表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
二十一冊目 溺愛ティータイム
167/236

第百六十五面 それ以上でもそれ以下でもない

「奥様、帽子屋の小僧がようやく決めたので旦那様に報告してきます」

「へっ!? ちょっと待ってくださいラミロさん、ブリッジ公も関わっているのですか」

「当たり前だろ。こんなに家を手配なされたのは旦那様だぞ。今お連れするからちゃんと礼をしろよ」


 待って! というアーサーさんの叫びは公爵夫人の「いってらっしゃーい」で遮られてしまった。ラミロさんがリビングを出て行く。


「馬鹿猫は知っていたのですか」

「初耳だけど、まあ公爵がやってくれたんだろうなあとは思ってた」

「私が主人にお願いしたのよ、感謝しなさいよね」


 それだけ答えて、二人は再びもつれあい始めた。アーサーさんは額に手を当てて首を横に振る。


 夫人の旦那さん、ホイスト・ラバー・ブリッジ公爵。ブランシャール家などの有力なドミノと協力関係を築きながら、国土のほとんどを占める森を管轄している。所領がとても広いと言えば聞こえはいいけれど、実際のところは分割してドミノに管理させているうえにお屋敷は兎の庭の敷地内にある。チェスの被害が多発しているから最近は忙しいと先日夫人が語っていた。


 ぼくはあまり公爵に会ったことがない。初めて夫人に会った日、公爵にも挨拶をしている。それからはちゃんと顔を合わせたことは滅多になくて、夫人のログハウスに稀に姿を見せる彼と軽く言葉を交わす程度である。こんにちは、ごきげんよう、そんな感じの一言二言。ぼくがみなしごのアレクシス少年であると認識されるまでは怪しい子供だと警戒されていたため、会わないようにしていたからというところもあるのだけれど。今でも少し不審に思われていそうでちょっぴり苦手だ。


 クロックフォード兄弟も公爵との接触は常に避けているように見えた。ニールさんは夫人とのことを隠しているつもりなので分かる。アーサーさんはどうしてだろう。


 ルルーさんが胸の前でわたわたと慌てたように手を振った。


「こっ、公爵が来るのぉ!? またお見合い写真投げ付けられたらどうしよう。僕今度こそ公爵の顔面殴りつけちゃうよ!」

「はっきりとお断りすればいいのでは」

「断っても断っても『じゃあこっちは?』って持ってくるんだよ。僕だって良家のお嬢様だからね、そういう身分だってのは分かってるんだけど……。でも、僕は……!」


 やけにキラキラした目をアーサーさんに向けてから、すっと視線を逸らす。僕は……何なんだろう? 続きを言うつもりはないらしく、ルルーさんは黙ってしまった。


「あの、アーサーさん」

「はい、何でしょう」

「さっきからずっと気になってたんですけど、ルルーさんやラミロさんが隣にいても平気なんですか?」

「……ぅあ」


 教えなければよかった。


 がたたんと音を立てて椅子から立ち上がり、アーサーさんはキッチンへ引っ込む。家の話をしている間は大丈夫だったのだから、何かに集中しているとドミノのことも気にならない程度には回復しているのかな。





 しばしの後、ラミロさんがブリッジ公を連れて戻って来た。公爵の隣にはマレクさんが控えている。


「ごきげんよう諸君」


 ちょっと前に出てきているお腹を揺らし、カイゼル髭を撫でながらの登場である。


「ミレイユ、久方ぶりだな。息災か」

「えぇ、ご覧の通り元気いっぱいですわ」


 先程まで絡み合っていたのが嘘であるかのように、夫人は優雅に微笑んで見せた。いつだって夫人に対して激しくも優しく触れているニールさんは、彼女のドレスや髪がなるべく乱れないようにしている。そのため、軽く整えればこうして誤魔化すことができるのだ。


 対して、ニールさんは服も髪も急いで整えようとしたのが分かるくらいまだまだ乱れていた。顔も少し赤く、息も上がっているようだ。


 公爵は加えていたパイプをマレクさんに渡すと、飼い主と猫の座るソファへ歩み寄った。


「チェシャ猫」

「っ……!」


 伸ばされた手が容赦なく猫耳を鷲掴みにする。


「な、何をなさるのですかホイスト様っ!」

「ミレイユは黙っていなさい」


 猫耳と周囲の髪を掴んで顔を上げさせ、公爵はニールさんのことを真っ直ぐに見下ろした。ぼくと並んで食卓テーブルに着いているルルーさんが「痛いよあれめちゃくちゃ」と小さく呟く。


 これは修羅場なのかもしれない。おじさんとお姉さんという歳の差夫婦と、妻の方と逢瀬を重ねているお兄さんがいる。夫がやってきたのは、妻と相手の男がつい先程までいちゃついていた現場である。夫は冷たい視線で相手の男を見ていて、相手の男の方は夫のことを睨みつけている。猫耳を掴み上げられているのだから敵意を向けるのも当然だ。二人の男が視線をぶつからせている横で、妻は不安そうにしている。


「たくさん遊んだ子猫のように興奮冷めやらぬようだな、チェシャ猫」

「離せ」

「だが貴様はちゃんと弁えているようだから、干渉はしないでおいてやる。ただ……」


 ぐっと顔を近付け、公爵の目が鋭くなる。


「一線を越えようものならただじゃ済まないぞ」

「ははっ、どこの線だよ。線なんてたくさんあるぜ」

「ふんっ。ミレイユも粗暴な猫には気を付けるように」


 あくまで飼い主と猫なのよ、といつもなら言いそうなところだけれど、夫人は困った顔で黙っているだけだった。


 公爵は放り投げるように猫耳から手を離す。


「っんのくそおやじぃ……! いってえだろ!」

「待って、待ってニール。……ホイスト様、私とチェシャ猫のこと」

「公爵家の者だからとお高く留まる必要はない。ドミノの友人の一人や二人いても構わん」

「……ありがとうございます。私、貴方が夫でよかったと思っていますわ。ふふ、大好きよ」


 朗らかな笑みを湛える夫人を見て、公爵は照れ隠しをするかのように頭を掻いた。なんだかんだでこの夫婦の関係は良好なんだろうな。おじさんにもちょっとかわいいところがあるみたい。


「ブリッジ公」


 キッチンからアーサーさんの声が聞こえた。


「ごきげんよう、公爵。このような場所から大変申し訳ありません……」

「帽子屋か。なるほど聞いた通りだな」

「はい、恐れ入ります……。アリス君、コーヒーを淹れたので公爵のところまで運んでいただけますか」

「はーい、分かりま……」

「構わんよ、私が取りに行こうではないか」


 ひえぇ。という小さな悲鳴が聞こえたが、公爵は立ち上がりかけたぼくを座らせてキッチンへ入って行ってしまった。軽い挨拶と、食器が触れ合う音。そして、公爵はカップとソーサーを手にリビングへ戻ってくると、眠っているナザリオの隣に腰を下ろして優雅にコーヒーを飲み始めた。


 アーサーさん、自分ではコーヒーを飲まないのに淹れるのは上手なようだ。カップを傾ける公爵は満足気である。


「ふむ、たまにはコーヒーもいいな。これを飲んだら行くとしようか。なあ、帽子屋」

「は……。どちらへ?」

「新居が決まったのだろう? 馬車で運んでやると言っているんだよ」

「……今ですか!?」

「そのためにわざわざここまで来てやったのだが」


 公爵の脇に控えるマレクさんがうんうんと頷いた。ラミロさんもそれに応えるように頷く。


 キッチンからの返答はない。


「家財道具は一式揃えてあると伝えたでしょう? 服とか雑貨とか、持って行きたいものを纏めてくれればすぐに案内できるのよ。ほら、ほらアーサー、紅茶のためなのでしょう?」


 夫人の言葉を受けて、キッチンから物音が聞こえて来た。ひょこっと顔を覗かせたアーサーさんが公爵を見る。


「紅茶のためです。承知いたしましたブリッジ公、早急に準備を整えます」


 ドミノから一定の距離を取りながら、アーサーさんはキッチンからリビングを抜けて廊下へ出て行った。見ていると本当に心配だし不安になってくる。紅茶のためだと言ったらどこまで行けるのだろう。時折放つ威圧感や怒ると口調が荒くなるところなど、根っこの部分はニールさんと似ているのだ。本気を出したニールさんが何やら危なそうな雰囲気で語られているのを考えると、アーサーさんも極限まで達するとどうなるか分かったもんじゃないよね。


 泣き崩れてから同じく崩れていた丁寧な言い回しは元に戻っているから、紅茶切れを起こしているものの今のところは落ち着いているようだ。


 公爵の手前、ニールさんを撫で繰り回すのをやめていた夫人がフリルを揺らしながら立ち上がった。


「ホイスト様、私は先に馬車で待っていますわ。帽子屋を案内した後、たまには一緒に街を散策いたしませんこと?」

「分かった。そうしよう」


 それではお先に失礼します、とカーテシーをして夫人はラミロさんと共にリビングを後にした。その後ろ姿を見送って、公爵はほうと一息吐く。


「チェシャ猫」


 呼ばれて、まだ痛むらしい猫耳の周辺をさすっていたニールさんが不機嫌そうな顔になった。


「公爵、アンタ俺とミレイユのこと知ってたのか」

「もちろん」

「知っていて黙ってたのか」

「別に、猫が飼い主にじゃれているだけだろう。それとも、貴様とミレイユはそれ以上の関係だとでも?」

「いや……」


 コーヒーカップを見つめる公爵はちょっぴり寂しそうに笑った。残りのコーヒーを飲み干し、カップをソーサーに置く。


 そんな公爵の動きを警戒するように、ニールさんは彼から目を離さない。


 隣で眠り続けているナザリオが身じろぎしたのを合図に、公爵が顔を上げた。真っ直ぐにニールさんのことを見ている。やや後退しかけている額を触って、徐々に前方に出てきているお腹をさすって、そして、カイゼル髭を撫でた。


「私では、ミレイユの腕の中を埋めることができない。なぜなら私は人間トランプだからだ。……あの子はずっとダイナを思い続けている。小さな猫が彼女の心の大部分を占めていたのだと言うことは分かっているよ。婚約した時からずっと、彼女は何かが欠けてしまっているように思えてならなかった。私のことを愛していると言ってくれるし、ピーターが宿った時にもとても嬉しそうにしていた。それでも、何かが足りない。何かが、なかった……」


 マレクさんにパイプを催促しかけた公爵だったが、ルルーさんに「この家は禁煙です」と止められてしまった。持て余した手を再びカイゼル髭に当てて、続きを語る。


「ある時を境に、ミレイユはよく笑うようになった。ドミノ達から寄せられた証言によると、どうやら猫の男が彼女と逢瀬を重ねているらしい、と。曰く、飼い主と猫なのだ、と。それならば、じゃれているだけならば、愛人などではないと……そう、自分に言い聞かせて……」

「あぁ。俺とミレイユは猫と飼い主だ。それ以上でもそれ以下でもない。撫でる側と撫でられる側、それだけの関係だ」

「すましていても美しいが、笑っているとよりかわいらしいだろう、彼女は。私は、彼女には笑顔でいてほしいのだよ。貴様と過ごしていると彼女も楽しいだろうしな。……そう、だから」


 髭から手が離される。


「ミレイユとこれからも仲良くしてやってくれ、ニール・クロックフォード」

「へへ、飼い主を喜ばせるのは飼い猫の仕事だからな。任せとけよ公爵」

「ミレイユのことをよろしく頼むよ。もしも私が……」

「……おっと、それ以上言うと豊かな腹に穴が空くぜ。アイツの旦那はアンタなんだ。一番傍で守るのはアンタの仕事だ」

「ふむ。はは、そうだな」


 一時は修羅場になってしまうかと思ったけれど、丸く収まったみたいだね。公爵はお腹を揺らしてわははと笑う。しかし、ニールさんは真剣な顔でじっと公爵のことを見ていた。


 アーサーさんがリビングに戻って来たのは、そんな話し合いが丁度終わった頃である。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ