第百五十四面 そんなところが好き
ドロシーの話。
せわしなく鳴らされるチャイムを怪訝に思いながらインターホンの画面を確認すると、制服姿の有主君がこのうえなく焦った様子でいるのが映っていた。
「有主君?」
「璃紗! 出かける準備して出て来て!」
「え?」
「早く!」
急かすようにぴょこぴょこ跳ねているので緊急事態なのだろう。わたしはポシェットを肩から提げて外に出た。待ち構えていた彼は非常に慌てている状態であり、走って来たのか汗ばんでいる。
今日、部活のなかったわたしは有主君と琉衣君を置いて学校を後にしていた。わたしが帰宅してから、学校で何かが起こったと考えるのが妥当だろうか。これほどまでに動揺していることを踏まえると、随分と大事らしい。
リュックの肩紐を不安そうに握りながら、有主君はぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「図書室にいたら、サイレンが聞こえて。先輩と『何だろうねえ』って話してたんだけど、仕事終わって帰ろうとしたら、美術室の方が騒がしくて、廊下にも、野次馬みたいに生徒がたくさんいて……。美術部の人に訊いてみたら、その……」
その後に続いた彼の言葉に、わたしは思わず「え?」と声を漏らした。彼は言った。
「琉衣が倒れて、救急車で運ばれたって……」
十月の初め、虫が鳴き始める夕暮れのことだった。秋めいた風がなんだかとても冷たく感じられた。
わたし達は星夜東病院に駆け付けたが、いかんせん病室がどこだか分からない。呼吸器内科のある廊下をうろうろしていると、琉衣君のお母さんが声をかけてくれた。
曰く、大きな発作を起こして美術室で倒れて搬送され、今は落ち着いて眠っているところだそうだ。わたしがほっと息を吐くと同時に、有主君も胸を撫で下ろした。
「琉衣、ずっと無理してるみたいだったし、限界が来ちゃったのかな……。何回言っても聞かないんだもんな」
「一生懸命なのはいいことだけど、もうちょっと体大事にしてほしいよね」
いったん病室に入っていたお母さんが廊下に出てくる。
「気が付いたみたい。二人が来てるって言ったら『すぐ呼んで』って」
わたしは有主君を見る。目が合うと、彼は小さく頷いた。
前にも似たようなことがあった。出会ったばかりの頃、今よりも体の弱かった琉衣君は学校も休みがちでしばしば入退院を繰り返していた。わたし達は何度かお見舞いに行っている。それがきっかけで仲良くなったとも考えられるだろうか。
病室に入ると、一番手前のベッドを囲うカーテンが半分開いているのが見えた。カーテンの向こうで琉衣君はぼんやりと点滴の管を眺めている。わたし達に気が付くと、力なく笑って見せた。ヘアピンを外しているため少し長めの髪が蒼いままの顔にかかっている。
「ははは……。やっちゃったぜ」
「もうっ、琉衣の馬鹿」
「何回言ったら分かるの、体大事にしてって」
「……有主だって本読んでたら徹夜するし、璃紗ちゃんだって原稿やってる時無茶するだろ」
「違うだろ。違うだろそれは。ぼく達と琉衣じゃあ、同じ無理の仕方でも結果が違うだろ」
琉衣君は有主君から目を逸らす。酸素マスクの中が呼吸に合わせて曇っている。
「分かってるつもりなんだ、自分の体のこと。まだ大丈夫、まだ行ける、そう思ってた」
「でもそうやっていつも倒れるじゃん。学習しろよ」
「……やりたいことのないオマエには分からねえよ」
「は?」
「多少体に鞭打ってでも、やりたいって、成し遂げたいって、そう思うんだよ! オレは、オマエとは違う。そうだ、違うんだ。オマエにはこの情熱は分からないだろうな。オレは! オレは、あの絵を……」
言葉は咳によって途切れた。喋っている間にずれ始めていたマスクを押さえて、琉衣君は黙ってしまう。色素の薄い瞳はクリーム色のカーテンを眺めていて、わたし達には向けられていない。
割ときつめなことを言われていたが、有主君は大丈夫だろうか。そう思って彼の方を見ると、黒目がちで色も濃い瞳は小さく震えていた。
「ば……ば、馬鹿ぁ! 琉衣の馬鹿馬鹿! 絵ができても死んじゃったら元も子もないだろ!」
そして、そう言い捨てて病室を出て行ってしまった。同室の患者さん達が何事かとカーテンをずらして様子を窺う音が聞こえた。
「琉衣君」
「……だいぶ丈夫になったと、思ってたんだけどな」
細くて白い指が透明なマスクを撫でる。
「昔よりもずっと強いよ、琉衣君は。やりたいことも大きくなったんだね、きっと」
「……有主のところ行ってやれよ。……ちょっと寝るわ。これ以上話すと疲れるから。母さんにも言っておいて」
「うん。おやすみ」
病室を後にしたわたしは、お母さんに琉衣君が眠ったことを伝えてから談話室へ向かった。孫らしき幼児と一緒に絵本を読んでいる病衣姿のおじいさんがいる。そこから少し離れた自動販売機の傍で、有主君は窓の外を見て立っていた。床に下ろしたリュックの上に畳んだブレザーが置かれている。
学校から走ってわたしの家まで来て、そこから真っ直ぐに病院までやって来たのだ。ワイシャツにうっすら汗が滲んでいる。インドア派を極めたような彼がどれだけ必死であったのかは想像に難くない。小さい頃からずっと一緒だったから分かるのだ。有主君は自分の身を守るために人のことを警戒している部分が多いが、その一方で仲良くなった相手に対してはその人のことも守ろうと動くようになる。怖がりで頼りないところもあるものの、人のために怒ったり泣いたりできる優しい人なのだ。
わたしはきみのそんなところが好きなんだ。
「有主君」
「死んじゃったら意味ないじゃん……」
「うん」
窓からは空ヶ丘の街並みが見える。ガラス越しに街を映す大きな目は少し潤んでいるように見えた。
「ねえ、璃紗」
「ん?」
「琉衣の言ってたことはたぶん間違いじゃないんだ。いや、無理して倒れたら駄目なんだけどさ、そこじゃなくて、情熱とか、その辺のこと」
有主君は隣に立つわたしのことは見ずに、外を見たまま話している。
「体に鞭打ってでもやりたいことがあるって、ちょっと羨ましいと思った」
璃紗にとっての小説だってそうでしょ? と、こちらを向く。
先日進路について話をした際にも、彼は今と同じ顔をしていた。不安そうで、困惑しているようで、自嘲しているような顔だ。
「ぼくにはないんだ、そういうの。将来の夢とかも見当たらないし」
何かしらのタイミングで、子供達には「将来の夢はなあに?」という質問が投げかけられる。それは例えば幼稚園児の時であるし、小学生の時であるし、中学生の時である。わたしの記憶にある限りでは、その質問に彼が元気よく答えている姿を見たことがなかった。幼稚園児の時には周りに流されて消防士と答えていたし、小学生の時にも周りに流されながら警察官とか教師とか答えていた。周りに合わせたのだから理由などという物は存在しておらず、無難な内容を作文にしたためていた。
将来の夢はあくまで夢なのだから、思い切って宇宙飛行士とか総理大臣とか言ってしまっても構わないだろう。しかし、彼にはそのような大きな目標などもないのだ。
「有主君は、やってみたいお仕事とかないの?」
彼に向かってこの質問をするのは何回目だろうか。大人に訊かれて答えを出せない彼に、わたしはこうして質問を繰り返して訊ねていた。いつもそうだ。
有主君は首を横に振る。
「夢を見付ける、っていうのが今の夢だな。本の世界に沈んでいるとそれだけでぼくは満たされる。だから、たぶん、きっと、現実に夢を見ることができないんだと思うんだ。本を開けば、どんな世界にだって行けるし、どんな人にもなれるんだよ」
「分かるよ。分かるけど、有主君が生きているのはこの世界だよ。本の中じゃない。アリスも、ドロシーも、チルチルとミチルも、最後には元の世界に戻るんだよ。戻ってしまうの」
夢のような世界を原稿用紙に載せているわたしが言う言葉ではないのかもしれない。しかし、言わなければ有主君が本の中に消えてしまうのではないかと思ってしまった。幼い頃から彼はずっと本を開いて生きてきている。わたしも本は好きだ。一緒に絵本を読んだこともある。そして、怖いと思ったのだ。
並んでページを捲っていると、彼と共に本の中に吸い込まれてしまうのではないかという恐怖を覚えるのだ。文字を追う目が、ページを繰る指が、恐ろしいほどの好奇心と高揚感に満ちていた。最早恍惚そうと言っても過言ではない。読み進めていくと同時に没入していく彼を隣に繋ぎ止めておきたくて、わたしは時々こんなことを言ってしまうのだ。アリスが本に消えてしまったら、ドロシーの銀の靴を以てしてでも連れ戻すことはきっとできない。
わたしの言葉に対してやや不満そうに膨れながら、有主君はブレザーの袖に腕を通した。
「分かってる。分かってるよ。だから、本の外に夢を見付けるのが夢なんだ。……でも、マリーとクララはどうなったの?」
「クララ?」
「くるみ割り人形の主人公。人形の国へ行って、あの子はどうなったんだろう」
ページを捲っている時の顔になっている。大きな目は爛々と輝き、頬は僅かに紅潮し、口角が上がっている。
「マリーは戻らなかったんじゃないかって、ぼくは思うんだ。戻らないという選択肢もそこには……」
「有主君」
わたしは有主君の手を取る。離されてしまいそうで、思わず指を絡めた。
「いなくならないで」
「……え」
「不思議の国に行ったっていい。でも、必ず戻って来て。そのままいなくなるなんてことしないで」
愉悦に浸っていた顔は驚きに包まれている。
「わたしの前に、戻って来て。有主君」
「璃紗……」
「時々、怖くなるの。有主君が本の中に消えちゃうんじゃないかって。考え過ぎだし、物理的にありえないって分かってるんだけど、怖いの。本の読み過ぎ、お話の書き過ぎでわたしの妄想が爆発してるだけだって思うけど、それでもやっぱり怖いんだ」
有主君の指が動いた。わたしの手を握り返して、一歩近付く。
「璃紗。いなくならないよ、ぼくは。不思議の国がどんなに良いところでも、ぼくはここに戻ってくるよ。家族もいるし、きみと琉衣がいるからね。いつもそうしてる。そう思って、帰って来るんだ」
「いつも……?」
「マリーとクララは、あくまで選択肢の一つだよ。そんなに不安な顔しないで」
相談にでも乗ろうかと思っていたが、いつの間にやらこちらが慰められる形になってしまっていた。柔らかく微笑む彼につられて、わたしも笑う。
力なんてなさそうで頼りない手なのに繋いでいるととても落ち着いた。いなくならないでほしいと、より強く思った。
「琉衣の様子もう一回見てから帰ろうか」
「寝てるんじゃないかな」
「寝てたらおばさんに挨拶すればいいよ」
わたしから手を離し、有主君はリュックを背負って歩き出す。きっと中学校は荷物が多いよ、と用意したリュックは、小柄な彼の背にはまだまだ大きい。そんな小さな背に向かって大きな思いを抱きながら、わたしは彼の後を追った。




