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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
二十冊目 鏡の外側童話集
153/236

第百五十一面 お兄さん困っちゃうぞ

芋虫の話。

 痛みを感じ、首を押さえて飛び起きる。手を見ると血が付いていた。


「いってぇよ。ちょっとは加減……」


 追うように起き上がった女の唇が俺の首に触れた。そのまま傷口を舐められ、血を吸われる。肩を掴んで押し倒し、抵抗する隙を与えずに吸い続ける。


「慣れねえなあ……」


 流れ込んでくる唾液には痛みを軽減する作用があるとかないとかいう話だが、最初に牙を刺し込まれる時はやはり痛い。今日も飛び上がってしまった。


 覆い被さりながら俺の血を吸っている女の腰に、そっと手を回す。閉じられている彼女の翅が手の甲に触れた。


 苦痛と快楽と羞恥がない交ぜになって俺の頭の中を侵食していた。何回やられてもこの感覚には慣れることができない。意識を保とうと思っていても、その思考が妨げられてしまう。そうして俺は食虫植物の胃に飲み込まれる小さな羽虫のように、抗うこともできずに沈んでいく。





 軽く肩を叩かれ、目を開けた俺の視界に飛び込んできたのは口の端から俺の血を垂らしている女の顔だった。


「よかった、気が付いたわね」

「オマエ血ぃ吸い過ぎ。死ぬわ」

「死なれたら困るよ。アンタはいいお客様なんだから」


 くらくらする頭を押さえながら、俺はベッドから立ち上がる。脱ぎ捨てていた着物に袖を通すと、シーツの上の女――マーカラ・ブラッドリーは不服そうに口を尖らせた。彼女の周囲には青光りする鱗粉が散らばっている。仰向けに倒されていたため俺の翅から剥がれ落ちたのだ。


「今夜はもう終わり? もっと楽しんでいっていいのよ」

「楽しいのはオマエの方だろ。金も血も巻き上げやがって」

「いつもありがとねヤマト。でも、アタシばっかりじゃなくて、たまには他の子とも遊んであげてね」

「俺はオマエが気に入ってるんだぜ、マーカラ」


 お客はみんなそう言うよ、とマーカラは笑う。


 帯を締め、ベッドに腰を下ろす。噛まれた首筋に痒みがあるが、これを掻いてしまっては治りがわるくなるため堪えるしかないだろう。


「マーカラ、話がある」

「いつもの質問タイムだね? 分かっているよ、アンタの目的はアタシじゃなくてここに集まってくる情報だもんね。何が知りたいんだい」


 擦り寄って来たマーカラの手が懐に忍び込んでくる。


「調べてほしいことがある。チェスやバンダースナッチ、伝承の龍などに関することだ。小さなものでもいい、何かしらの情報を得たらすぐに教えてほしい」

「よし、任せな。報酬はいつも通り体で払ってもらうよ」


 細腕が俺の体に絡みつき、首にキスをされる。


「おいおい、前払いかよ。お兄さん今日はもう限界ですよ?」





 ……結局朝まで付き合わされてしまった。貧血で倒れそうだ。


 噛まれた痕を包帯の上から軽く撫で、店を出る。


 街の南南西の端に位置する国内最大の歓楽街・シュナプセン大通り。まだ薄暗い通りには、まだまだ客引きを止めない者達がいる。朝も昼も夜も関係ない。一日中ここで楽しく過ごしてもいいのだ。金と体力がある限り、だが。


「そこの綺麗な翅のお兄さんっ。うちの店に寄って行かない?」

「ははっ、また今度な」

「あらっ、ヤマトじゃないの。次はいつ来てくれるのかしら」

「あー、次な次」


 手を引いてくる女達を躱しながら歩く。今日はこれから仕事があるため、いつまでも遊んでいるわけにはいかない。仕事が休みなのだろうか、パブで飲み続けている者達の声が聞こえる。それを聞き流しながら、朝日の差し込み始めた道を行く。


 マーカラの相手をしている間に鱗粉が何枚も剥がれ落ちたようだったが、意識は途絶えていない。再生するほどの損傷はないということだろうか。しかし、今飛ぶことは控えた方がいいだろう。飛行中に蛹になり始めたら大変困る。


 からころという音が足元から響く。数多の音声が混ざり合い静寂を知らないシュナプセンでもなかなか聞くことのできない音である。下駄の音が聞こえる、それすなわち俺がやって来たということであり、客引き達が俺目掛けて動けるのはそのためだった。


 イーハトヴの伝統衣装を纏う蝶がいる。この歓楽街で俺のことを知らない者はほとんどいない。


 自分が人間と蝶の間に生まれた子供だということは分かっていた。父には翅があり、母にはなかったからだ。そのことに気が付いた時には特に何も思わなかった。だが、母親がこの国の人間トランプではないと知った時にはそれなりにショックを受けていた気がする。幼い頃の記憶は忘れてしまいがちだが、これは忘れることなどできない記憶だ。弟を連れてどこかへと帰って行ってしまった母の姿は今でもこの左目に焼き付いている。


 母の生まれた土地が日本という国だと父に聞かされた。そこは北東の国イーハトヴに似ているのだ、と。最初は母の見ていた景色を自分でも見てみたいと思って、イーハトヴのことを勉強した。漢字、ひらがな、カタカナ。自分の名前もイーハトヴ文字で書けるようになった。そして、俺はそこから泥沼に嵌まって行った。蒸気機関と電源装置の発達した、キャロリング大陸の工業技術最先端を走る現在の姿――一説では、大きな災害があって崩壊した街を立て直した際に現在の姿になったとされている――になる前の服飾や道具に惹かれてしまったのだ。今でも好んで使用している花札は多く、彼らの本来の生活に根差したものだと考えることができる。


 あれはいい文化だ。母の遺伝子が作用しているのかもしれない。とても好きだ。着物はいい服だ。


「芋虫」


 南の森を歩いていると、声をかけられた。やや開けた場所であり、使われていない小屋が今にも壊れそうな雰囲気で建っている。今日の待ち合わせ場所だ。


「芋虫って言うな」

「待っていたぞ」

「……相変わらず表情の動かない馬だなあ」


 仕事相手は呆れた表情を浮かべずに呆れたような溜息を吐いた。俺ほどではないが、美しい髪が風に揺れている。ポニーテールの状態であれだけあるのだから下ろすと随分と長いのだろう。額から伸びる一本の角が顔を動かすたびに振るわれていて若干近づきがたい。


「俺はユニコーンだ。その辺の馬と一緒にしないでほしい」

「同じなんだよそれ。俺は蝶なの。芋虫だったのは餓鬼の頃だ。ほら、見ろよこの翅。美しい俺に似合いの美しい翅だろう?」

「芋虫、先日の地下鉄襲撃事件の際の情報提供感謝している」


 ジェラルドはそう言って袋を差し出してきた。大きさの割に重さがありそうで、じゃらじゃらという音が聞こえる。


「へへっ、毎度ありぃ」


 受け取ろうとした俺の手は空を掴んだ。袋を高く掲げたジェラルドの無表情な紫の瞳が、何の関心も示していないように俺のことを見ている。


「は? おいおいユニコーンさんよ、どういうことだ。目の前に出しておいてお預けなんて酷いことをするな」

「特別依頼を受けるつもりはあるか」

「特別?」


 特定の拠点を持たずにぶらぶらしている俺のことを風来坊だと呼ぶ者は多い。間違いではないのだが、その実態は情報屋である。繁華街や歓楽街といった人の多い場所には情報も集まるものだ。店から店へ、人から人へ、夜毎場所を変えてうろうろしながら俺は情報を集めている。花から花へ、蜜を求めて回る蝶のように。そして、情報を売って得た金を使ってまた店に出入りして情報を集めるのだ。


 分野を問わず面白そうな情報を適当に渡せばたんまりと金をくれるこの男はお得意様である。普段ならば内容の指定などしてこないのだが、何か知りたいことでもあるのだろうか。チェスを狩る者でもあり、トランプの貴族とも懇意にしているこいつのことだ、特定の何かを知りたい日もあるということか。


 俺の下駄の歯が石を蹴った音と、ジェラルドのブーツのヒールが草を擦った音が聞こえた。


「あぁっ、くそっ」

「飛ぶことくらい予測できる」


 隙を見て金を奪おうとしたが失敗した。自分の速さには自信があるが、やはり馬には敵わないらしい。飛び掛かったが躱されてしまった。


「あるトランプの子供について、情報を得たら俺に流してほしい」


 金の代わりに写真を渡された。北東の森で名を馳せているおかしなお茶会の面々がテーブルを囲んで談笑している様子を盗み撮りしたもののようだ。ジェラルドは、そこに映っている少年を指し示す。


「アレクシス・ハーグリーヴズという少年だ。狂った茶会と親しくしている」

「……この子を調べろって? ユニコーンは女の子が好きって話だけど、男の子でもいいってことか。ははーん、小さい子が好きなんだな?」

「なるほど、この金はいらないか」

「いるいる! ごめんなさい! やります!」

「報酬は弾む。よろしく頼む」


 地下鉄の情報の分だ。と言って袋を投げて寄越すと、ジェラルドはポニーテールと尻尾を揺らしながら去って行った。


 袋を抱きながら、俺は写真に目を落とす。情報屋として、信用を落とすわけにはいかない。しかし、有主君についての情報を漏らすわけにもいかない。あの子は俺と同じだ。異世界人であることを悟られない程度の、当たり障りのない内容を伝えるにとどめておけばどちらにも損はないだろうか。


 有主君よお、君目ぇ付けられてるよ。目立つ行動は避けるに限るぜ。


 金と写真を懐に突っ込んで、俺は北東の森へ向かって飛び立った。途中、突然の睡魔に襲われて墜落したものの、全快状態の翅を得たので速度は増した。日が暮れ始める頃、広大な敷地を持つブランシャール家の庭に建っているクロックフォード邸に辿り着いた。件の有主君がテーブルの上を片付けている。他の茶会の面子は席を外しており不在だ。


「よお、人間。お片付け偉いな。お兄さん感心感心」

「大和さん、こんにちは」


 家のドアを見て、誰も出てこないのを確認すると有主君は俺に歩み寄って来た。


「あの、まだ伊織さんに話できてなくて……」

「そっか。でも今日はそれの催促に来たわけじゃないんだ」


 有主君は俺を見上げながら、テーブル布巾を手にして小首を傾げる。


「ふらふら飛んでて聞いた話なんだけどな、どうやら君のことを不思議に思っている人達がいるらしい。えっと、ほら、年明けの頃かな、裁判で国王に啖呵切っただろ。あの子供はどこの子だー、って未だに話題に上がるんだとよ」

「半年以上前なのに……」

「インパクトあったらしいもんな。まあ、気を付けとけよ。日本人だって気が付かれないようにな」

「わざわざそれを教えに来てくれたんですか? ありがとうございます。大和さんって優しいですよね」


 そこまで言って、片付け途中の皿に残っているビスケットを俺に差し出す。


「よかったらどうぞ」

「おっ、美味そう。ありがとな」

「大和さんは、伊織さんをどうしたいんですか」


 大きな目が俺を見上げる。


 俺は――。


 俺は、弟をどうしたいのだろう。伊織にはあちら側の家族がいる。一緒に暮らそうだなんて俺は言えない。俺のこともワンダーランドのことも忘れて、ただの人間として暮らしている今のあいつに、「オマエは人間ではない」と告げてこちらに引きずり込もうだなんて、そんな残酷なことはできない。


「分からない。けれど、道が繋がっているのなら、一度でいい。一度でいいから、会って話がしたい」

「それってつまり、やっぱり、こっちに連れてこいってことですよね」

「……まあ、そう、かなあ。無理にとは言わないけどさ。俺の頭ん中のあいつはいつまで経ってもちっちゃい芋虫なんだ。元気にしてるってんなら、今の姿を見たいと思うのは当然だろ。俺のことは兄じゃなくて、ただの異世界に住んでる蝶だって思ってくれて構わないさ」


 有主君はじっと俺を見つめている。


 この少年は時々人のことをこういう目で見ている。探るような、その人の更に深くを見ようとする目だ。人のことを疑い、窺い、自分との距離感を考えて接しているのだ、この子は。おそらく、彼が昼間でも学校へ行かずにここに来ていることと関係しているのだろう、ということは想像に難くない。そこに深入りするつもりはない。しかし、そうじろじろ見られるとお兄さん困っちゃうぞ。


 懐から煙管と刻み煙草、マッチを取り出して火を点ける。


「忠告はしたし、伊織のことも頼んだし、お兄さんは帰ります」

「帰る……。お家に?」


 吸い口を咥えて俺は飛び立つ。


「……帰る場所なんて持ってない。今宵の宿へ、ね」


 小さく手を振る有主君に手を振り返して、その場を後にした。


 今日はどの店に行こうかな。こちらへ行こう、と言うように視界の端で紫煙が揺れた。風の吹くまま気の向くまま、今夜はそちらへ飛んで行くとしようか。





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