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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
二十一冊目 溺愛ティータイム
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第百五十九面 崩壊の種

 光る蝙蝠を探して失踪した父親。夫を失い抜け殻になってしまった母親。まだ幼い弟。自分もまだ子供だったのに、それ以来兄は家と弟を支え続けている。大切にされた弟もまた、兄のことを慕い家を守っている。いつ頃からお母さんが不在なのかぼくは知らないけれど、二人だけで過ごした時間がとっても長いはずだ。去年の暮れのニールさんの様子や今回のアーサーさんの様子を見ていると、互いに強く依存しているように思えた。


 家事が苦手で人に対して高圧的で喧嘩腰のニールさんは、アーサーさんがいないと壊れた笑いしか出てこない。戦闘や運動が苦手で生真面目で精神面の弱いアーサーさんは、ニールさんがいないとただひたすらに狂ってしまう。一緒にいれば安定した生活を送れるし、共通の友人ができるし、守る・守られるの関係で支え合えるし、罵りあって仲良く喧嘩できる。にやにや朗らかに笑うチェシャ猫とマイペースすぎる帽子屋でいられるのは二人が一緒にいるからこそなのだろう。


 美しくも危険な兄弟関係だと思う。不安定な状態で安定していて、常に崩壊の種を孕んでいるのだ。


 テーブルに置かれたティーカップからは湯気が昇っている。今日のお茶は淡いピンク色を帯びているお花のお茶だそうだ。お供はアップルパイ。外でも飲んだり食べたりしていたけれど、ナザリオと二人だったしクラウスがいた時間も短かったからほんの少しだけなんだよね。だからここで続きを始めても飲み過ぎや食べ過ぎということはない。


 うとうとしながらも起きているナザリオがお茶を啜る。


「俺がいない間、森でおかしなことはなかったか」

「昼間は特に何もなかったと思います」


 来週に迫った学校祭の準備で忙しく、ワンダーランドへ来る回数は減っていた。それでも時間があれば今日のように放課後はここで過ごしている。あの日、あの地下鉄襲撃事件以来、ぼくでも把握できるほどの大きなことは起こっていないと思う。


 ティーカップを手にしたニールさんがキッチンの方を見遣る。カップとソーサーが触れる音が聞こえてくるが、アーサーさんは何も言わない。代わりに、ナザリオが口を開いた。


「どんどん増えてる。チェスも、バンダースナッチも、ラースも色々。人間トランプの夜間の森への立ち入りは自粛するようにって王様が言ったってクラウスが。それと……」


 ナザリオはカップをソーサーに置くと、珍しく険しい顔になった。


ドミノでも襲われた人がいるんだって。相手はチェスじゃなくてジャブジャブ? とかって名乗る人だったらしいんだけど、それもバンダースナッチみたいなものらしいよぉ」


 『鏡の国のアリス』に登場する「ジャバウォックの詩」及び『スナーク狩り』の中で語られるジャバウォックと共に現れる生き物の一つ、ジャブジャブ鳥。ラースがいたのだからジャブジャブ鳥もいるのだろう。他の生き物もいるかもしれない。お話の中ではジャバウォックの仲間か何かのような雰囲気だけれど、ここではチェスを信奉するドミノのことをそれらの名で呼んでいる。


 元々チェスが現れるから夜間の森はトランプにとって危険なものだった。それが、最近になってドミノまで被害に遭い始めている。これまでもバンダースナッチ等からの攻撃は多少あったものの、そんなの比じゃないのだ。昨日庭に立ち寄ったヘレンがコーカスレースの仕事が増えて本当に忙しくて困ると言っていた。


 ニールさんはアップルパイをフォークで突いている。


「だいたいの状況は分かった。とりあえず大変なんだな」

「もうねぇ、心配で夜しか眠れないよねえ」

「さっき外で寝てただろ」

「それで、ニールさん。話って何ですか? 大事な話っぽい感じですけど」


 むしゃむしゃと咀嚼していたパイを紅茶で流し込み、カップを勢いよくソーサーに下ろす。お茶もパイも甘いのに、ニールさんは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「帽子屋っ」

「ぅあっ、ひぃ!?」

「俺の言うことちゃんと聞けるか」

「……馬鹿猫は私に何かを強要するつもりなのですか」


 キッチンから不満げな声が聞こえてくる。


「ドミノに怯える今の私ならば脅していいなりにできるとでも」

「家から出てってくれないか」

「……は?」


 ぼくとナザリオの口からも「えっ」という声がほぼ同時に漏れた。


 再びアップルパイを突き始めたニールさんは、冗談を言っている風には見えない。とろける甘さも今の彼にはただの味で、淡々と食べているようだった。味わって感想を述べる余裕すらないくらい、先程の発言に真剣なのだ。


 返事を探すように猫耳が小さく動く。


「な……ん、で……。なぜ、なぜ、そのようなことを言うのですか……。私が、貴方のことが怖いと言ったから? 兄さんのことを拒絶したからですか?」


 くねくねと揺れながら逃げて行ってしまいそうな尻尾に縋り付くかのように、アーサーさんの声が絞り出されている。カップがソーサーに下ろされる音がして、そして、革靴の底が絨毯を擦りながら近付いてくる足音がした。


 リビングに入って来たアーサーさんは躊躇うことなくニールさんに詰め寄ると、ソファの背に手を付き、上体を曲げて顔を近付けた。勢いに負けて青緑色の帽子がやや傾く。


「ここは私の家です。父上と、母上と、兄さんと、暮らしてきた我が家です。そこを出ていけだなんて、あんまりですよ。確かに私は兄さんのことを怖いと、近付くなと、色々と言いましたが……」

「あぁ、めっちゃ傷付いてるからな。でも、それとはまた別の話だ。オマエと一緒に住むのが嫌になったとか、そういう話じゃねえんだよ、これは」


 少し動けば猫耳と帽子の鍔が触れてしまいそうなくらい近い。


「ここを出て、オマエは街で暮らすんだ。分かったな」

「わ、分かりませんよ!」


 至近距離でアーサーさんのことを見据え、ニールさんは柔らかく笑う。にやにや笑いではない、優しい微笑だった。いつもアーサーさんが浮かべている穏やかな笑みとそっくりだ。


 ぼくとナザリオはちらりと視線を交わす。眠気なんて遥か彼方に吹き飛んでしまったナザリオは目を丸くしていて、おそらくぼくも同じ顔になっているはずだ。


 困惑する弟の言葉を無視して、兄は話を続ける。


「オマエのためだ。オマエは、ここにいちゃ駄目なんだ。オマエに何かあったら……もっと酷いことになってからじゃ遅いんだ……」


 はっとしてアーサーさんがソファから退く。


「まさか、森は危ないと、そう、言うのですか。私が……私が、トランプと間違われて襲われるから。……ですが、今まで乗り越えて来たではないですか。今回もきっと」

「駄目だ」


 微笑から一転、ニールさんの表情が攻撃的なものになった。口元には鋭い犬歯が覗き、腕も獣の物に変わりかけている。悲鳴を上げて後退したアーサーさんは食卓テーブルにぶつかり、そこで動きが止まる。


 チェシャ猫はしゃがみこむ帽子屋のことを見下ろしていた。二人の姿はまるで捕食者と被食者であり、チェスと追い詰められたトランプのようだった。相手の駒を取りに行きますよという状況のことをチェックと呼ぶのだっただろうか、今まさにその場面といったところである。


 立派な爪が並ぶ猫の手が人間の柔らかい顔にそっと触れる。猫が力加減を間違えれば皮膚も肉も裂けて赤く染め上げてしまうだろう。人間が逃げ出そうと暴れても同様だ。下手に動くことのできないアーサーさんは整わない呼吸を無理に整えようとしていて、その息はだんだん荒くなっていく。銀に近い水色は恐怖に濡れているようにも見えた。


 ニールさんがアーサーさんに手を上げることはないだろう。安心と信頼を抱きつつも、見ているこちらも緊張していた。「大丈夫だよね……」と呟くナザリオに対して、ぼくは小さく頷くことしかできない。本のページを捲って没入する時と同じで、今のぼくはクロックフォード兄弟の緊迫感に飲まれている。ナザリオも枕を抱きしめて不安げである。


「っ、兄さん……」

「今のオマエは、目の前のドミノが自分の兄だって分かっててもこんなに怯えちまって震えて動けねえんだぞ」

「触らないで……。嫌っ……」

「こんな状態のオマエを森には置いておけない」

「離して……」

「帽子屋」


 頬に触れていた手が離された。次の瞬間、ニールさんはアーサーさんの胸倉に掴みかかった。強引に立ち上がらせると、方向転換して勢いそのままにソファへ向かって突き飛ばしてしまう。柔らかなソファに受け止められつつも、かなりの衝撃を受けたらしくアーサーさんは起き上がれないでいる。


 食卓テーブルの前に立っているニールさんは腕を人の物に戻すと、見下すようにアーサーさんのことを見下ろした。


「俺の言うことを聞け」

「ニール、ちょっとやりすぎだよ。喧嘩はよくないよう」

「そ、そうですよ。アーサーさん、大丈夫ですか」


 席を立ったナザリオがニールさんに枕を押し付けて退かせる。ぼくも席を立ち、落ちている帽子を拾ってアーサーさんのことを覗き込む。


「あの、怪我はないですか」

「いつまで……」

「え?」

「いつまで、私はこんな……。もう、もう嫌……。元の、生活に戻りたい……。皆と、兄さんと、一緒に……」


 ぼくの差し出した帽子を受け取らずに、アーサーさんは背凭れの方に体を向けて丸くなってしまった。すすり泣くような声が微かに聞こえてくる。


 対して、ニールさんはナザリオのことをいとも簡単に振り払ってから食卓の椅子に腰を下ろしていた。がしがしと頭を掻いて、大きく溜息を吐く。


「くそっ、なんで俺の言うこと聞いてくれねえんだよ」


 あんなにも仲良く噛みあっていた二人の歯車はあの日から歪んで狂い始めていた。このままだと完全に崩壊する。


 テーブルの上の紅茶は、どれも皆すっかり冷めてしまっていた。





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