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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
二十冊目 鏡の外側童話集
155/236

第百五十三面 やらねばならぬことがある

チルチルの話。

 体育の授業終わり、更衣室へ向かおうとして先生に呼び止められた。話された内容は至極簡単なことで、「次の単元に出られるかどうか」だった。単元が変わる度にこの質問をされるのでいつものことである。


「琉衣、先生何だって?」

「次出られるかって」

「次……何?」


 ワイシャツの袖に手を通しながら、有主はオレを見上げた。不安で仕方がないといった様子だな。体育苦手だもんな。


「ダンスだって」

「んー、ダンスかあ。……琉衣は出られるの?」

「ああ。授業でやる程度の素人の創作ダンスなら全然問題ないから」


 もしも激しいヒップホップを踊れなんて言われたら、オレは体育館の片隅でみんなのことを見守ることになるだろう。


 体を動かすことは好き。運動神経もかなりいい方だ。できることならいつだって走り回っていたいし、ボールを追い駆けていたいし、高く跳んでみたい。しかし、オレにはその力をいかんなく発揮することができない。格好良く言えば諸刃の力なのだ。


 ジャージから着替え、教室へ向かう途中で有主が深い溜息を吐いた。


「ダンスやだなあ」

「ロボットが踊ってるみたいになるもんな」

「はっきり言わなくてもいいだろ」

「オレは楽しみだよ」

「出られてよかったよね」

「オマエの変な踊り見るの楽しみだよ」

「もう!」


 いじわる! と言って頬を膨らませる有主から逃げるように、オレは足早に階段を昇って教室に入った。





「絵の進捗はどんな感じなの」


 昼休み、ノートにペンを走らせていると隣の席から有主が覗き込んできた。有主の机の前方には璃紗が立っていて、こちらもオレの手元を見ていた。


「まあ、ぼちぼち? 頭の中にイメージはできてるし、ちょっとずつ描いてるしな。息抜きする余裕だってある」


 ノートの上でポーズを取っているのは活発そうな印象の女子高生だ。傍らに羽の生えた猫のような犬のような兎のようなものが浮いている。璃紗に頼まれたキャラデザだが、こんな感じでいいのだろうか。これが没になったら何テイク目になるかな。


 オレはペンを置き、ノートを璃紗に差し出す。


 開かれたページを見て眼鏡の奥の目が輝いたのが分かった。手ごたえありだな。


「す、すごい……。本文とわたしの下手くそなラフだけでこんなに綺麗に仕上がるなんて……」

「何テイク目か分かんないけどな」

「色々注文付けてごめんね。琉衣君だって忙しいのに」

「全然。役に立てるなら何だってやってやるよ。サブキャラも描こうか」


 璃紗が満面の笑みを浮かべた。しかし、ノートを閉じてしまう。眼鏡のブリッジを軽く押し上げ、高まってしまったテンションを落ち着かせるようにわざとらしい咳払いをする。


「ありがたいけど、それはコンクールが終わってからでいいよ。締め切りまではそっちに集中してほしいし」

「えー、いいじゃんか。息抜きさせろよ。イラスト描かせろよ」

「ねえ琉衣、もしかしてコンクールの絵進んでない?」


 五時間目で使う理科のノートを机から出しながら、有主が問うてきた。心配する様子の有主に向かって、オレは顔面に笑みを貼り付ける。


「はっはっは、ちゃんと進んでるって! だからほら、璃紗ちゃんも遠慮なく」

「ええ、さすがに悪いよ。締め切りの大事さはわたしだって分かってるし」


 本当のことを言うと実は詰まっている。二人にはお見通しということか。


 全体のイメージはできていた。人物も小道具も背景もそれなりに描き込んである。それでもまだ何かが足りなく思えてしまって、塗っては重ね、塗っては重ね、時々剥がしたり削ったりしながら、キャンバスと睨み合っていた。


 根を詰め過ぎるな。と有主にも璃紗にも先生にも先輩後輩にも両親にも妹にも言われている。分かってはいるけれど……。分かってるけど……。


 髪の先っちょを指で弄ぶ。有主と璃紗は困った様子で顔を見合わせていた。心配してくれる友人はとても優しくてありがたい。だがしかし、オレにはやらねばならぬことがある。





 スケッチブックをちぎって渡すと、妹はかわいいを具現化させたような笑顔を浮かべた。いや、妹そのものがかわいいの権化である。この世で一番尊い笑顔とでも言おうか。はちゃめちゃにかわいい。尊い。守りたいこの笑顔。


 下校途中で落書きした、商店街のハロウィンの飾り。喜んでもらえてよかった。


「ありがとうお兄ちゃん!」

「ふへへ……」

「これ見本にしてもいい? 児童会館で飾りつけするんだよね。お兄ちゃんの絵を見ながら描いてもいいかな」


 ちぎったページを手に、妹が上目遣いでオレを見る。


「は? お願い事してくるのかわいすぎるな? 天使?」

「お返事しなさい」

「美千留の役に立てるのならその絵も喜ぶだろう。好きに使っていいよ」

「ありがとう!」

「げへへ」


 そのままオレの部屋から立ち去ろうとした妹だったが、何か思い出したように足を止めて振り向いた。見返り美人というのはきっとこういうののことを言うんだ。かわいいぞ、美千留。大和撫子。きゃわたん。


 妹はオレのTシャツの裾を引っ張る。


「朝ね、お兄ちゃんの部屋から咳聞こえてるんだ」

「あ……。あぁ~、そうなの?」

「頑張るのはいいけど、無理しないでね」

「……うん」


 絶対だからね! と言い残して、妹は廊下に出て行った。


 オレの原動力は妹だ。


 赤ちゃんの扱い方がよく分からなかった幼稚園児のオレは園で描いて来た絵を見せることしかできなかった。しかし、それで妹は泣き止んでくれたのだ。あれこそが天使の笑顔を初めて見た時だ。とてつもなくかわいくて尊さに埋もれながら自分は死んでしまうのではないだろうかとさえ思った。それから十年、オレは絵を描き続けている。親だって友達だって喜んでくれるんだ。それに、オレ自身絵を描くのが好きだった。妹の存在がやる気を更に高めてくれる。


 コンクールの締め切りまであと少し。自分が満足できるように、妹の笑顔を見られるように、無理をしてでもやり遂げなくては。もしも倒れたら妹は悲しむだろうか。悲しんでいる姿だってかわいいんだ、美千留は。でも悲しませたくはないよな。だから、絵を完成させて笑顔になってもらうんだ。


 机の上の棚に、小さな鳥籠が載っている。青い羽根の飾りが付いていて、中には光る石が散りばめられていた。


 オレは鳥籠を撫でる。


 青い鳥がきっと、いい結果を持ってきてくれるさ。





          ○





 体がめちゃくちゃ怠い。頭が重い。


「宮内ぃ、今日はその辺にしとけ」

「宮内君顔色悪いよ」

「後ちょっとなんで仕上げちゃいます。先輩達帰ってていいですよ。片付けしとくんで」


 帰り支度をしている先輩達にそう言って、キャンバスに向き直る。


「……じゃあ帰るけど」

「ほどほどにしとけよな」

「本当に大丈夫?」

「鍵職員室に返しておいてね」


 塗って剥がして重ねて削ってまた塗って、ようやくここまで辿り着いた。今回の絵は自信作だ。金賞だって狙えるかもしれない。朝早く登校したり、夕方遅く下校したり、家にキャンバスを持って帰ったりしながら頑張った甲斐がある。


 無理がたたったのか今朝は発作で目が覚めたけれど、まあいつものやつだよな。気にすることなんてない。調子が悪そうだと両親に言われたが、逃げるようにバッグを引っ提げてキャンバスを抱えて登校した。


 三年生になったもっと上手になるかもしれないけれど、今のオレにとってはこの絵が最高傑作。


 全身全霊を懸けた作品なんだ。


 あとちょっと。こことそことあそこを描き加えて、それからバランスを整えるだけ――。


 筆が、手から滑り落ちた。


「んっ、ぐ」


 筆を拾おうとしたオレは、そのまま椅子から転がり落ちた。周囲の空気がなくなってしまったのではないかと思った。咳が止まらない。呼吸がままならず、体が言うことを聞かない。喘鳴と速まる鼓動を体中に響かせながら、タイル張りの床に這いつくばる。


 吸入器はエナメルの中だ。床に放り投げられている。自分のバッグがそこにあるのも分かっているし、見えているし、中に薬があるのも知っている。しかし、体がそこまでの前進を許さない。


「ぁ……が……」


 届かない、ここからじゃ。


「宮内ぃ、やっぱり心配だから戻ってき……」

「おい! どうしたんだ!」

「宮内君!」

「誰か、誰か先生呼んで来い」


 先輩達が戻って来たようだった。誰かの手がオレのバッグから吸入器を出して、差し出してくれた。これで助かる。そう思ったが、咳は止まらなかった。


 そして、オレの世界は白く染まった。





 世界が色を取り戻した時、オレの目に飛び込んできたのは見慣れてしまった見慣れたくない白い天井だった。クリーム色のカーテンも見える。口と鼻を覆われている感覚があった。腕から伸びる管を辿ると、スタンドからぶら下がる点滴の袋が見えた。


 ああ、やっちまったな……。






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