第百五十八面 お勤めご苦労様です!
お茶会セットの前に颯爽と蒸気自動車が現れた。車体には『POLICE』という文字が記されている。
「お勤めご苦労様です!」
降りて来た男の人にそう言って出迎えると、彼はぼくの頭をこつんと叩いた。
「馬鹿オマエそんな出迎え方すんじゃねえよ。別に俺捕まってたわけじゃねえからな。犯人じゃなくて重要参考人だからな」
「いやあ、なんとなく。お帰りなさい、ニールさん」
「おう、ただいま」
警察官は「以後気を付けるように」とだけ告げて、パトカーで去って行った。
地下鉄襲撃事件の後、実況見分中のバンダースナッチに手を出したことでニールさんは警察に連行されてしまった。おとなしく対応していればすぐに帰ってくることができただろうに、ちょっぴり血の気が多くて気性の激しいニールさんは、例によって大暴れしたのでこんなにも帰りが遅くなってしまったのである。
お茶会セットのテーブルに突っ伏して眠っているナザリオをちらりと見てから、ニールさんはぼくに向き直った。不在の面子について訊ねようとしていることが何となく分かった。
「馬鹿兎は?」
「ルルーさんは普通にお休みしてるだけです」
「家の事情とか関係ない感じか」
「そうですね」
「帽子屋は?」
「お部屋で勉強中です」
「熱心だなあアイツも」
ニールさん不在の間、このテーブルはぼくとルルーさんとナザリオで囲んでいた。アーサーさんの引き籠り生活は継続中である。イーハトヴ文字の勉強は順調らしく、今日はひらがなで書かれた絵本を手にしていた。小さい子に囲まれながら絵本の読み聞かせをする姿が頭に浮かんだのだけれど、アーサーさんが優しく読めば我侭な子だっておとなしくお話を聞いてくれそうだよね。
ぼく達の話し声に気が付いたのか、ナザリオがゆるりと顔を上げた。まだ半分閉じているような目でニールさんのことを確認し、「おかえり」と言いながら再び突っ伏してしまう。
「もうちょっと歓迎するとかそういうのはないのかこのドブネズミは」
「さっきまで盛り上がってたんで疲れちゃったんだと思います。クラウスが来てて、その、会話が弾んで」
「お子様トリオは仲良しだな」
「おこっ……」
「年頃の男の子達で何の話して盛り上がったんだ?」
帰還したばかりのチェシャ猫は早速にやにや笑いを浮かべた。歪められた口元に鋭い牙が光っている。
「ま、街にできたお菓子屋さんの話をしました……。クラウスが今度買ってくるって」
想像していた内容と違っていたのか、ニールさんは一瞬ぽかんとした顔になる。そしてぼくの頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。
「ははは、オマエらはずっとそのままでいてくれよ。かわいいじゃねえか」
「何を期待してたんですか」
「別に何も?」
ぼくの頭から手を離し、ニールさんはにやにや笑いをひそめて真剣な顔になる。
「家の中で話そうか。帽子屋をリビングに引き摺りだしてくれ。俺はナザリオを運ぶから」
「分かりました」
獣道を行く不特定多数に聞かれると困る話があるらしい。
ぼくは一足先に家に入り、アーサーさんの部屋へ向かった。ドアは少しだけ開いていたけれど、一応ノックをする。返事がなかったのでもう一度ノックをする。返事はない。
「アーサーさん? 入りますよ……?」
そっとドアを開けて部屋に入る。
見ると、アーサーさんはナザリオのように机に突っ伏して眠っていた。開いたままの本が置かれていて、インク瓶の蓋は開けっ放しで、ペンは手に握られたままだ。花の模様が優雅に広がるペン軸を包む指は、あともう少しで物を持つことを拒否してしまいそうなほど力が入れられていない。メモを取っていたらしい紙には書きかけの英語が不安定に踊っている。
起こしちゃっていいのかな。
起きてください。という出かかった言葉を飲み込んで、ぼくは様子を窺う。呼吸に合わせて肩が上下していて、それに合わせて金髪の先が小さく揺れていた。気持ちよさそうに眠っている。起こしてしまってはなんだか悪い気もするな。
「アリスー! まだかー?」
廊下の向こうからニールさんの声が聞こえる。大事な話がありそうだし、やっぱり起こそうか。
「アーサーさん」
呼びかけてもぐっすり眠っているので、軽く肩を揺すった。その次の瞬間ぼくは弾き飛ばされた。思い切り振り払われたのだ。転んでしまいそうなところをなんとか耐えて体勢を立て直すぼくのことを、体を起こしたアーサーさんが不安そうに見ていた。
銀に近い水色の瞳がぼくの姿を確認する。自分を守るように腕や肩に触れていた手を下ろし、アーサーさんは小さく息を吐いた。
「アリス君……」
「あの、すみません。驚かせちゃいました?」
「……獣に襲われかけたのかと思いました。寝ぼけていたのでしょう。こちらこそ驚かせてしまい申し訳ありません」
バンダースナッチとラースが開業直後の地下鉄を襲ったのは夏休みの終わり頃である。締め上げられた痕はもうすっかり消えた。それだけ時間が経っても、彼の体に刻み込まれた恐怖は消えなかった。
「ニールさんが帰ってきました。話があるからリビングに来てほしいって」
机の上を片付けていた手を止め、アーサーさんはぼくを見る。向けられているのは顔だけで、目は合わせてくれなかった。
「そうですか」
「来られそうですか」
「……い、行きます。馬鹿猫に、馬鹿野郎って言ってやらないと」
本を積み直し、ペンやインクをしまって、机はすっかり綺麗になった。椅子の背凭れに引っ掛けてあった帽子を手に取りながら立ち上がる。今日のフロックコートと合わせた青緑色の地の帽子には星型の飾りがくっ付いていた。揺れるリボンと重なって流れ星のように見える。
ぼくを置いてさっさと部屋を出て行こうとしたアーサーさんは、ドアノブに伸ばしかけた手を引っ込めて踵を返した。姿見の前に立ち、若干跳ねてる金髪を手櫛で整える。そうして満足気に頷くと、やっぱりぼくのことを放置して部屋を出て行ってしまった。なんだかんだと言っているけれど、ニールさんが帰ってきたことが嬉しいのだろう。目の前にいるぼくのことをほったらかしてでも、すぐに会いに行きたいのだ。
後を追ったぼくがリビングに辿り着くと、ニールさんが困惑した様子でキッチンの方を見ていた。ナザリオはソファで眠っている。
「帽子屋」
「近寄らないでください」
キッチンからアーサーさんの消えそうな声が聞こえてくる。
「おかえりなさい」
「お、おう……」
「もっと早く帰って来ることもできたのではないですか、この馬鹿猫」
「心配かけたな」
「なぜ警察相手にも暴れたのですか馬鹿なのですか? よく逮捕されずに済みましたね? むしろしばらく捕まって自らの粗暴さを改めた方がよかったのでは?」
ドミノに怯え震えていた声が次第に強くなり、言葉が物理的な攻撃力を持っているかのようにニールさんのことを殴り飛ばしていった。猫耳が軽く伏せられている。アーサーさんの言うことはもっともなので、ぼくはフォローに回ることはせずに力なく揺れる尻尾を眺めていた。
言いたいことを全部言い終わったのか、キッチンからは蛇口から水の出る音と薬缶がコンロに置かれる音が聞こえた。お湯を沸かすのだろう。
「お茶の準備をします。少々お待ちを」
「寂しい思いさせて悪かった。ごめんな、アーサー」
「……馬鹿」
いつの間にやら起きていたらしいナザリオが「仲良し!」と笑顔で言う。ニールさんはにやりと笑いながら嬉しそうに尻尾をくねらせていた。キッチンから声は聞こえない。照れているのか、拗ねているのか。けれどいつものような「仲良くない」とか「兄弟ではありません」とかを言わないので不仲を装うつもりはないようだ。
ぼくはナザリオの隣に腰を下ろしてお茶が出てくるのを待つ。廊下側のソファに客が座り、窓側のソファに主が座るのがこのリビングにおける定位置である。ぼくとナザリオが廊下側で、ニールさんが窓側にいる今、お茶を運んで来たアーサーさんはどこに座るのだろう。外でお茶会もできない状態の彼が兄の隣に座るとは思えない。
ぼくと同じようなことを考えているのか、ニールさんは自分の隣にできている空白を心配そうに見下ろしていた。
「アリス君、ちょっと」
「はーい」
キッチンへ向かうと三人分のお茶とお菓子が載っている盆を手渡された。
「私はこちらにいます。声は聞こえますから」
「せめて食卓とか」
「いえ、まだ、私は……ひっ」
ひょい、とぼくの手から盆が持ち上げられた。先程より高い位置に留まることとなった盆を見上げるとニールさんと目が合う。
「俺が運んでやるよ」
「来ないでくださいと言ったでしょう馬鹿猫!」
「ちゃんとこっち来て話聞け、帽子屋」
「ですが」
アーサーさんは兄から目を逸らして視線を伏せる。たどたどしく紡がれたのは、「だって、怖いし……」という呟きだった。自分の身を守るように腕が体に回される。
両手で持っていた盆を左手に持ち帰ると、ニールさんは不安げな弟に対して問答無用に右手を伸ばした。せっかく整えた金髪を盛大に撫で繰り回し、ぼさぼさにしてしまう。アーサーさんは小さく悲鳴を上げて身を縮めた。
「逃げんなよ」
「あぅ」
「俺が怖いか」
「こ、怖っ、うぅ……。こ、来ないでっ!」
ニールさんの右手を振り払い、アーサーさんが後退った。コンロの脇に置いていた帽子を被って、そのまま冷蔵庫の前まで下がって行く。
「ごめんなさい。ごめんなさい、兄さん……。私、は……」
帽子を深く被っているため、陰になっていて表情は分からない。ただ、声が酷く震えているのは分かった。アーサーさんは冷蔵庫の前で蹲ってしまう。フロックコートの裾が床に擦れて小さな音を立てた。
「ごめんなさい……」
「……いや、いいんだ。すまねえな驚かせて。多少は克服できたか、と、思ったんだけど、なぁ……」
虚空を掴んでニールさんはにやりと笑った。にやにや笑いながら、盆を手にリビングへ向かう。
無理して笑わなくていいのに。
「アーサーさん、ニールさんだって悪気があったわけじゃ……」
帽子の鍔の影から銀に近い水色が覗いていた。どこに焦点を合わせているのだろう。ぼくのことを見ていないのは確かである。生気を感じさせない目の下で、口元だけは兄とそっくりににやにや笑っていた。一体全体どういった感情が彼にそんな表情をさせたのか、ぼくに推測することはできない。けれど、一つだけ。自分の中で改めて認識させられたのは、彼がただの帽子屋ではなく、狂った帽子屋であるということだった。