第百六十三面 暴君
「ジャバウォック……のようなもの。それがまた頻繁に目撃されるようになっていて、やっぱりシルクハットの男が一緒にいるんだとよ」
姿の見えぬ忌々しき敵を描きながらニールさんは言う。今にも呪いが発動して大暴れしそうだけれど、ぼく達に話をしなければという思いでどうにか留まっているようだった。
昨年末、アーサーさんが誤認逮捕される原因となったのがジャバウォックもどきを引き連れた帽子の男である。チェスの被害が増えるのに対してこちらの目撃情報は激減していた。しかし、再び姿を現すようになったらしい。
「一体全体どこのどいつなんだ。アイツが敵だ。アイツが帽子屋の。だから、アイツは俺の手で殺す……」
「ニール、脱線しないで話続けてね」
ルルーさんの声に猫耳がぴくりと動く。
「分かってる……。それで、また一部の人間達の間で帽子屋のことが話題に上がってるらしいんだよ。帽子屋がジャバウォックをけしかけてるんじゃねえかって。くそっ、そいつらも敵だ!」
「まあまあ、お茶でも飲みなよ」
勧められてお茶を飲んだものの、カップは勢いよくソーサーに下ろされた。
「ほらほら、ケーキも食べなよ」
「いい。もういいから、落ち着いたから大丈夫だから……強引に食わせようとするんじゃねえよ!」
ロールケーキをニールさんへ押し付けていたルルーさんが綺麗に引き剥がされる。ところが、ルルーさんはフォークを手に負けじとニールさんへ襲い掛かった。抗議しようとして開けられた口に問答無用にロールケーキがひとかけ押し込まれる。
もう一口! と迫るルルーさんを撃退して、ニールさんはもぐもぐとケーキを咀嚼する。
「どこまで話したっけ……。あー、えーとな。不審な帽子の男についての調査自体はずっと続いてたんだが、しばらく姿を見せていなかったから難航してたんだ。それがようやく姿を現した。問題はそのタイミングなんだ。地下鉄襲撃事件の被害者のことはトランプも獣もしっかり警察が把握している。つまり、帽子屋が襲われたということも」
「もしかして、アーサーさんが被害に遭ってから、帽子の男の目撃情報が増えてるんですか」
「そうらしい。バンダースナッチに襲われたというのは自演で、チェスと連絡を取っているのではないかとかなんとかほざいていやがるやつらもいてな、その場で殴り掛からなかった俺は偉いと思う」
「その場で? そういえばニールさん、昨日話してたやつもそうなんですけど、どこでこんなに情報集めて来たんですか?」
ぼくが訊ねると、ニールさんは得意げに笑って見せた。
ルルーさんから取り返したフォークでロールケーキを突いて頬張りながら、にやにや笑い始める。この笑い方は対象を嘲笑っている時のにやにやだ。
「警察署の中を探索したんだよ。あれくらいの警備なんて簡単にすり抜けられるし、見回りの警官が来るまでに与えられた部屋に戻れば問題ねえしな。で、色々漁ったり聞き耳立てたり」
ニールさんが凄腕なのだろうか、警察ががばがばなのだろうか。見付かったらそれこそ逮捕されそうだけれど……。
うとうとし始めていたナザリオも、勢いのありすぎる情報収集の方法に目を丸くしている。
「俺が帽子屋を強引にでも街へ行かせようとしているのは、近いうちにここへ警察が来るだろうと判断したからだ。今度もまた無理やり連れて行くに決まってる。ドミノの扱いなんてそんなもんだ」
「なるほどなるほど! アーサーを街へ行かせてあげたいのは、森にいるとチェスの被害に遭う可能性があるから。どうしてそんなに必死なの? っていうのは、帽子の男の件で警察がここへ来るかもしれないから、ってわけだ! 二つのこと……いや、同じようなことだから一つでいいのかな。まあいいや。そういう理由で、ニールはアーサーのことを守ってあげたいから出てけって言ったんだね」
「そうだ」
「でも、チェスから逃がすためなら分かるんだけど、警察の訪問を振り払うんなら街へ行ったら危ないんじゃないの?」
ルルーさんの質問に、ニールさんは小さく首を横に振った。銀に近い水色の瞳は、ロールケーキを完食してフォークだけが載せられているお皿を見下ろしている。
警察が絡んでくるのなら、街へ行くのは捕まりに行くようなものだ。けれど、ニールさんがわざわざアーサーさんに危険な道を歩ませるはずがない。警察の目をかいくぐるだけが目的なら、森の中にだって選択肢はたくさんある。チェスから逃げることだけが目的なら、街へ行くのが一番だろう。警察とチェスが立ちはだかった今、ニールさんが選んだのは街だ。街にはトランプがたくさんいるし、警察の目だって光っているのに。チェスの方が厄介ということなのかな。
いや、待てよ?
「木を隠すなら森の中ってことですか」
ニールさんがにやりと笑った。尻尾が揺れる。
「チェスも、警察も、両方から逃れるためには、街に行くべきなんですね」
「分かってるじゃねえかアリス、そうだよ」
「街の中に入ってしまえば、アーサーさんならトランプに溶け込める。見付けることが難しくなる。そうですよね」
「そういうことだ」
「理由をちゃんと言えば、アーサーさんも分かってくれると思いますけど」
昨日のような騒ぎを起こさずとも、これこれこういう理由があるのだと説明すれば、「なるほどそうですか」と言ってくれるだろう。けれど、そうもいかないらしい。ニールさんは頷かなかった。
お皿に向けられていた目がぼくを捉えた。ティーカップに口を付けて今まさにお茶を飲もうとしていたぼくは、その視線に思わず動きを止めてしまう。
「追い出さないとアイツは動かねえよ。というか、説明したら余計大暴れするに決まってんだろ」
「えっと……?」
「不安定な今のアイツに『年末みたいなことになるかも~』なんて言ったら大混乱だぞ。どんだけ狂っちまうか俺にも未知数だ。詳細は語らずに、『出てけ』っていうしかねえんだよ」
きつく当たっているように見えていたけれど、やっぱり本当はアーサーさんのことが大事なんだ。心配であるが故に、悩み、考えて、導き出した答えが「追い出す」なのだ。
トラウマにトラウマを塗り重ねて浴びせたら、絶対にとんでもないことになるだろうという予想はなんとなくできる。伝えるべきものと伝えてはいけないものとを選別しなければ、今の彼には情報量が多すぎるばかりか、多大な負担をかけてしまう。
ぼくはお預けを喰らう形になっていたお茶を一口飲んで、カップをソーサーに置く。
「それが、アーサーさんのためになるって、ニールさんが出した苦渋の決断ならぼくはもう何も言いません」
「アリス……」
「うんうん! 体も心も安全安心なのが一番だよね! なるべくそうなるような方法を選ぶしかないよ!」
「不安が減って、ぐっすり眠れるといいねえ」
「オマエら……分かってくれるのか……!」
ニールさんの表情が、ぱあっと明るくなる。
「持つべきものは肯定してくれる友人だな! 反論しようものならここで乱闘になるところだった」
「ニールって暴君っぽいところあるよね。僕達が友達でよかったね」
「聞こえなかったからもう一回言ってみろ馬鹿兎。言えるもんならな」
「そういうところだよ」
やれやれと呆れるルルーさんに対して掴みかかるようなことはしない。今の挑発は冗談だったようだ。
「問題は、どうやって帽子屋を追い出すかだ」
「出て行けー! って言ったら昨日みたいになるんでしょ? 僕昨日見てないけどさ」
「街に行ったとして、家とかお部屋とかはあるんですか」
ぼくの質問にニールさんの猫耳が小さく動く。
もしかしてその辺りの準備は何もできていないのだろうか。じっと見つめていると、ゆっくり視線が逸らされた。アーサーさんのことを守らなければならないという気持ちが先行して、街へ行かせた後のことは考えていなかったのかもしれない。それだけアーサーさんのことが大事で大切で、大好きで心配ってことだろうけれど。
フォークに付いたクリームを舐めていたナザリオが手を止めた。
「夫人に訊いてみたら?」
「き、訊くとも! 訊くに決まってんだろ。ははははは」
「えぇ、絶対思い付いてなかったよ」
「……んなわけねえだろ。ちゃんと考えてるさ」
ナザリオはニールさんに胡乱な目を向ける。
「先に家やら部屋やら決めちまった方が、帽子屋のやつも動いてくれるかもな。ミレイユにちょっと相談してみる」
「ほらぁ、考えてなかったんだ。アーサーのことが心配で心配で他に頭が回らなかったんでしょー」
「うっ、うるせえ」
逃げるように立ち上がったニールさんは食器を片付けると、そのまま公爵夫人のログハウスへ出かけて行った。玄関のドアの開閉音を聞きながら、残されたぼく達は顔を見合わせる。
照れ隠し……なのかな。ぼくの想像もナザリオの指摘も図星だったようだ。
「素直じゃないよねえ。でも、僕達に一応相談したわけじゃん? 成長だよね。昔だったらきっと全部自分で決めちゃってたよ。『俺が、俺一人で弟を守らないと』って。背負い込んで自分を呪うようなやつが『こいつらのことは頼ってもいいかも』って、そうやって僕達のことを考えてくれてるのちょっと嬉しいよね」
ロールケーキの最後のひとかけを頬張ったルルーさんが、壁の向こう、玄関の向こう側を見るようにして微笑んだ。




