第百六十面 私は弱い人間です
「森に暮らす人間は一定数いる。林業に携わるやつとか、猟師とか。仕事柄仕方ねえからこの状況でもそいつらは森にいるんだ。それで、そういうやつらを街に引き上げさせようって話が出てるらしい」
冷たい紅茶を飲み干して、ニールさんはそう言った。幾分か落ち着いて来たらしく、残っていたアップルパイを美味しそうに食べている。
アーサーさんは食卓テーブルに突っ伏しているけれど、話自体は聞こえているようである。
「だからオマエも街に行った方がいいんじゃねえかって思ってさ」
ソファに身を沈めながらニールさんはアーサーさんを見遣るが、兄の言葉に弟は答えない。
「分かってるよ、街が苦手だってことは。買い物に行ったりちょっとした用事で行ったりするくらいなら平気でも、住めって言われたら嫌だよな。囲まれてると思い出しちまうから」
「前に何かあったんですか?」
気になってすぐ訊ねてしまうのはぼくの悪い癖かもしれない。枯れることを知らない好奇心が勝手に口を動かしてしまうから自分でどうこうできるものではないんだよな。
空っぽのティーカップを弄びながらニールさんは尻尾を揺らす。
「昔は今よりもずっと獣への偏見が強かった。ガキの頃、俺が帽子屋のこと連れて街に遊びに行った時にトランプ専用の店に入っちまってな、大人に追い駆け回されてすっげえ怖い思いしたんだよ。その後しばらく街が怖いって言ってたな」
「そんなことが」
「今でこそ買い物好きだけど、それでもやっぱりぶたのしっぽ商店街が主な行先だろ? 無意識に避けてんだよ、知らないトランプとの接触を。年末年始のこともあるしな……」
突っ伏しているアーサーさんが僅かに身じろぎした。
「私は弱い人間です……。人間ではないのですが……」
「トランプに囲まれるのと、チェスに囲まれるの、どっちがいい?」
「兄さんは守ってはくれないのですか、チェスから」
バンダースナッチ三人を相手に大暴れできるのだから、もしもチェス達がアーサーさんに襲い掛かったとしてもニールさんはそれを食い止めることができるだろう。あえて街へ行けと言うのには何かしら理由があるのだと思うけれど。
アップルパイの最後のひとかけを口に運んだナザリオも、そこが気になるといった様子でニールさんを見ていた。
「あくまで仮定だけどよ、チェスやバンダースナッチその他諸々が大勢で押し寄せて来たら本気を出すしかねえんだ。そんな時に帽子屋を傍に置いておくことはできねえ」
この人今まで本気出してないのか。
かなり強い印象があるけれど、あれらは全部本気ではなく手加減していたということなのだろうか。絨毯や壁紙に傷痕のあるニールさんの部屋を思い出しながら、本気の姿というものを想像する。傍に置けないのだから、誰彼構わず傷付けてしまうとか、そういう状態になってしまうのかな。
椅子を引いてアーサーさんが立ち上がった。テーブルに置いていた帽子を手に、リビングを出て行こうとする。
「帽子屋。俺の言うこと聞けるか」
「……少し、考えさせてください」
流れ星が廊下へ消えて行った。
「考えさせろって、俺に本気出させる選択肢もあるってことかよ」
ニールさんはソファに寝そべり、ぼんやりと右手を見つめる。本人は本気を出したくないようだ。どうなってしまうのかとても気になるけれど、ここは訊かないでおいた方がいいかな。
ナザリオは知っているのだろうか。ちらりと様子を窺うと、会話が途切れたため枕を抱えて睡眠状態に入ってしまっていた。ニールさんが戻って来てからずっと起きていたし、ずっと眠かったんだろうな。仕方ないか。
ぼくは席を立ち、全員分のティーカップやソーサー、お皿にフォークをキッチンへ片付ける。腕まくりをして、よし洗おうか、というところで後ろから声が掛かった。
「洗っておくから置いといていいぞ。桶に水入れて、そこにぶち込んでおいてくれ」
「分かりました」
リビングに戻るとナザリオは爆睡状態になっており、ニールさんは仰向けの状態で顔を手で覆っていた。指の隙間から銀に近い水色がぼくのことを見ている。
「あの、ニールさん」
「なんだ」
「街で森に住むトランプの受け入れが始まるから、それに便乗する形でアーサーさんを街に行かせるってことですよね」
「おう」
「街で手に入れた情報……大事な話って、それだけですか」
猫耳がぴくりと動いた。ニールさんは起き上がり、にやりと笑う。
「何が言いてえんだ? アリス」
「えっと……。チェスがたくさん来ても、おまえのことは守ってやるからな。みたいなことを言うかと思って。だって、二人は離れるの嫌ですよね。それなのに、安全のために離れようって……精神的にはよくないんじゃないかなって……」
「ガキじゃねえんだから四六時中べたべたしてたら気持ち悪いだろ。別にアイツが傍にいなくたって……。いや、俺には耐えられてもアイツには無理だって言いてえのか」
アーサーさんのことを街に行かせたくて仕方ないように思えてならなかった。兄は弟のことを大切にしていて自らを呪ってしまうほどだし、弟が自分のことを慕っていることも、街が苦手なことも、チェスに襲われる危険があることも、今はドミノさえ怖いということも、分かっている。自分が傍にいないと酷く弱ってしまうことも、きっと。それでも、今はそんな弟のことを街へ送り出したいのだ。森の家から追い出すような形で。強引に。
まるで、ここから遠ざけようと、ここにいては駄目だと言うかのように。
街にだってバンダースナッチやラースは現れているのだ。チェスは街に入れないけれど、だからといって街が安全だとは言い切れない。自分の手で直接守りに行けない場所へ行かせることに、少し違和感を覚えてしまった。ぼくの考え過ぎかな。
ニールさんはにやにや笑っている。
「アリスは俺達のことよく見てんだな」
「やっぱり他にも何か?」
「たぶん帽子屋も気が付いてる。口に出さないだけだと思う。……ルルーが来たら話す。今日はもう日も暮れて来たし、オマエはそろそろ帰れ」
ゆるりと立ち上がり、腕まくりをしながらキッチンの方へ歩いて行く。その背に「じゃあ、また来ますね」と声をかけてからぼくはリビングを後にした。
アーサーさんの部屋の前まで行ってドアをノックをすると小さく返事があった。鍵は開いているようだ。
「お帰りですか」
「はい」
ひらがなで書かれた本を手にしていたアーサーさんは、本を机に置いて窓の外を見た。空はオレンジ色に染まっている。
「夕食の準備をしないと……」
「また明日来ますね」
「アリス君、確か学校行事が近いうちにあるのでしょう? 最近こちらへ来るのがまばらなのもその準備等をしているからですよね」
「はい」
ぼくと二人の時はこんなにも落ち着いていられるのにな……。
「すっかり学校に馴染めたようですね。よかったです」
「面と向かって褒められるとちょっと照れちゃいますよぅ」
「また何か辛いことがあれば相談に乗りますからね」
「ありがとうございます。えっと、あの、アーサーさんは大丈夫ですか?」
アーサーさんはちょっぴり困ったように微笑んだだけで、ぼくの質問には答えなかった。けれど、無言の間が「大丈夫じゃない」と告げているようだった。不安定な状態の彼を支えてあげることができるのはニールさんのはずなのに、今はそれが叶わない。
椅子を引いて立ち上がると、背凭れにかけていた青緑色の帽子を手に取って棚の上に持って行く。綺麗な飾りが付いた美しい帽子達が並ぶ棚だ。腕がいいのに店を出そうとしないのも、もしかしたら不特定多数のトランプと接したくないからなのかもしれない。
「あの馬鹿猫は何かを隠していますね。よほどの理由があるからこそ、私をここから出そうとしている。そうでなければ、あの人が私を突き放すなどあり得ません」
とびきり愛されている自覚はあるらしい。
「アリス君は何か馬鹿猫から聞きましたか」
「いえ、詳しいことは何も」
「そうですか。分かりました。……では、また明日」
小さく手を振るアーサーさんにお辞儀をしてから、ぼくは姿見を潜った。




