第百五十七面 オレは手に入れてみせる
チルチルの話。
退院して学校に復帰した放課後、オレを待っていたのは一人の男子生徒だった。
「急に呼び出してすみません、宮内君」
璃紗から軽く話は聞いていたため心の準備はしていた。それでも、こうして実際に生徒会室に呼び出されると緊張する。職員室に勝るとも劣らない緊張感だ。少しだけ立派な机には『生徒会長』という札が置かれているが、主の姿はない。
男子生徒は制服の胸ポケットの名札を指し示す。青い名札。オレと同じ二年生だ。『副会長』というバッジが付いている。
「二年一組。生徒会副会長の馬屋原颯真です。こんにちは」
「どうも」
学校行事の度に生徒会長のことは目にするため認識しているが、副会長を含め他の役員のことをオレは把握していない。なるほど、彼が時期生徒会長か。今年もおそらく信任投票で繰り上がりになるはずだ。わざわざ立候補する人なんていないから。
「呼び出しておいて申し訳ないんですけど、会長は学校祭の準備で教室に行っているため今日は不在です」
「いや、今日から登校するって話別にしてなかったから仕方ないよ。クラスの手伝いは大事だよな」
「今朝の会議で姫野さんから宮内君が来ていると聞いたから、なるべく早い方がいいかなと」
馬屋原はそう言って、生徒会長の机からプリントを一枚手に取った。
「宮内君の作品、おれも見ました。優しいけれど、どこか怖いような、御伽話の世界のようでどきどきしますね」
「夢の世界を冒険する主人公達を見て、読んでいるオレ達も一緒に冒険するんだ。幻想的で、過酷な、そんな夢を描いている。……でも、あれはまだ完成じゃない」
有主や璃紗と話している過程で練り上げられたイメージをキャンバスに広げていたが、オレはその途中で力尽きた。入院している間にコンクールの締め切りは過ぎてしまい、未完の絵は美術準備室で沈黙している。一応、この後様子を見に行くつもりではある。
生徒会からの提案は「絵を学校祭で展示しないか」という話だった。見舞いに来た時に璃紗が教えてくれた。元々、美術部では部員の絵を展示する予定である。どの絵を展示するかは既に文化委員及び生徒会に一覧にして提出済みだ。
「どのくらい姫野さんから聞いているか分からないから詳しく説明しますけど……」
馬屋原はプリントに目を落とす。
「まあ、要はですね、宮内君の絵を追加で展示できるようにしましょうかってことですね。本来であれば他の部員の絵と共にコンクールに提出するはずだったものです。誰にも見られずに終わらせてしまうのはもったいない。ですので、生徒会及び文化委員会に出された美術部からの展示品一覧に追加を許可しますと、そういう話です。別にキミのために特別にそうしているわけではなくて、文化系部活動への対応としては以前より行われているものです」
「学校祭までに完成させろってことだよな」
「あのままでも十分格好いいと思いますけどね、おれは」
「……少し考えさせてくれ」
「返事は今週中にお願いしますね。おれに直接言ってくれてもいいし、ここに来れば誰かはいるから生徒会の人に伝えてくれればオッケーです」
手渡されたプリントを受け取って、オレは生徒会室を後にした。廊下に出ると、懐かしい喧騒が耳に響いた。部活をする者、廊下で雑談する者、教室の掃除がまだ終わっていない者。離れていた時間はほんの少しのはずだが、酷く懐かしく思えてしまった。放課後の学校は賑やかだ。
戸の横に置いていたエナメルを肩にかけて歩き出す。
まっすぐ美術室へ行こうとしていたオレだったが、ふと思い立って図書室へと方向転換した。今日は当番なのだと有主が言っていた。たまにはあいつの働きぶりを見てやろうではないか。
学校祭の準備をするのだろうか、段ボールや画用紙を手に歩いている生徒がちらほら見える。最後の追い込みというやつだな。うちのクラスはもう大方終わってしまっているし、「病み上がりなんだからおとなしくしてろ」と言われたので黙ってみんなの作業を眺めることになった。先程のロングホームルームの時間はとても退屈だった。
ここはオレがやったんだぞ。と言って妹に「お兄ちゃんかっこいい! すごい!」と言われたかったのに残念だ。見舞いに来てくれた美千留は悲しそうで苦しそうで、辛そうな顔をしていた。だから、アイツに笑顔を届けたかったんだけどな。笑ってる美千留めちゃくちゃかわいいからマジで天使だもんな。オレのせいであんな顔させちゃったんだから、次はオレの手で笑顔にしてやりたい。かわいい顔をオレにもっともっと見せてくれ。ぐへへ。
ふへへ、へっへっへ。という笑いが漏れていたらしく、すれ違った一年生数人に不審者を見る目を向けられてしまった。オレの妹への熱く燃える愛に対してそんな目をするとは失礼な一年坊主達だ。
次第に人通りが少なくなり、やがて図書室に辿り着いた。廊下から覗き込むとカウンターに有主がいるのが見えた。「返却期限は二週間後です」の決まり文句と共に本を渡す姿はまさに図書局員というもので、人付き合いが苦手な有主がこんなにも人と接する仕事をしているとは感心である。成長したなあ、としみじみ思ってしまうな。
折角ここまで来たのだから何か借りて行こうかな。
本がひしめき合う空間に飛び込む。有主や璃紗は、この瞬間に喜びを感じるのだという。オレにはちょっと分からない。二人に付き合って図書館や本屋に行った時の癖が出てしまったらしく、無意識のうちに外国文学の棚の前に来ていた。ついつい、メーテルリンクの名前を探してしまう。
すぐ傍にいるのなら、早く出て来てくれ。青い鳥を見付けることができれば、きっと元気になれるのに。オレはチルチルのはずなのに、おばさんの娘さんなんだもんな。いつか必ず、この手で捕まえてやるからな。
「琉衣」
「うわっ!」
「図書室で大声出すなよ」
「いきなり声かけられたらびっくりするだろ」
並んでいる背表紙を眺めている間に有主が隣に来ていた。
「何か探してる本でもあるの? 一緒に探そうか。それも図書局の仕事だからね」
「おすすめとかある?」
「んー」
有主は本棚を見る。その眼差しは真剣で、「オレのために本を選ぶ」ということが重要な任務であるかのように感じられた。こいつはいつだって本に対して真剣なのだ。ページを捲っているのを隣で見ていると、一緒に本の中に迷い込んでしまいそうだとさえ思えてしまう。
数分の後、有主は一冊の本を手に取った。表紙には『トム・ソーヤーの冒険』というタイトルと共に二人の少年の絵が描かれている。
「『トム・ソーヤー』は読んだことある?」
「タイトルは聞いたことあるけど……」
「ものすごく簡単に説明するとトムとハックが冒険する話だよ。アメリカの作品なんだ。一応児童文学だし読みやすいと思う」
「おまえほんと頼りになるよなあ、こういう時」
「えっへん」
「うんうん、偉い偉い」
このまま貸出手続きしちゃうね。と言って、有主は『トム・ソーヤーの冒険』を手にカウンターへ向かった。オレも後を追う。
カウンターの前に行くと、返却済みの本を積み上げてパソコンに何やら打ち込んでいた鬼丸先輩がオレのことをちらりと見た。「やあ」と言われたので「どうも」と返す。
「琉衣、貸出カードちょうだい」
「あぁ、えっと。ちょっと待って」
生徒手帳に挟んでいた貸出カードを出して渡す。すると、有主は慣れた手付きで作業を完了させた。半年間で身に着けた技だな。
「はい、返却期限は二週間後です」
「……有主、仕事が終わったら美術準備室に来てくれ」
「え?」
「待ってるから」
今日は美術部の活動はない。誰もいない美術準備室で、オレは未完の絵の前に立つ。
「あ、あのう……。すみませぇえん……」
戸をノックする音と弱々しい声が聞こえて来た。
「宮内君に呼ばれたんですがぁ……」
鍵を開けて戸を開けると「ひえぇ」という悲鳴が聞こえた。図書局の仕事も板について学校に慣れてきたと思ったが、オレと璃紗、そして図書局員以外に対してはやはり恐怖心と警戒感を持っているようだった。戸を開けたのがオレだと気が付き、ほっとした顔になる。
「よかった、琉衣だけか」
「手間取らせて悪いな」
「ううん。何か用事があるんでしょ」
「……絵を見てくれ」
オレは有主を美術準備室の奥へと案内する。有主は、普段の授業では入ることのない画材等の眠る室内を興味深そうに眺めている。
キャンバスに塗られた絵の具の中で最も新しいものは不自然に周囲と異なる色で引かれた線である。もう少し上の部分に描き加えたかったのだが、オレの手はそこまで動いてはくれなかった。
「この絵を完成させて、学校祭で展示しないかって生徒会と文化委員会から言われたんだ」
「璃紗がなんか言ってたね。どうするの?」
「絵と向き合って考えたんだけど、断ろうかと思うんだ」
黒目がちで大きな有主の目が更に大きく見開かれる。
「えっ」
「どうしようかっておまえに相談しようと思ったんだけど、来るまでの間に決まっちゃった」
「断っちゃうの」
「……このままでも十分な出来だと生徒会の副会長は言ってた。でも、このまま展示するのも、完成させて展示するのも、違う気がするんだよな」
次から次へとページを捲ってしまうような夢の世界を描いたつもりだった。絵の具を重ねている時、どんどん読み進めている気分だった。けれど、今、オレはこの絵に対して表紙を捲ることができない。捲ってはいけない気がするのだ。
「オレは絵が好きだ。だからこそ、これはこのままにしておきたい。次に繋げるために」
「……戒め?」
「戒め?」
「うん。次は倒れないように、無理しないように、ちゃんと元気に描き上げられるように」
「……そうだ。うん。そうだな」
この絵は、戒めだ。
今回の失敗を塗り潰して忘れるなんてことをしないために、この絵にはこのままでいてもらう。これはオレの過信が招いた災厄であり、そして、それを乗り越えて高く飛ぶための戒めなのだ。ダイヤをいじれば冒険できるような便利な帽子なんて持っていない。進む道は険しいかもしれないが、それでも、オレは手に入れてみせる。青く輝く羽を、きっと。
その先にどんな幸せがあるのか今は分からない。だが、この絵を、今回の痛みを、なかったことにしてくれだなんて願うことはしない。
「経験って大事だよな。楽なのが一番だけど、困難を乗り越えてこそ得られるものだってあるはずなんだ」
「また一歩、青い鳥に近付けたんじゃない? チルチルだって色んな世界を回ってようやく見付けることができたんだもん」
「必ず捕まえてみせる。必ず」
すぐ傍にいるはずなのに、オレにはまだ見付けられない。
きっと今日も、真っ青な空に溶けてしまって見えないんだ。探しながら、時々休みながら歩いて行こう。
「よし、よし! なんか分かんねえけど気分いいから寄り道してこう。今日はオレの奢りだ!」
「えぇっ、悪いよ。ぼく何もしてないもん」
「快気祝いだ快気祝い! いつもの喫茶店でいいだろ? よーし行くぞー!」
勢いよく戸を開けて廊下に出たオレだったが、「準備室の鍵職員室に返せよ」という有主の声に呼び止められてしまった。よし、鍵を返したら出発だ! 待ってろケーキ!