第十五面 まだやるつもり
チェス時間ってどういう意味なんだろう。
公爵夫人はやや緊張した面持ちで周囲を警戒している。
「あの……」
「しっ! 声出さないで……」
茂みの奥からがさがさと音が聞こえてきた。公爵夫人は後ろ手にぼくを守るように立つ。
「たぶん気付かれたわ」
「気付かれたって……」
公爵夫人が振り向き、ぼくの口を押える。
「むぐっ」
「静かにして。私が食べられたら貴方の所為よ」
「んぐ?」
食べられたら? チェスってトランプを食べるのか? 一体どんな化け物だっていうんだろう。ぼくの頭に浮かんだのは先日テレビで特集をしていた妖怪だ。この世界にもそういう化け物がいるんだろうか。
草を掻き分ける音が近付いてくる。
「来た……」
茂みの奥から甲冑を纏った人物が姿を現した。何だ、人じゃないか。
兜で顔は見えないけれど、たぶん男の人かな。甲冑の男はぼくと公爵夫人を黙って見ている。人間じゃーん、と安心したぼくに対して、公爵夫人はぼくの口を塞いだまま緊張を解かない。甲冑男を見る琥珀色の瞳が揺れる。冷汗が整った顔を伝っているのも見えた。
しばらくぼく達は動くことなく対峙していた。
甲冑男が一歩前に出る。公爵夫人に引き摺られるようにしてぼくは一歩下がる。
「絶対斜め前に立たないで」
公爵夫人に耳打ちされた。
甲冑男が前に進む。それに合わせてぼく達は下がる。甲冑男が進む。ぼく達は下がる。
数歩ずつそれを繰り返したところで、甲冑男が走り始めた。白銀の甲冑が月明かりを反射してぎらりと光る。
公爵夫人はぼくの口から手を離し、今度はぼくの手を握って走り出した。けれど、ふわふわのフリルやレースがたっぷりのドレスではスピードが出ない。途中躓いたり転びそうになったりしたけれど、公爵夫人はぼくの手を離そうとせずにしっかりと握っていた。守ろうとしてくれてるんだ。
「あの、あれって何なんですか」
「説明は後よ。追いつかれたら……」
飛び出していた木の根に公爵夫人が足を取られた。ふわふわフリルの塊がころんと転がる。手を握られていたぼくも引っ張られるようにして転がった。幸いどこもぶつけてはいないみたいだ。まだ走れる。転んでも離されなかった夫人の手を引く。けれど、フリルの塊はその場から動かない。
「夫人?」
フリルの端から細くて綺麗な足が覗く。リボンの付いたパンプスから伸びる足首が赤くなっていた。
「ごめんなさい……。捻ったみたいだわ……」
「大丈夫ですか」
「貴方だけでも逃げなさい」
「でも……」
振り向くと甲冑男が徐々に迫って来ていた。公爵夫人はぼくの手を離す。
「逃げなさいアリス君」
「夫人も一緒に……」
離された手を握る。
「一緒に行きましょう。どこまで行けばいいんですか」
「アリス君、駄目」
お姫様抱っこをして、逃げる。
逃げようとした。
ぼくは一歩も動けなかった。というか、公爵夫人を数センチ浮かせたところで力尽きた。ドレスだけでどれくらいの重さがあるんだろう。
「大人の言うこと聞きなさい! 私は大丈夫だから。ニール達の家に早く行きなさい。分かったら返事……ひっ」
影のようなものが公爵夫人の足に絡みついていた。払おうとして下を向いて、自分の足にも影のようなものが絡みつき始めていることに気が付いた。足下からどんどん影に飲まれていく。
「うわっ、動けな、い……」
足の自由を奪われ、ぼくは尻餅をつく。上半身だけをどうにか動かして後方を確認すると甲冑男がぼく達の斜め後ろに立っていた。甲冑男の持つ剣から影が伸びている。逆光気味のその姿は大きくて、おどろおどろしくて、はっきり言って怖い。
影が肩の辺りまで上がって来た。視界が少しずつ黒く暗くなっていく。
こんなことになるなら大人しく帰ればよかった。何が冒険小説の主人公だ。ピンチに陥って怖気づいているようじゃ冒険なんてできない。
昨日みんながあんなに慌てていた理由が今なら分かる。チェスはこんなにも危険な存在だったのか。
好奇心は猫をも殺すと言うけれど、本の虫はページを捲りすぎるとページの隙間に挟まって死んでしまうのか。
「おーい! そこの美人さんと男の子! 伏せて伏せてー!」
影に視界が閉ざされかける中、そんな声が聞こえてきた。言われるままに伏せる。
「白のポーンね。いくわよ!」
猛獣の咆哮。そして金属音。
纏わりついていた影が解けていく。
そこにいたのは女の人だった。ボリューミーな髪から丸みのある獣の耳が飛び出ていて、尻尾も生えている。ニールさんが時々するように手を獣に変えて甲冑男と戦っているようだった。好戦的な笑みを浮かべて牙を覗かせながら女の人は飛んだり跳ねたりしている。所謂へそ出しルックで、浅黒い肌が短めのタンクトップとショートパンツの間に見える。
「がおー!」
女の人が勢いを付けてパンチを繰り出した。攻撃は甲冑男にクリーンヒットし、がちゃがちゃと音が鳴る。もう一度殴りつける。兜がぐるりと回った。千切れそうなくらい傾いでしまった頭を押さえ、甲冑男は衝撃を殺すため後方へ滑る。
「まだやるつもり」
女の人が挑発するように笑う。
甲冑男はおかしな方向に曲がった首を元に戻して、影に溶けた。姿が見えなくなる。
「君たち人間だよね? こんな時間に人間が森にいるなんて……。あ、ブリッジ公爵夫人」
「ありがとうキャシー、助かったわ。今日は一人?」
「ジェラルドとは今日は分担してるの。ええと、どうして公爵夫人ともあろうお方がこんな時間に?」
キャシーさんというらしい女の人は小首を傾げる。もこもこと存在感のある髪が揺れ動く。公爵夫人はわざとらしく咳払いをしてぼくを指差した。
「子供の姿が見えたから声をかけてあげただけよ。全く、カエルが私のこと置いて行くから……」
「ふーん……。ねえ! 君はどうしてこんな時間に森にいたの? スートと番号教えてよ! 送ってあげるわ!」
がおー! とキャシーさんは口を大きく開ける。
「うわぁ、食べられる……」
「失礼な子ねー。アタシはチェスじゃないから食べないわよ。うーん、そうね。じゃあアタシのこと教えてあげる。そうしたらきっと怖くないわ」
キャシーさんは胸を反らす。
「アタシはキャシー・オルブライト。見ての通りライオンよ。こんな鬣みたいな髪だけどメスだから。で、アタシはこうやって夜間パトロールをして、さっきみたいに襲われている人を見付けたらチェスを追い払っているのよ。君は?」
「この子、私の親戚の子なのよ! そう、そうなのよ、ね?」
「あ、はい」
「ふーん。じゃあログハウスまで送ってくよ」
「猫と帽子屋の家まででいいわ」
「ん、分かった」
茂みに入っていくキャシーさんの後を追う。
猫と帽子屋の家に着く。
「じゃあ公爵夫人、後は愛しのチェシャ猫さんにでも送ってもらってくださいな」
皮肉っぽく笑いながらキャシーさんは茂みに舞い戻って行った。公爵夫人は少し赤くなりながら「愛しのって何よもう」とふるふる震えながらドレスを握りしめている。
「私達はそういう関係じゃないって何回も言ってるじゃない……」
困っちゃうわね。と言って公爵夫人は帽子を被った猫のノッカーを鳴らす。はあーい、とアーサーさんの声がした。
足音がして、ドアが開く。公爵夫人を見てあからさまに不愉快そうな顔をして、ドアを開けるにつれてぼくの姿が見えてくると徐々に顔が引き攣って来る。
「うぁ、ぁぁアリス君っ、なぜっ!? 雌狐! アリス君に何を!」
掴みかかろうとするアーサーさんを躱し、公爵夫人はぼくを家の中に放り込む。バランスを崩したぼくは床に転がった。
「私は森の中で迷子になっているこの子に声をかけただけよ。貴方、彼をしっかり見ていないとそのうち大変なことになっても知らないわよ。キャシーが助けてくれなかったらどうなっていたか……。教えるべきことはちゃんと教えてあげることね。好奇心旺盛な子供に秘密を作ると探しに行ってしまうわよ」
「貴女に言われなくてもそれくらい」
「分かってないでしょう?」
ぐっと公爵夫人がアーサーさんに顔を近付ける。美人の顔が迫ってきてもアーサーさんは表情を変えない。不愉快そうに冷めた目だ。それが逆に面白いのか、公爵夫人は妖しく笑いながら帽子屋に更に顔を近づけた。つやつやした唇を耳元に寄せて、溶けるように色っぽい声を出す。
「手取り足取り、私が色々教えてあげようかしら。色々、ね」
「ふっ、ざ、けるなこの雌狐!」
アーサーさんが後退る。銀に近い水色の瞳が激しく揺れ、顔が耳まで真っ赤になっている。
「うふふ、かわいい」
「私が馬鹿猫と同じようにオマエの手に落ちると思うな!」
「はいはい、分かったわ。アーサー、ニールを呼んできてくれるかしら。ログハウスまで送って欲しいの」
公爵夫人を睨みつけて舌打ちをし、家の奥に引っ込む。
お兄さんの飼い主面をしている公爵夫人のことをよく思っていないというのは分からなくもないけれど、二人の確執はそれだけが理由なんだろうか。嫌いなら、昨日公爵夫人が言っていたように会いに行かなきゃいいのに。それなのにログハウスにお茶を飲みに行くんだから不思議だ。
ほどなくしてニールさんがやって来た。公爵夫人は彼が外に出てくるや否や抱きしめる。月明かりの下、抱き合う美女と猫男。お伽噺の不思議なカップルみたいだ。うーん、実際そうなのかな。
「送って、ニール」
「はいはい。……ん。オマエその足……」
「ああ、捻っちゃって……。でももう大丈夫よ。動けるみたいだし」
「駄目だ」
ニールさんは公爵夫人をお姫様抱っこする。ぼくみたいな子供じゃ無理だったけれど、大人のニールさんは軽々と公爵夫人を抱き上げる。公爵夫人はニールさんの首元に腕を回してご満悦と言った様子だ。
「アリス、中で帽子屋が待ってる」
そう言い残して公爵夫人を抱いたチェシャ猫はログハウスの方へ歩き出した。
中で帽子屋が待っている。
怒られるのだろうか。危ないと言われたのに夜の森になんて行ったから。
「アリス君」
いつもの部屋のドアが開いて冷たい目をしたアーサーさんが覗く。
怒られたら正直に謝ればいいや。玄関のドアを閉めて、ぼくはいつもの部屋へ向かう。
「チェスに遭ったのですか」
部屋に入ると開口一番そう言われた。どうぞ、と言われたのでぼくは机の前にあった椅子に座る。アーサーさんはベッドに腰かけている。やっぱりここはアーサーさんの部屋なのかな。
「遭いました……」
「注意不足でしたね。申し訳ない」
あれ、怒らないんだ。というよりも、どこかほっとした様子だ。
アーサーさんはタータンチェックの掛け布団をさわさわ触っている。
「あれは恐ろしい者達です。貴方も、公爵夫人も無事でよかった」
「あのぅ、チェスって何なんですか。人間……ではないんですよね?」
「人間でもドミノ……。馬鹿猫やルルーのような者達を獣と呼ぶのですが、そのどちらでもない存在、それが影の兵団」
そこまで言ってアーサーさんは懐中時計を見る。
「そろそろ帰らないとお母様が心配するのでは?」
見せてくれた文字盤は七時になろうとしていた。
「うわ」
「隠していても、また貴方は調べに来るでしょう。それならば鏡は封鎖しないでおきますから、夕食後にでもまた来てください。続きをお話ししますよ」
「分かりました」
さすがにこのままこちらにいるのはよくない。一旦帰るとするか。




