第百六十二面 もう辛抱ならん
買い物を済ませて璃紗と琉衣と別れ、家に帰ったぼくは姿見を潜った。出迎えてくれたのはもちろんアーサーさんで、今日もひらがなで書かれた本をじっくりと読み込んでいた。
「いらっしゃいアリス君」
「こんにちは」
「馬鹿猫達はリビングにいます。今日はルルーも来ているようですよ」
「アーサーさんは行かないんですか」
「私は、まだ……」
獣への恐怖を克服なんてまだまだできていないし、昨日ニールさんと激しく揉めたばかりだしな……。
「それじゃあ行ってきます」
廊下に出ると、写真の額縁の横でニールさんが待ち構えていた。
仲良し四人家族の写真。優しそうなお父さんと、ちょっぴり厳しそうなお母さんと、気の強そうな兄と、穏やかそうな弟。結果的にこれを壊した光る蝙蝠という存在は一体何なのだろう。童謡に歌われる不思議な生き物のことを、本当にいるのだと父親は信じていたのだろうか。
「そろそろ来る頃かと思って待ってたぜ」
「こんにちは」
ニールさんの視線はぼくのことを飛び越えてアーサーさんに向けられている。部屋の方を振り向くと一瞬目が合ったけれど、すぐに逸らされてしまった。
小さく溜息を吐きながら歩き出したニールさんに続いて、ぼくはリビングへ向かった。
気になるのは光る蝙蝠のことだけではないんだよな。父親だけではなくて、母親のことも……。生きているのか、亡くなっているのか。生きているのなら、今はどこで暮らしているのか。両親のことについて、ニールさんはアーサーさんに伝えていないことがたくさんあるように思えた。小さかったから覚えていないと語るアーサーさんに対して、ニールさんは教えてあげようとはしていない。ぼく達が周りにいるから言っていないだけなのでは、と思うけれど、二人きりの時に話しているのならいつまでもアーサーさんが首を捻っているわけがないのだ。
とらえどころがなく、現れては消え、消えては現れてにやにや笑うチェシャ猫の存在を表すかのように、尻尾がくねくね揺れ動いていた。
慣れて来たとは思っていたけれど、やっぱりこの国の人達は不思議が多い。
「ちょっと遅かったな。学校行事の準備してたのか」
「その後に軽く買い物をしてて」
「学校楽しんでんならよかったよ。オマエが頑張って準備したってやつ、俺も見に行ってやれればいいんだけどよ」
「気持ちだけでも嬉しいです」
リビングではルルーさんとナザリオがお茶を飲んでいた。今日のお茶のお供はロールケーキだ。
「ねえねえ! 見てこれ!」
ぴょんこと立ち上がったルルーさんが、手招きをする。
「僕が持ってきたんだよ! ロールケーキ!」
「エルシーのお店のですか?」
「ううん、違うんだ。インコの翼のケーキが美味しいのはもちろんなんだけど、これは本場のだよ! この形のケーキがワンダーランドでも作られるようになったのはわりと最近なんだよね。今日のロールケーキは、ネルケジエから来たパティシエが作ったものなんだよ!」
身振り手振りを添えて、目の前のロールケーキの素晴らしさをアピールしている。そんなルルーさんの向かいに座っているナザリオは、その話を既に一度聞いているのか聞く耳を持たずに舟をこぎ始めていた。枕を膝の上に載せながらティーカップを手にしているナザリオの横に座って、ぼくはルルーさんの声に耳を傾ける。
キッチンへ行っていたニールさんがぼくの前にもお茶とケーキを出してくれた。今日のお茶はなんだか黄色い。
「ワンダーランドは大陸のど真ん中にあるから、他の大陸との交流はあまりないでしょ? って、アリス君は知らないか。……でも、周辺の六ヶ国は海の向こうとも多少は接点があるんだよ。まあ接点ないと連盟が動かせないしね。詳しいことは置いといて、ロールケーキはネルケジエを通してキャロリング大陸に伝わって来たものなんだ。だから近隣だとネルケジエが本場みたいなものなんだよ。本当は本場じゃないんだけどさ」
ふんわりとしたスポンジ生地の間にとろけるクリームが巻き込まれている。卵の味を感じる生地と甘さ控えめのクリームが絶妙な味を奏でていた。
「パパンがね、街で貰って来たものなんだ。たくさん貰ったからお茶会に持って行きなさいって、くれたんだよ」
「つまりね、アリス。街に異邦人が来てるんだよぉ」
ナザリオがフォークでロールケーキをぽすぽす突きながら言う。
「えぇと……。外国の人が来てるのって大事なの? こっちの王子様だってイーハトヴによく行ってるんでしょ?」
「今回のはお偉いさんがきまぐれで遊びに来たってわけじゃねえんだよ。ただの外交でもねえしな」
ルルーさんの隣に座って、ニールさんは険しい表情になる。ぼくが来る前に既に三人で話をしていたようだ。改めて説明してくれるのはとてもありがたい。
ぼくがティーカップをソーサーに置いたタイミングで、ニールさんは続きを話し始めた。
「タロットが一人チェスに襲われたんだ」
「タロットって、北の国のですか」
「あぁ。北の国、神話国家シャンニアの国民のことだ。チェスハンターのキャシーいるだろ? アイツの兄貴が視察の仕事で戻って来てて、そのお付きのタロットが襲われたらしい。命に別状はないようだが、そいつが国境を越えられる状態になるまでアスランのやつもワンダーランドに待機だとよ。おかげでシャンニアは大騒ぎだ」
キャシーさんの兄、アスランさん。北の国シャンニアで祀られる金色の神・アスランと同名であることから、神様の依代役としてシャンニアで暮らしている。本当に神様がいるのか、大巫覡という人は本当に神様の声を聞いているのか。その辺りのことはぼくには全く分からないけれど、アスランさんが象徴として置かれていて、タロット達に丁重に扱われているのは確かである。
ワンダーランドのドミノでありながらシャンニアからの国賓としてやって来たアスランさんは、もちろんタロットのお付きを連れて来ていた。タロットは人間だから、チェスの攻撃対象になるようだ。
政の象徴であるライオンが事故のような形で長期不在になっているのだ、タロットさん達は気が気でないだろうな。
「チェスの活動が活発になっていることについて周辺諸国も不安や不満をしばしば口にしてたらしいんだが、今回異邦人が被害に遭ったってことで『もう辛抱ならん』ってどこもかしこもワンダーランドを警戒し始めた。街に各国からの使者が来ているのも、そいつらが有力なドミノと接触を図っているのも、チェスから自らの国民を守るためだな。ドミノとの繋がりを作ることで、チェスを退治してもらおうとでも考えてるんだろうよ」
「うちのパパンは異邦人に軽く靡くような弱いうさちゃんじゃないからね、ケーキだけ貰ってきたんだ。話については『考えて置く』ってね。だいたい、普段はワンダーランドのこと『調子に乗ってる』とか『偉そう』とか、ドミノのこと『不気味で気持ち悪い』とか言ってるくせにさ! こんな時ばっかり擦り寄って来るなんて!」
ルルーさんはぷんすこと怒りを露わに地団駄を踏んだ。
地下鉄に乗った時に出会ったカブトムシの貿易商のおじさんも、イーハトヴではドミノも交流しやすいという話をしていた。他の国では結構不思議に思われるんだろうな。
「落ち着けルルー。北西と南西くらいだろ、ドミノに対しての不信感が顕著なのは。他はそこまでではない」
「でも、ワンダーランド自体のことはみんな陰でひそひそ言ってるよ絶対」
「いいんだよ別に。三色同盟に参加していないことにだって意味はあるさ。孤立してるからこそ孤高なんだぜ」
枕に顔が埋まりかけていたナザリオが軽く頭を起こす。
「そもそもキャロリング大陸全体的に仲良くないじゃん……。みんな自分が格好良くて他はポンコツだって思ってるって聞いたことあるよぅ」
「……まあとりあえず、街に異邦人が来てんだよ。俺が街にいる間に集めまくった情報はだいたいこんな感じ。外国から『オマエの国怖い不安無理』って言われたことと、被害が収まらないことから、森に暮らす人間の街への引き上げが提案されたんだ」
「んーと、そこまではさっきおれ達も聞いたよね。まだ続くんでしょ? そろそろ眠いんだけど」
ここからが本題だぞ、とニールさんはナザリオを睨む。
「俺が帽子屋に街へ行けと言ったのはそういう話が出ているからだ。でも、オマエらは他にも理由があるはずだと踏んでいやがるんだろ?」
「ニールさんがアーサーさんを強引に追い払うなんてありえない気がして」
「僕も同じく! さっきそれ聞いた時びっくりして耳もげるかと思ったよね!」
「どんな情報仕入れたのー?」
誰かのティーカップがソーサーを擦って音を立てる。
真面目そうに話しながらも浮かんでいたにやにや笑いが、消えた。