどと人の心配をしているうちに、ぼくは学校祭当日を迎えてしまった。
『学校祭』と書かれたアーチ状の飾りが校門に取り付けられている。去年パーカーを羽織って潜ったこの門を、今年は制服を着て潜るのだ。
「うちのクラスは企画展示だから特にやることはないけど、有主君は図書局の古本屋さんがあるんだったよね」
「うん」
頑張ってね、と璃紗は微笑む。万事うまくいきますように。
早めに登校して来ている文化委員会や生徒会の面々が、屋外の装飾を確認したり来客用受付の準備をしたりしている。行き来する彼らの邪魔をしないようにしつつ、ぼく達は玄関を目指す。
学校全体が浮き立っているようだった。ステージ発表を行うらしいクラスの生徒が数人、廊下の隅っこで台本の読み合わせをしているのが見える。
「おっす~。おはよー、有主、璃紗ちゃん」
「おは……ぐえっ」
教室までの道のりを歩いていると、後ろから駆けて来た琉衣に激突された。
「もう! びっくりしただろ。あと廊下走んな」
「わはは、そんなかわいい顔で膨れても怖くないぞお」
「おはよう琉衣君。体調は万全?」
璃紗に訊ねられて、琉衣は得意げに笑って見せた。
「万全万全。元気だぜ。今年はちゃんと最後まで参加してやるからな」
数週間前に倒れて入院沙汰になったのがまるで嘘のようだ。昨日も「明日が楽しみで眠れなくなりそうだな!」なんて言ってクラスのみんなに心配されていた。言い方は悪いかもしれないけれど、今回のことで多少は懲りたはずだ。もう体に鞭打って無理に頑張るのは控えるようにしてほしい。
ぼくの思いが通じているのか通じていないのか、見た目詐欺なアグレッシブっぷりを見せつけてくる幼馴染はちょっとだけ申し訳なさそうにそこそこいい顔を歪ませた。
「分かってるって、そんな顔すんなよ。なんか変だなーって思ったらちゃんと保健室行くってば。ま、今日はそんなことねえだろうけどな!」
昼食を買うことができるバザー会場になっている教室の前に差し掛かったところで、璃紗が立ち止まった。そして、すぐに歩き出す。どうしたんだろうと思いペースを落として歩き続けていたぼく達に数歩で追いつき、教室の方を指差す。
「お昼一緒に食べよう。有主君の当番は午後からだったよね。……琉衣君は?」
「俺は午前中少し美術室にいる予定。絵だけ放置するわけにもいかないから、交代で見ることになってて」
「んと、璃紗も仕事はあるんだよね?」
二年三組は企画展示だ。朝は一応教室に登校するけれど、展示物の調整が終わったらリュック等の荷物を空き教室に移動させる。四組と合同で金工室を使うはずである。その後は必ず見ることになっている同学年のステージ発表を観覧する以外はほぼほぼ自由行動となる。そうはいっても、琉衣が美術室に行くのと同じで、教室を放置するわけにはいかない。文化委員と学級委員長と数人の係が一時間おきに様子を見に行くことになっている。
璃紗は「大丈夫」と言う。
「ずっと見張ってるわけじゃなくて、ちらっと見に行くだけだから。二人の担当時間の間は空いてるよ」
「おー、じゃあ飯一緒に食おうな」
なんだか今年の学校祭は無事に過ごせそう。楽しみだな、って思えるようになれてよかった。
「神山先輩」
バザーで購入したペットボトル入りの紅茶を飲んでいると、寺園さんに声をかけられた。
午後、璃紗と琉衣と別れたぼくは音楽室の椅子に座っていた。本棚が並ぶ入り組んだ図書室を使うとお客さんの移動が大変なうえ机を並べるスペースも限られるため、古本市は音楽室で行われている。長机を並べ、そこにPTAと協力の元集められた本達が新たな主を待っている。
寺園さんは学校祭のしおりを手にしていた。廊下に一年生の女子が数人いてこちらを見ている。
「それじゃあわたし上がりますね」
「えっと……。まだ鬼丸先輩が来てないみたいだけど」
「うん? 先輩シフト表ちゃんと見ました?」
「へ」
ぼくは折り畳んで置いていたシフト表を広げて確認する。各々の拘束時間を短くしつつ、全員に割り当たるように先輩がくみ上げたシフト。局員を大きく二つのグループに分けていて、それぞれの交代が交互に来るようになっている。つまり、自分がシフトに入っている間にもう一つのグループが一回交代するのだ。
よく見てほしいと促され、ぼくは自分のシフトの周辺をまんべんなく見る。
「寺園さんが上がる時間と先輩が来る時間の間に空白があるね」
「二年生は一人の時間が発生するってこの間鬼丸先輩言ってましたよ」
ワンダーランドのことが気になっていて先輩の話が耳に入っていなかったようだ。しっかりしろ、ぼく。
「一人って言っても、そこにPTAの担当の人もいるからひとりぼっちってわけじゃあないですけど」
「ぼくの確認ミスだね。ごめん呼び止めちゃって。友達、そこで待ってるんでしょ? お疲れ様」
「お疲れ様です」
ぺこりとお辞儀した動きに合わせて、サイドアップにされている髪がぴょこんと跳ねた。廊下で待つ友人の元へ向かう背を見送って、ぼくは店番を再開する。
午前中はそれなりに人の出入りがあったらしい。ぼくが来てからは二人くらいかな。PTAの人も少し退屈そうだ。
高校の学校祭ならもっと人が来るんだろうなあ。対応に追われるのは嫌だけれど、暇なのも嫌だなあ。
本を読んでいてもいいかな、と思い始めたところで鬼丸先輩が音楽室に入って来た。
「お……お疲れ様、神山君……」
「お疲れ様です。……先輩既に疲れてる感じですけど大丈夫ですか」
いくつもの仕事を終えて来たかのように、見るからにくたびれた様子だ。いつもはきっちりと結んでいる制服のネクタイが緩んでいる。
先輩は眼鏡のブリッジを軽く押し上げる。
「いや……なんか……。うちのクラス……ステージ発表だったらしくて……」
自分のクラスのことなのに随分と他人事のように言うんだな。クラスメイトとの交流はほとんどないという話は聞いていた。まさか学校祭の準備にすら関わっていないのだろうか。
「手順は教えてもらったんだけれど、照明の扱いがなかなか難しくてね。近くにいたら暑く感じるし、暗がりだと照明以外が見辛いのなんのって……」
一応仲間には入れてもらえていたみたいだね。でもなんだかぶっつけ本番感が否めないな。
先輩はPTAの人に挨拶をすると、ネクタイを結び直しながらぼくの隣に座ろうとした。ところが、音楽室に入って来たお客さんを見てその動きが止まってしまった。やって来たのは伊織さんである。秋物のストールを首に巻いたおしゃれな出で立ちで、長い髪を肩の辺りで一つに束ねていた。歩くのに合わせてヘアゴムに付いた蛾の飾りが揺れ動いている。
眼鏡の奥の先輩の目が伊織さんを一瞬睨みつけたように見えたけれど、ぼくがもう一度見た時にはその敵意は消えていた。何事もなかったかのように、先輩は席に着く。
数分本を物色した伊織さんは、二冊を手にぼく達の待つ会計へ向かって歩いて来た。そこでようやく、店番をしているのがぼく達だということに気が付いたらしい。
「やあ、鬼丸君、神山君」
「……どうも」
「こんにちは。寺園さん、さっきシフト終わっちゃいましたよ?」
ぼくが妹の動向を伝えると、伊織さんは薄く微笑んだ。
「知ってるよ。あえてつぐみちゃんのいない時間を選んだんだ。僕が来たら緊張してしまうだろうと思ってね。両親も午前中に来てて、店番の時間と被らないようにしたはずだけど。……こういう学校行事で店番してる時に自分の家族が来たらなんだか恥ずかしいような照れくさいような気持ちになるだろう?」
確かにそうだ。今自分の両親がここで本を見ていたらきっと緊張する。参観日みたいな気分だね。
「この本をお願いするね」
ポケットサイズの蝶・蛾の図鑑と、手芸の本だ。髪飾りに蛾をよく用いているし、自覚がなくても蝶や蛾に本能的に惹かれているのだろうか。
会計を済ませて立ち去ろうとした伊織さんのことを先輩が呼び止める。
「……神山君、ボクちょっと抜けるね」
「えっ?」
「伊織さん、話があります。準備室へ来てください」
持ち場を離れていいのかな。PTAの人も暇を持て余して船を漕ぎ始めてしまっているし、ちょっとだけなら問題はなさそうか。
ぼくが了承すると、先輩は伊織さんを連れて音楽準備室へ入って行った。
ベートーベンやモーツァルトの肖像画を見ながら時間を潰す。ぼくは本が好きだからついつい本に注目してしまうけれど、音楽や絵画も長い時を経てなお色褪せないものがたくさんあるよね。作った人はもちろんすごい。そして、それを残してきた大勢の人の力によって今のぼく達が楽しむことができるんだよな。こうして今ぼくが眺めている、壁に貼られた楽譜の曲だっていつかは古の名曲になるかもしれないのだ。吹奏楽部が練習中のアイドルの曲だって言っていたかな、確か。
「覚えてないっ!?」
準備室から先輩の声が漏れ聞こえて来た。
「どうして!? そんなっ……!」
伊織さんは普通の声量で返答しているらしく、叫んでいる先輩の言葉だけがぼくの耳に届く。
「ふざけんな人殺しがっ!!」
どういう状況なんだ。二人の会話の内容は全く分からないけれど、放置しておくと危険な予感がしてきた。お客さんが来ていないのを確認し、PTAの人がうつらうつらとしているのを横目に、ぼくは準備室の戸を開けた。
「アンタが忘れるわけないだろ! なんで……なんで……」
先輩が伊織さんのストールを掴んで引っ張る。怒っているようにも、泣いているようにも見えた。対して、伊織さんは先輩の行動が理解できないといった様子だ。困惑し、狼狽えている。二人共ぼくのことには気が付いていないようだ。
大事な話を先輩が振って、伊織さんに意見を求めたが「知らない」と言われた、という感じだろうか。物々しい単語が見え隠れしていて、あまり踏み込んではいけないようなデリケートな内容だと考えられる。ここで立ち聞きはすべきではない。
でも、このままにもできないな。
勢いそのままに今にも殴り掛からんという先輩に駆け寄り、伊織さんから引き剥がす。
「神山君っ!? いつから……」
「ついさっきです。駄目ですよ先輩、暴力は」
「っ……。離せ! 何も、何も知らないくせに……。……いや、キミに当たるのは間違ってるな」
先輩はストールから手を離し、数歩退く。
「鬼丸君」
「……神山君が来てしまったので今日はこのくらいにしておきます。後日、またお話したいんですけどいいですか?」
「僕は何も覚えていないんだ」
「……アナタは酷い人ですね」
そう言って伊織さんのことを一瞥すると先輩は音楽室へ戻って行ってしまった。準備室には楽器達と一緒に沈黙する伊織さんと、おろおろするぼくが残される。
ワンダーランドからこちらへ来る際に、何らかの事故があったと大和さんは言っていた。その所為で伊織さんはワンダーランドのことを覚えていないのだろう、と。覚えていないのはそれだけなのだろうか。
先輩がいつもいつも伊織さんのことを睨みつけているのは、おそらく今日訊ねたことが原因なのではないかと考えられる。以前二人の間で何かがあって、先輩はそのことをずっと根に持っている。「忘れるわけない」くらいの出来事だったのに、覚えていないと彼は答えた。ワンダーランドの外に出た時の事故で、記憶力そのものに影響が出ている可能性もあるのかもしれないな。
「人殺し……? 僕が?」
痛みがあるのか、ストールを巻き直していた手が頭に当てられた。僅かに表情が歪む。
「大丈夫ですか?」
当たり障りのない言葉を選んだ結果、ぼくの口から出たのは平凡な質問だった。
「大丈夫だよ。神山君も仕事に戻った方がいいんじゃないかな。僕は、平気だから……」
ぎこちない笑みを浮かべて、伊織さんは踵を返した。ストールを揺らしながら音楽準備室を出て行く。
平気ではなさそうだったけれどな……。
先輩に呼ばれ、ぼくも準備室を後にした。