第百六十六面 気軽にぽんぽん使ってくれたまえ
旅行鞄に目いっぱい物を詰め込んだアーサーさんがリビングへ入ってくる。荷物は全部で三つ……いや、四つある。
「慌てて準備をしたので、何か足りないものがあるかもしれないのですが」
「馬鹿弟オマエすげえ大荷物だな」
「な、何を用意すればいいのか分からなくて。……ああ、そうでした。アリス君、キッチンからカップとソーサーを持ってきていただけますか?」
抱えていた鞄を下ろして、アーサーさんは左手の人差し指を立てて空に円を描く。
「黄緑のラインの入ったやつですね」
「えぇ、そうです。お願いしますね」
お気に入りのカップとソーサーは忘れずに持って行くようだ。お茶会セットはテーブルも椅子もお皿も、なんだってどれだって彼の大事なコレクションである。その何割かが不慮の事故によって失われた時の落ち込みようは今でも思い出すことができる。あの時も大変だったな……。
キッチンから取って来たカップとソーサーを差し出すと、アーサーさんはそれらを丁寧に紙に包んでから鞄の空きスペースに突っ込んだ。ご丁寧に十分な広さが準備され、周囲は柔らかなジャケット類で囲まれている。お気に入りはそこにすっぽりと収まった。
「では、いってまいります。紅茶のためです」
「おう、いってらっしゃい」
みんなに見送られたアーサーさんに続いて公爵もリビングを出て行く。否、出て行こうとした。廊下に一歩踏み出したところで踵を返し、お腹を揺らす勢いでぼくの目の前にやって来たのだ。突然迫りくる公爵に驚き狼狽えるぼくの手を取り、引っ張る。
「何をしている。アレクシス君も行くのだろう」
「……は。えぇ!?」
「なぜ驚く。チェスが出るから帽子屋は街へ行くのだろう? 彼の姿では人間と間違われるから。君はトランプなんだから、君だってここにいては危ない。帽子屋と一緒に街へ行くのではないのかね」
公爵の判断は何一つ間違ってはいなかった。出会った時には疑いの目を向けられていたけれど、今ではぼくはチェシャ猫と帽子屋が拾って面倒を見ているみなしごのアレクシス少年だ。トランプに間違われる獣の帽子屋が森を出るのなら、彼と暮らしているトランプの少年も一緒に街へ行くべきである。
アーサーさんの身の安全ばかりを考えて後のことを考えていないと、ニールさんのことを指摘していた自分も結局は同じだった。自分自身は関係ない話だと思っていた。なぜならぼくはトランプではないからだ。だがしかし、トランプから見ればぼくもトランプなのだ。
助けを求めてニールさんの方を向くと、ついっと目を逸らされてしまった。薄情だ。
ぼくはパーカーの襟元に付けている黄色のダイヤのブローチに触れる。ぼくがここにいるための証。ぼくがトランプであると示す証。
公爵の向こう側で、廊下からアーサーさんが心配そうにこちらを見ていた。そして、きりりとした顔になると大丈夫だよというように力強く頷いて見せたのだ。
何か策があるのかな。
「何をしているのです、行きましょうアリス君。さあ、これが貴方の分の荷物ですからね。適当に詰めたのですが、おそらく問題はないと思います。足りなければ買えばいいのですから」
「ふむ。帽子屋もこう言っているではないか。外で待っているぞ」
公爵が玄関から出て行ったのを確認してから、ぼくはアーサーさんに歩み寄る。
「あのぅ……」
「変な動きは見せない方が良いでしょう。ひとまずは公爵に従うべきです。夜になるまでには帰ることができるようにしますから。お願いしますね、兄さん」
「……はいはい。適当なタイミングでアリスを連れ帰ってくりゃあいいんだろ。任せとけ」
「では行きましょう、アリス君」
リビングにいる三人に「いってきます」と言って、ぼくは玄関へ向かった。
ドアを開けると、石畳の奥にブリッジ公爵家の馬車が停まっているのが見えた。黒、赤、赤、黒の順に並んだカードを模した絵が車体に描かれており、黒のスペードが添えられている。
四人乗り、だよね……。
「小僧共、さっさと乗れ」
「ラミロさん、これって全員乗れるんですか? ぼく達が乗っちゃったら……」
「ワタシとマレクが乗ったら帽子屋の小僧が暴れるだろ。我々は御者の脇に乗るから大丈夫だ」
ラミロさんは馬を撫でている御者さんのことを指差す。
「ワタクシ達は見ての通り体が小さいため、ある程度の余裕があれば座れるのだよ」
「ほら、分かったらさっさと乗った乗った」
カエルと魚に促され、ぼく達はブリッジ公爵家所有の豪奢な馬車に乗り込む。
蒸気自動車がかなり普及した中でも、貴族達の間では立派な馬車はステータスであるし、街の中を走る辻馬車は庶民に人気の交通手段である。車貸しもいるらしいけれど、そもそも運転できる人はひと握りなんだろうな。行先を告げるだけで自分の技量に関係なく目的地まで運んでくれる馬車はまだまだ廃れないだろう。
車内でブリッジ公爵夫妻はピーターの話を中心に盛り上がっている。一方、アーサーさんは窓の外を眺めて黙っていた。何か考えているのか、それともうたた寝しているのか、ただ単におとなしくしているだけなのかは分からない。話しかけづらい空気を醸し出していたので、ぼくも黙って窓の外を見ることにした。
車窓から見える景色は一面の緑だった。次第にそれがまばらになってきて、石造りの建物がちらほらと姿を現し始める。
そうして、馬車はとある家の前で停まった。
「それじゃあ、アーサー、アリス君、ごきげんよう」
「エドウィンには私から話をしておこう。ふん、私に片棒を担がせたんだ、ボロを出すんじゃあないぞ」
アーサーさんに合鍵を渡すと、公爵夫妻は馬車の車輪をがたころと鳴らしながら去って行った。
「後で馬鹿猫が迎えに来るはずです」
家についての手続きは公爵が既に済ませているとのことなので、このドアを開けた途端にここでの生活が始まるのだ。
「……公爵のことをどれだけ信用していいのか分かりませんが、今回については感謝しなければなりませんね。迷惑をかけないためにも、私が帽子屋であることはしっかり隠し通さねば」
帽子を深く被って顔を隠そうとして、鍔にのばしかけた手が空を掴む。それもそのはず、今のアーサーさんは帽子を被っていないのだから。おまけに伊達眼鏡をかけていて、服装もお堅いフロックコートではなくラフなジャケット姿だ。
慣れない眼鏡のブリッジを押し上げて、小さく溜息を吐く。
「これで上手に変装できているのでしょうか」
「知り合いにはバレると思いますけど、これから会う人にはこういう人だって認識されるんじゃないですか」
「そう……ですかね……」
ドアに鍵を差し込もうとしたところで、近所の人らしい若い男から声をかけられた。紙袋を抱えていて、どうやら買い物帰りらしい。
「おやっ、もしかしてここに引っ越してきたのかい?」
「こんにちは」
「俺はダミアンっていうんだ。ダミアン・トゥイードル」
小太りのお兄さんはそう名乗った。妙に聞き覚えのある苗字である。『鏡の国のアリス』に、トゥイードルダムとトゥイードルディーという名前の双子と思しき二人組が登場する。このワンダーランドでのおかしな二人、その片割れなのかもしれない。
アーサーさんはダミアンさんに向き直ると、眼鏡をかけていることをアピールするように軽くテンプルに触れた。
「トゥイードルさんですね。わた……僕はマーリン・キングスレーです。よろしくお願いします。……こっちは甥っ子のアレク君」
「りょ、両親が忙しいのでしばらく叔父さんのところでお世話になるんです」
「そうかそうか。うんうん。よろしく!」
紙袋を抱えて、ダミアンさんは数軒先の家に入って行った。ぼくがそれを見送っているうちに、アーサーさんは鍵を開けて荷物を運び込み始めた。ぼくの分だということになっている小ぶりの鞄を手に、ぼくも家の中に入る。
夫人の言っていた通りテーブルや椅子はある程度揃っているようだ。少しぼろっちい感じだけれど、住めば都という言葉もあるし、汚い印象はない。レトロ、と言えばいいのかな。アンティーク?
最後の荷物を手にアーサーさんがリビングに入ってくる。
「のんびりできそうな家ですね。一休みしたらお茶を飲むとしましょう」
「……あの」
「はい?」
「どうしてさっき、近所の人に『マーリン』って名乗ったんですか。その……一月の裁判の時にマーリン・キングスレーなるトランプはいないって知られちゃったじゃないですか。さっきのお兄さんがどこで何してる人か分からないのに、その名前を使うのは危ないと思います」
ダミアンさんが裁判の傍聴に来ていた可能性もあるし、裁判所の関係者である可能性だってあるのだ。王妃の裁判所が動いたこと自体が大事なのだから、仮に見ていたとしたら忘れることはないと思われる。マーリンという名前を騙ったドミノがいたということを。
大きな鞄を床に下ろして、アーサーさんはどこか遠くを見るように窓の方を向いた。
「いいえ、問題ありません。この名前を使う際に私が偽装していたことは『ドミノである』ことではなく『アーサー・クロックフォードである』ということだからです。『ドミノである』ことを偽ったのはイレブンバック氏の元へ注文に行った際だけであり、過去数年を遡ってもあの時だけのはずです。なので大丈夫……。おそらく……。上手くいかなかった場合はその時考えるとしましょう」
妙にこの偽名にこだわりがあるんだな。ずっと使ってきているようだ。
「『君がこの先、もしも自分の名前を使えないなんて時が来たら、その時には僕の名前を名乗るといい』と、『気軽にぽんぽん使ってくれたまえ。減るもんじゃないし』と、彼は言っていました」
「彼」
「……あまり人に話すのはよくないですね。アリス君、忘れてください」
お茶を淹れて来ます。と言って、アーサーさんは逃げるようにキッチンへ入って行った。料理用具や食器類もあらかた揃えてあるらしく、かちゃかちゃと準備をする音が聞こえて来た。
マーリン・キングスレーは実在の人物なのだろうか。気になるけれど、たぶん教えてはくれないだろうな。
何気なくパーカーのポケットに手を突っ込んだぼくは、指先に硬いものが触れたのを感じて思わず声を上げてしまった。自分でポケットに入れて持ってきたのに、それを忘れてびっくりするなんて情けなさすぎる。
「アリス君、どうしました。変な声が聞こえましたが」
「なんでもな……いや、なんでもなくはないんです。あの、よかったらこれ貰ってください」
心配してキッチンから出て来たアーサーさんに、ぼくはポケットから出したものを渡す。
「これは、スートですか?」
「渡そうと思ってたんですけど、タイミングがなかなかなくて」
手芸屋さんへ行った時、帰り際に買ったものだ。黄緑色のスペードを模した飾りである。金色の枠の中に艶やかな緑が光る、おそらくレジン細工の小物。見本的な意味で置かれていたもので、お手頃価格で籠の中に盛られていた。店員さんに腕のいい人がいるのだろう、値段のわりに出来がいい。
街へ行くとなったらスートが必要だ。もしかしたら使うかも、と思って買っておいてよかった。
アーサーさんはぼくの手から黄緑のスペードを受け取る。
「こういうの持ってた方がいいですよね?」
「そうですね。明日にでも適当なものを買いに行こうかと思っていたのですが……。いただいてよろしいのですか?」
「はい」
「ふふ、ありがとうございます」
ニールさんが迎えに来たのは、ぼくがお茶を飲み終えた頃だった。