第百五十六面 正義のヒロイン
ドロシーの話。
この世界には、人知れず悪と戦う存在がいる。
一色空は平凡な高校生だった。あの日、おかしな猫のような犬のような兎のようなものに出会うまでは。
「空! わたしと一緒に戦ってほしいの!」
そうして彼女は、世界に蔓延る悪の存在を知ってしまい……。
これは、現代日本を舞台に暗躍する謎の組織と戦う、正義のヒロインの物語である。
「あたしは普通に暮らしたいのにい! どうしてこうなっちゃうのおー!」
○
ノートには活発そうな女子高生と、犬のような猫のような兎のような生き物のイラストが描かれている。わたしの描いたひどすぎるラフと、事細かな設定のメモから生み出された素晴らしいイラストである。息抜きだと言っていたけれど、これも負担になってしまっていたのかな。
「すみません」
声をかけられ、わたしは顔を上げる。一番廊下側の列の一番後ろの席。この席と、同列一番前の席、この二つは戸に近いため他クラスの生徒に廊下から声をかけられることがしばしばある。今の声の主も、クラスの誰かに用事があって呼び出してほしいからわたしに話しかけたのだろう。
教室の引き戸に手を掛けながらこちらを見ているのは眼鏡をかけた男子生徒。名札が緑色なので三年生だということが分かる。『図書』というバッジが付いていて、名前は鬼丸先輩……。
「あっ、図書局の」
「ん? あぁ、キミ確か……えっと、姫野さん?」
「はい」
「神山君いるかな」
わたしは有主君の席の方を見る。ポメラニアンのストラップがぶら下がったかわいいペンケースが机に載っているけれど、本人の姿は見当たらなかった。
「たぶんトイレかな。今はいないみたいですね」
「学校には来てる?」
「はい」
じゃあ……。と言って、鬼丸先輩はブレザーの内ポケットからメモ用紙を一枚取り出した。胸ポケットに入れていたシャープペンを走らせると、わたしに差し出す。デフォルメされたライオンのイラストが付いている意外とかわいい紙に、結構綺麗な字で内容が書かれていた。
『学校祭の古本屋について話し合いをします 鬼丸』
「放課後司書室に来てほしいって伝言をお願いするよ。メモ渡しておいて」
「分かりました」
それじゃあ。と立ち去りかけた鬼丸先輩だったが、何かを思い出したのか踏み止まった。
「次の部誌も楽しみにしてるね。また図書室に置くから、部長さんによろしく」
そう言い残すと、鬼丸先輩は去って行った。
文芸部で定期的に発行している部誌は、毎回図書室に置かせてもらっている。読んでくれる人はいるのだろうかと気になっていたけれど、図書局長はしっかりと目を通しているようだ。有主君の話だと、鬼丸先輩は自分に負けず劣らずの本の虫で、家には部屋をぐるりと囲む本棚が自慢の書庫があるという。そんな人に読まれていると思うと緊張してしまいそうだ。
ノートの上でポーズを決める主人公のイラストに目を落とす。ごく普通に暮らしていた高校生一色空は悪の組織と戦う正義の味方となる。彼女の世界はわたしが広げて行かなくてはならない。もっとたくさんのものを彼女に見せてあげたいと思っている。そうして、彼女を通して、作品を読んだ人がわたしの描いた世界を楽しんでくれると嬉しいな。
教室の前方の戸から有主君が入ってくるのが見えた。わたしは鬼丸先輩に渡されたメモを手に席を立つ。
「有主君」
雑談をして昼休みを有意義に過ごしているクラスメイト達の間をするりするりと潜り抜けて自分の席に直行した有主君が顔を上げる。
「これ、さっき局長さんが来てたの。放課後司書室に来てほしいって」
「んあー、分かった……」
「あまり乗り気じゃない?」
「琉衣に頼まれてた本があったから病院に寄ろうと思ってたんだけど……。また今度にしよう……」
有主君はメモを確認すると、生徒手帳に挟み込んでブレザーの内ポケットにしまった。胸ポケットに付いている青い名札には『図書』のバッジがしっかりと付けられている。最初は馴染めるかどうかを気にして不安だと訴えて来ていたけれど、今ではもうすっかり立派な図書局員さんだ。
「わたしが持って行こうか。今日部活ないし」
「委員長会議とかはないの?」
学校祭の運営に関わるのは専ら文化委員の仕事である。そうは言っても学級委員長にはクラスを纏める仕事がある。執行部と各委員長からなる生徒会と、各学級委員長が参加する会議は普段から定期的に行われているが、行事が近付くと頻度が増す。
ペンケースにくっついているポメラニアンをいじりながら有主君はわたしのことを見上げている。
「朝やったから放課後はないんだ」
「……もしかして最近早く登校してるのって」
「うん、そう。ごめんね一緒に行けなくて」
「そのうち慣れてくると思う……。じゃあ頼んでもいいかな」
リュックから出て来たのは一冊の文庫本だった。本屋さんのカバーが付いているため中身は分からない。
「よろしく!」
何の本だろう。わたしは表紙を捲る。
「これを……琉衣君が?」
「ね、意外だよね」
放課後、わたしは星夜東病院を訪れた。
呼吸器内科のとある病室に入ると、琉衣君が儚げな笑顔で出迎えてくれた。消えてしまいそうな印象を受ける姿だが、内面はその真逆であり「見た目詐欺」だという人も少なくない。状態は良好のようで、口元を覆っていた酸素マスクはすっかり外れており、点滴の管が腕から伸びているだけである。
「へへ、お見舞いありがとな」
「具合はだいぶいいの?」
「平気平気。元気だぜ。今週中に復帰できると思う」
「よかった」
「……寝てる人もいるし、談話室に行こうか」
そう言って琉衣君はベッドから立ち上がった。点滴のスタンドを転がしながら廊下に出る。
談話室では病衣のおばあさんが二人並んでテレビを見ていた。わたし達はそこから少し離れたテーブルに着く。
「この間有主が来てくれてさ、星大祭の話してくれたんだ」
「芸術学部の作品、どれも綺麗だったよ」
「だろ? 五年後には俺のも並ぶんだぞ。ふふん」
得意げに笑って見せる。しかし、表情はすぐに翳ってしまった。点滴のスタンドを弄んでいた指に力が入り、僅かに震えているのが見える。その姿はいつにも増して薄幸そうで儚く、風が吹けば消えてしまいそうだ。
捕まえたと思ったのに、青い鳥は消えてしまう。それを追い駆けてチルチルが消えてしまえば、ドロシーの銀の靴を以てしても取り戻すことは叶わない。
「五年後、オレは元気なのかな……」
「琉衣君……」
「時々不安になるんだよな。……けどさ、悪い未来を考える暇があったらいい未来を考えた方が有益だよな! 退院したら美千留とケーキ作るって約束してんだよ。いいだろお。わはは」
「……美味しく焼けるといいね」
「あぁ。オレは、まだ死ねない。死ぬわけにはいかないんだ。……まだ、死にたくない。……思いつめてたら具合悪くなっちゃうよな。楽しい話をしよう」
わたしはスクールバッグから預かっていた本を出してテーブルに置く。
「有主君から預かって来たんだ。今日図書局の仕事入っちゃったから」
「おー、楽しい話できるじゃん。ありがと璃紗ちゃん」
琉衣君は本を手に取ってぱらぱらとページを捲った。
有主君から預かったのは堀辰雄の『風立ちぬ』である。主人公と、結核に侵される恋人の様子を描いた近現代文学作品だ。七年ほど前にこの作品をベースに取り入れた映画が公開されている。
琉衣君はわたしや有主君と比べると読書量の少ない方であり、小説よりも漫画が好きだ。読書感想文だって簡単に書けそうな本を探しているし、美千留ちゃんに本をプレゼントしたいけれどよく分からないと有主君に助けを求める人だ。てっきり読みやすい童話集か何かを貸すのだと思って受け取ったら文豪の作品だったのだ。
「珍しいよね、琉衣君がそういう本読むの」
「サナトリウムで儚く散る美人って文学的な美しさがあるんだってさ。有主が言ってた」
「……どうしてその本にしたの」
「縁起でもないって?」
頬杖を突いてにやりと笑う。ヘアピンをしていない長い前髪が目に軽くかかっていて、笑顔の奥に仄暗さを感じさせた。そこそこいい顔でそういうことをすると絵になる。
「ベッドの上にずっといるのは退屈だから、本でも読もうって思ってさ。そういえばそんな……病気の人が出てくる話があったよなって、有主に訊いたら教えてくれたんだ。ふと思っただけで、別に意味なんてないよ。ま、有主にも『どうしてそういう内容の本を……』って言われたけど。中途半端に思い出したら気になるだろ? だからさっさと確認したくてさ」
本を撫でる手の動きに合わせて点滴の管が揺れていた。
時代劇の再放送が終わったらしく、テレビを見ていたおばあさん達が談話室を出て行く。それと入れ替わるように、誰かのお見舞いに来たのだと思われる若い男性が自動販売機にジュースを買いにやって来た。
『風立ちぬ』を捲りながら、琉衣君は「そういえば」と呟いた。
「学校祭の準備ってもうだいぶ進んでるよな。オレが戻ってからでも手伝えるところってある?」
「意欲的なのはありがたいけどほどほどにね。詳しいことは文化委員に……。あっ、そうだ」
「ん?」
「そうそう、学校祭について琉衣君に提案があってね」
今朝の会議で生徒会から言われたことがあった。
「あのね……」
わたしは自分の描く物語の登場人物のようにビームを出したり魔物を浄化したりはできないけれど、自分のできる範囲のことで友人の力になれるといいな。




