第百五十二面 ボクは見てしまったのだ
ルーシィの話。
共働きで忙しかった両親は、あまりボクに構ってはくれなかった。保育園、児童会館、図書館のキッズスペース、それらがボクの昼間の居場所であり、生活の場だった。夕方家に帰れば三人で食卓を囲むことはできていたけれど、寝て起きて朝食を済ませるとボク達は再びばらばらになった。
寂しいという感情がなかったわけではない。けれど、我が家はこういう形の家族なのだとどこかで納得してしまっていた。愛情がなかったわけではないんだ。両親はボクのことをかわいがってくれていたし、相手になってあげられないことを詫びてくる時もあった。
両親と過ごす時間が一日の中に少ししかなくても、平気な振りをして生きて来た。平気だと思うようにしていた。
けれど、やっぱりいなくなってしまうと悲しいものだよな。
何が起こったのか分からない混乱の中で、両親の死を聞かされた。幼いボクにとってはあまりにも衝撃的すぎて、逆に冷静になってしまった。周囲の大人達は、おとなしいままのボクを不思議そうに見ていた。駆け付けた祖父に撫でられて、そこでようやくボクは激しく動揺し泣き喚いたのだ。
○
返却された本の情報をパソコンに打ち込んでいると、カウンターの外側から亀倉さんが覗き込んできた。魚を模したヘアピンが光っている。本棚の整理をしていたと思ったが、何かあったのだろうか。
「鬼丸先輩、ちょっといいですか? 今あまり人もいないし」
ボクは手を止めて彼女を見上げる。
「何?」
「あの、新聞って図書室にありますか」
「バックナンバーってこと?」
「はい。学校祭のクラス展示で街のことを調べようってなって」
ああ、もうそんな季節か。学校行事になんて興味ないし、クラスメイトとの話し合いになんて参加させてもらえないから実感ないな。
亀倉さんはボクの返答を待っている。図書室では頼れる局長でいなければ。神山君にバレてしまったことは最早取り返すことはできないが、他の局員には知られたくない。変な間を作るな、栞。
「それなら学校の図書室じゃなくて、図書館へ行った方がいいんじゃないかな。生徒会誌とかはここにあるけれど、新聞は見たことないな」
「やっぱり図書館行かなきゃ駄目かあ。……ありがとうございます。グループのみんなにもちょっと相談してみますね。図書館遠い子もいるし」
「いい展示ができあがるといいね」
笑顔で頷くと、亀倉さんは本棚の整理に戻って行った。
これから学校祭と合唱コンクールがあるということを考えると非常に憂鬱だ。クラスのみんなで力を合わせて何かをしよう、ということにはあまり積極的になれない。それは孤立しているからというよりはボクが持っている元々の性格によるものだと思われる。所謂陰キャとか根暗とか、そういう部類に属する人間なのだ。
図書局で行う古本屋のことだけ考えることにしよう。などと思考を巡らせながら、ボクはパソコンに向かった。
下校途中、少し遠回りをしてスーパーへやって来たボクは移動販売車の前で足を止めた。亀倉さんの言っていた通り、クレープ屋が期間限定で来ているようだ。祖父に頼まれたお遣いのついでに食べて行くとしよう。
今朝渡されたメモを確認しつつ買い物を済ませて外に出ると、見知った姿をクレープ屋の前に見付けた。
「あっ、鬼丸先輩!」
ハート柄のシュシュでサイドアップにされた髪が跳ねるように揺れる。寺園さんは苺ソースのかかったクレープを手に、ボクに笑顔を向けた。彼女は今日の当番ではない。私服姿であることも踏まえると、一旦帰宅してから出直してきたのだろう。
傍らに伊織さんが立っている。こちらはチョコレートソースのクレープを手にしていた。長い髪を今日はポニーテールにしていて、黄色い花の飾りが結び目で揺れている。帰宅した寺園さんに誘われて、一緒にやって来たのだと考えられる。
「やあ、鬼丸君」
「……どうも」
「先輩、なんかお兄ちゃんに対してそっけないですよね」
「そんなことないよ」
寺園兄妹の横を過ぎて、ボクはチョコバナナのクレープを購入する。
なるべくおかしくならないように、と気をつけているが、逆に目立っているのかもしれない。後輩の兄であり、祖父の店に人形を納品している作家である。ただそれだけの存在だと思うことができればいいのだが。
……彼は覚えていないのだろうか。
いや、覚えていないわけがない。あれほどの出来事を忘れるなど考えられない。
「今日は眠くなさそうですね」
駐輪場脇のベンチに移動していた二人に歩み寄り、声をかける。
「伊織さんいつも眠そうだから」
「夜中まで作業してることもあるからね。でも昨日は早く寝たから大丈夫。つぐみちゃんに誘われてたしね」
「……そうですか」
ボクと会う時にはいつも寺園さんが傍にいるから話題に出さないだけとも考えられる。ボクとしても後輩のいる場面であまり話したい内容ではないから、今度二人きりで会う機会を設けることとしよう。
「おかえりなさい、栞」
家に帰ると真っ白な女が出迎えてくれた。
「おじいちゃんは店?」
「ええ。買って来たものなら私が台所まで運んでおくわよ。ほら」
「あいにく他人に冷蔵庫を見せる趣味はないんですよね」
トートバッグに伸ばされた手を躱し、台所へ向かう。
素性の分からない相手を家に置いておくなど、祖父の考えていることがボクには分からない。白い女は現状何かをやらかすといったこともなくおとなしく過ごしており、店の掃除などもしてくれている。しかし、やはり彼女のことを信用することはできない。
ボクは見たのだ。
「栞、手は洗ったの?」
「まだですけど」
「それならそちらが先でしょう? ほら、こっちは任せてちょうだい」
白い女はトートバッグを奪い取ると、ぼくのことを廊下に押し出した。
仕方ない。手洗いとうがいは大事だ。
洗面所の電気を点けると、鏡に映った自分の姿がはっきりと見えた。鏡、そう、鏡である。
祖父が営む骨董品店・錦眼鏡。店に入ってすぐの場所には悪魔が脚にしがみ付いている机が置かれている。その上に手鏡があったのだ、昨年の春までは。怪物や草木が鏡を取り囲んでいる悪趣味なデザインの手鏡だ。それをどこから仕入れたのかを祖父は教えてくれなかったが、不気味な見た目のため買い手がいないのだということは語っていた。
そして、ボクは見てしまったのだ。
六月のことである。帰宅したボクは保護者向けのプリントを手に祖父を探し、店内のロッキングチェアでうとうとしているところを見付けた。そして、近くにあったブランケットを掛けてあげようとして手を止めることとなる。時計や壺や箪笥の向こうから物音がしたのだ。客が来たのだと思い「いらっしゃいませ」と言ってそちらへ向かうと、視界一杯に白が広がった。全身を白で飾った女がそこにいて、ボクの声を聞くと逃げるように店を出て行ったのだ。
あれは彼女で間違いない。
そしてボクは、手鏡が床に落ちて割れているのを見付けた。机の上にあったものが壊れてしまったのだと思ったが、そちらを見るとそれはおとなしく机に載っていたのだ。
「栞、これ返すわね」
洗面所を後にしたボクの前に白い女が姿を現した。空になったトートバッグを手にしている。色白の肌に、透き通るような白い髪、血のように真っ赤な瞳。季節によって形は違えど、被っている帽子を脱ぐことはない。
ボクはトートバッグを受け取り、彼女の横を過ぎて自室へ向かった。
幼いボクに祖父が与えてくれたぬいぐるみ達の待つ部屋に入り、リュックを置く。トートバッグをリュックに入れてから、ボクは本棚を振り返った。スライド式になっている前方の棚をずらすと、後方の棚が見えるようになる。普段は隠されている後方の棚の一番下の段に、今朝と変わらずにクッキーの缶があることを確認する。
お中元でもらったクッキーが入っていた缶の中には、今は砕けた鏡が入っている。
初めにこの考えに至った時、ボクは自分のことを本の読み過ぎだと言って笑ってやった。鬼丸栞、おまえは少し夢を見すぎているのではないか、と。しかし、他に考えられなかった。もっと深く考察をすれば他の答えも出たのかもしれないが、もしかしたら、ひょっとして、という思いがそれを邪魔してしまった。
ボクの考えはこうである。
白い女は、割れた鏡と共に店に現れたのだ、と――。