第百五十五面 この瞬間の胸の高鳴りは癖になる
かぐや姫の話。
星夜大学の学校祭、通称星大祭。広大なキャンパスのメインストリートにはサークルやゼミを主体とした出店が並び、各学部棟の中にも店や展示やイベントが目白押しである。
日々勉学に励み研究に勤しむ若人達は、今日は特別だと言って大いに盛り上がり羽目を外して楽しんでいる。快活な彼らに出迎えられて、訪れた人々も自然と笑顔を浮かべるのだ。
「寺園先輩、手伝ってくれてありがとうございます。もういいですよ。折角来たんだから楽しんでいってください」
「別に、見たいところは特にないんだけど」
芸術学部では音楽学科以外の学科が作品の展示を行っている。美術学科彫刻コースの作品達が静かに並ぶ展示室四で、僕はとある四年生が作ったと記されている塑像の前に立っていた。先程作者である彼と共に搬入作業を終えたばかりだ。自分が四年生の時に一年生だった後輩が今は四年生であると考えると、自分が酷く年を重ねてしまったように思えて仕方がない。
緩んで来ていた髪を簪で纏め直していると、女子学生から「髪が綺麗で羨ましい」と声が上がった。三年前にもよく言われていた記憶がある。
四年間飽きるほど眺めて来た祭りである。美術学科の展示を観覧した後は適当に出店で何かを購入して空腹を紛らわせ、それから真っ直ぐ帰宅するとしよう。などと思考を巡らせながら、僕は展示室四から退出した。
絵画コースのものも、彫刻コースのものも、どれも素晴らしい作品ばかりである。若さと情熱の溢れる作品群を前にして、僕は感嘆の息を漏らした。憂いを帯びた作品でさえも、その中に熱い物を感じるのだ。人の手により創り上げられ、思いを込められた物達の息吹に当てられていると非常に幸福である。
粗削りな部分が見え隠れする作品も、緻密に編み上げられている作品も、どれも作り手の存在を感じることができる。どのような人物が彼らを生み出したのだろうか。作品に添えられた札に踊る学生の名前を見て顔の知らない作者に思いを馳せる、この瞬間の胸の高鳴りは癖になる。堪らない。
多幸感にも似た悦びを抱きながら芸術学部棟を巡っていた僕は、『卒業生作品』と看板の出ている十三番教室の前で足を止めた。星大祭期間中、僕の片割れの一つがこの教室に置かれている。
教室内ではここ数年間の卒業生が卒業制作等で手掛けた作品が美しい姿態を晒していた。僕の人形の前に少女が一人佇んでいる。おさげ髪で、赤縁眼鏡をかけた少女である。彼女の視線は椅子に座る人形に釘付けになっていた。
星空から零れ落ちてきたかのように光の散る深い青の右目と、樹木の年輪のように渦巻き模様を幾重にも宿す赤褐色の左目。左右で色の異なる瞳が白い肌の中で浮かんでいる。ほんのり桜色の唇は僅かに開口しており、何かを伝えようとしている風にも、穏やかな微笑を湛えている風にも見て取れる。ミニハットとドレスは光沢のある水色を基調としており、金色の巻き髪がそこに揺蕩う。
「この子は瑠璃瑪瑙というんだ」
僕の声に、おさげ髪の少女は驚愕を露わにこちらを向いた。
「気に入ってくれたかな」
「あ……。え、もしかして、このお人形の作者さん……?」
「うん」
「……寺園、伊織、さん」
瑠璃瑪瑙の前に置かれた札を確認し、少女は僕の名前を読み上げた。
「顔もかわいいし、衣装の青い光がとても綺麗ですね」
僕の人形は総じて青が褒められる傾向にある。自らの最も美しく醜い部分を剥ぎ取って使用しているのだ。文字通り身を削って作っているのだから褒められなければ非常に苦しいところでもある。大きく広がるクリノリンも、透き通ったリボンも、布地に煌めく青い光も、どれも僕自身の体の一部だ。それ故に彼女達は僕の片割れであり子供なのだ。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。この色を出すのは結構大変なんだよね」
少女は視線を僕から瑠璃瑪瑙へ移す。青い人形の姿を余すところなくその双眼に収めんとしていた少女は、教室に入って来た小さな影に声をかけられて凝視を中断した。
「璃紗、ここにいたんだね」
「『卒業生の展示をまず見ろ』って琉衣君言ってたから。ごめんね置いてっちゃって。でもここに来れば会えると思って」
「人ごみに紛れて消えたぼくが悪かった。背が低くてごめん」
「まだまだ伸びるよ」
おさげ髪の少女よりも若干背の低い少年は、見間違えようもない知り合いであった。
「わあっ、すごい。人形とっても綺麗だね」
「……ありがとう神山君」
「えっ……。わ、伊織さん? あ、本当だ、名前が書いてある……」
少女は僕と神山君のことを交互に見る。
「有主君、この人のこと知ってるの」
「そっか、璃紗は初めてだもんね」
神山君は友人と思しき少女にぼくのことを紹介する。図書局の後輩の兄である、という情報を得たことで、彼女は「グランピングに付き添いで来てくれた人」だと認識したようだった。姫野璃紗と名乗った少女は軽く会釈をすると、改めて瑠璃瑪瑙を見た。
人付き合いの苦手そうな神山君が一緒に学校祭を見に来るような子なのだから、二人は随分と仲がいいのだろう。
「琉衣君、見たかっただろうなあ」
「仕方ないよ。……璃紗、ちょっとここで作品見て待っててくれる? ぼく伊織さんに話があってさ」
「いいけど」
僕の了承を得ることなく、神山君は僕の手を掴んで十三番教室の外へ出た。どうやら周囲に聞かれると好ましくない内容を話したいようである。僕は神山君の手を掴み返して、人通りの少ない西階段の近くへ移動した。
「今日は宮内君は一緒じゃないんだね」
「琉衣はちょっと体調崩してて」
「えっ、そうなの。早く元気になるといいね。それで、僕に何の話があるのかな。まさか図書局で何かあった?」
「図書局は関係ないんですけど……」
神山君は改めて周囲に人影がないことを確認する。その姿はまるで天敵を警戒する小動物のようにも見えた。
階段の脇には段ボール箱が積み上げられていた。講義で使用する画材を購入した際の箱のようだ。非常口の部分だけ器用に空けて積まれている。茶色い紙製の箱を眺めながら、神山君が口を開くまで待機する。
「……えっとですね。伊織さんは、ヤマトという人のことは覚えていないんですよね」
心臓を鷲掴みにされたかのような気分だった。キャンプ場で同様の話題を振られた際にも、僕はこの感覚に捕捉された。動揺、焦燥、困惑、混乱がない交ぜになって僕の思考を搔き乱す。神山君は本のページを捲る時に似た好奇心に溢れた、それでいて真剣な眼差しをこちらに向けている。
時々、夢を見る。
そこは鬱蒼とした森林で、幼い僕が背の高い草を掻き分けながらよちよち歩いている。隣には同じくらいの背丈の子供がいて、不安を抱く僕の手をそっと握ってくれるのだ。おそらく、彼がヤマト。安心させようとしているらしく、僕に向かって色々と話をしてくれる。そして、恐ろしい何かに襲われるところで目が覚めるのだ。それと同時に、ヤマトの顔も、声も、遥か彼方へ消えて行ってしまう。
失われた四歳以前の記憶に、ヤマトという子供の姿があるのだろう。名前が分かっているのに、後は全て塗り潰されていた。無理に思い出そうとすると、虚無の記憶に取り込まれて今の自分まで消失してしまいそうになる。
大切な人だったはずなのだ。しかし、僕には彼が誰なのか分からない。
神山君からの問いかけが、「どうしてわからないの?」「思い出せないの?」「あの子は誰なの?」と形を変えた幼い僕の声で反響していた。
「ヤマト……ヤマト、は……」
頭に刺すような痛みが走った。刺されてそのまま弄られているようである。作りかけの人形と向き合いながら何夜も越した時と同じかそれ以上の痛みだ。
思い出したいと思っている。しかし、思い出してはいけないと無意識が働く。
「覚えているのか、覚えていないのか、それが分からないんだ……。いや、覚えているはずなんだ……。だって、ヤマトは……。……誰?」
思考が強制停止すると同時に体から力という力が抜けて行った。吊られていた糸が斬られた操り人形のように、自分の重さを支え切れなくなった僕は床に頽れる。
「伊織さんっ」
座っている姿勢を維持することさえままならない僕の肩を押さえ、神山君は「大丈夫ですか」とこちらを覗き込んだ。
「顔真っ青ですよ! あの、ぼくが、変な質問したから……! すみません!」
今現在の僕の頭は思考することを拒否している。情報の受容を拒絶している。
「大丈夫ですか」
話しかけるな。
「い、医務室? 医務室行きます?」
考えさせようとするな。
「ごごごごめんなさい! グランピングの時からずっと気になってて、それで、ちゃんと訊いてみようって思って。すみません!」
新しい情報を入れようとするな。
「神山君……」
「あわっ、はい!」
「……消えてくれないか。目の前から」
「へ?」
「……語弊があったね。僕は大丈夫だから、姫野さんのところに戻っていいよ」
「でも」
「いいから行ってくれ。……一人にさせてくれ!」
「わっ、分かりました……」
頭が活動を再開させるまでに数分かかった。周囲の状況を把握できるようになった時にはもう神山君の姿は見えなくなっていた。
体を侵食する倦怠感は翅が生える前後の症状と酷似していた。封印された記憶の扉が開きかけた時、その記憶に関連すると思しき憎悪や嫌悪、恐怖が門前を充溢する。恐ろしい何かのことを思い出したくなくて、それの所為でヤマトのことも欠落しているのだ。分かっている。分かっていた。鮮烈で凄惨な出来事に脳内を脅かされることが酷く嫌いで、扉を固く閉じて封印するのだ、僕は。それに付随している大切な人のことも一緒に。
今日はもう帰ろう。帰って寝よう。
壁に手を着いて体を支えながら、芸術学部棟の廊下を進む。
アトリエに入れば人形達が出迎えてくれる。己の片割れ、我が子達に囲まれていれば多少は気分も良くなってくるだろう。待っていてね、すぐ、帰るから。




