第百五十面 ただそれだけで十分
ドロッセルマイヤーの話。
「えっと……。この本は?」
返却された本を棚に戻していた亀倉先輩が立ち止まった。背表紙に貼り付けられているシールを確認して、また歩き出す。貝殻をモチーフにした大振りな髪留めがかわいい。
カウンターの中で『メアリー・ポピンズ』を開きながら、亀倉先輩の仕事を観察する。貸し出しの対応は人が来ればやればいいのだし、今は手が空いているのだから問題ないだろう。先輩を見て学ぶのも大切なことだ。
たくさんの本に囲まれることができるし、本が好きな人達を見ることができるし、先輩達は優しいし、図書局に入ってよかったな。
局長の鬼丸先輩は名前こそ仰々しいけれど、当番表を細かく組んでみんなのことを考えてくれるし、たまに勉強も見てくれる。夏休みにはグランピングに誘ってくれたし。それに、ちょっと顔が好み。
一緒に当番をすることが多い亀倉先輩は仕事熱心でてきぱき働く。絵が上手で、特集の棚のポップなどを綺麗に作ってくれる。それに、女の子同士ということもあるのか話が弾んでとっても楽しい。
もう一人、当番が一緒になることが多めなのは神山先輩。ただ、先輩はあまり学校に来ていないので当番にも来ていないことが多い。本の知識はたくさん蓄えている人だから、色々教わりたいんだけどな。それに、ちっちゃいので並んでると落ち着く。
他の先輩達や同学年の局員達もみんないい人ばっかりだ。
学校祭も楽しみだなあ。図書局では有志から集めた古本を販売するって鬼丸先輩が言っていた。大きな学校ではないから部活の模擬店とかそういうのはないけれど、外局は別らしい。特別な感じがしてちょっと誇らしいね。
「すみませーん、これ借りたいんですけど」
「はーい。貸出カードを出してもらえますか?」
帰り際、亀倉先輩が美味しいクレープ屋さんのことを教えてくれた。こういうの教えてくれるのさすがだよなあ。鬼丸先輩や神山先輩だと、ここで来るのはきっと本の話だ。あの二人、何の説明も前触れもなく、突然本の小ネタを使った会話を始めるから一瞬何言ってるのか分からないことあるんだよね。
「あっ! あったあった!」
亀倉先輩の言っていた通りだ。スーパーの前に移動販売の車が来てるんだね。
車体の側面には『期間限定! 九月末まで』と貼り紙がされている。
忘れないうちに食べに来よう。今はお小遣い持ってきてないから食べられないもん。そうだな、お兄ちゃんでも誘おうか。格好いいというよりは綺麗で美人さんだから、かわいいお菓子なんて持ってたらますます女の子に間違われちゃいそうだけど。
そういえば、今朝お兄ちゃんアトリエにいたんだよな……。
アトリエにいたということは、夜中に目を覚まして部屋から移動したということだ。寝始めたら朝までぐっすり眠っているタイプのお兄ちゃんが夜中に起きる原因なんて、一つしか考えられなかった。今日は店番の日じゃなかったはず。お店で倒れる心配がないだけましかな。
クレープのことを忘れないようにメモをして、スーパーを後にした。
どの味が美味しいのかなあなどと考えながら歩いていると、大きなスーパーと比べるとこじんまりとした佇まいのお人形屋さんへ辿り着いた。わたしの家だ。家側の玄関もあるけれど、お店の入口から入った方が早い。
自動ドアを抜けて雛人形や五月人形の間を進んでいくと、カウンターで店番をしていた職人さんに声をかけられた。
「おかえりお嬢さん」
「ただいまー。お疲れ様です」
「若旦那がアトリエで待ってるって言ってたよ」
「はーい、着替えたらすぐ行きます」
関係者以外立ち入り禁止のドアを開けて、家に入る。そして、準備を整えてからアトリエへ向かった。
「お兄ちゃーん」
アトリエのドアをノックすると、中から返事があった。
「ただいまー!」
「おかえりつぐみちゃん」
アトリエに入ると、たくさんの視線がわたしに向けられた……ように感じる。棚に並ぶ人形達の目がこちらを見ているようだ。ふわふわのフリルやレースやリボンの中で、お兄ちゃんは人形の目玉をいじくりまわしていた。ちょっと怖い。
わたしがドアを閉めたのを確認すると、お兄ちゃんは手にしていた目玉と道具を作業台に置いた。長い髪を纏めている簪から垂れる花の飾りが揺れた。立ち上がった後ろで回転式の椅子が勢い余ってくるりんと首を回す。
お兄ちゃんは部屋の隅に置いてある箪笥やら鏡やらカラーボックスやらの方へ歩いて行く。わたしもそれを追った。そして、立ち止まったお兄ちゃんはカラーボックスから救急箱を取り出した。
「つぐみちゃん、いつもごめんね」
「いつも言ってるでしょ、謝らないでって。わたしがやりたくてやってるんだもん。今度謝ったらお父さんとお母さんにバラす」
「恐ろしいことを言うね君は。僕をこの家から追い出すつもりかい」
お兄ちゃんはお兄ちゃんで、わたしは妹だけれど、わたし達兄妹に血の繋がりはない。
お兄ちゃんが養子だということを知ったのは四年前。友達の間で流行っていた血液型占いを披露しようと家族に血液型を訊いて回った時、お兄ちゃんだけ違ったのだ。血液型占いの本に載っていた、親子の運勢というページの組み合わせと一致しなかった。不思議に思ったわたしが訊ねると、お兄ちゃんと両親は本当のことを教えてくれた。血の繋がりがなくたって、わたしが生まれた時にはもうお兄ちゃんはこの家にいたんだし、わたしにとってはお兄ちゃん以外の何者でもない。
わたしが救急箱を受け取ると、お兄ちゃんはわたしに背を向けてぐるりぐるりと髪を巻き直した。綺麗に上げられていて、なんだか和装が似合いそうだ。そして、ボタンを外してシャツを抜き襟の状態にする。そこから更に下ろして、肘に引っ掛けて止めて襟を背中の中ほどまで持ってくる。露わになったお兄ちゃんの上半身には包帯が巻かれていた。
「すごく痛いんだよね」
「無理に引っ張ったの? 起こしていいよって言ってるじゃん」
「ぐっすり寝ていたから、悪いと思って」
「部屋まで来てたなら声かけてよ」
お兄ちゃんはちらりとわたしを振り向く。
「次からはそうするよ」
するすると包帯が解かれる。肩甲骨の辺りに傷がある。強引にその部分の皮膚を剥がしたようで痛々しい。綺麗に外れた時はちょっと腫れているかなという程度だけれど、今日は出血もあったらしく真っ赤になっている。
必要最低限の筋肉しかないような細い体に、長く綺麗な髪で、魅惑的なうなじを晒して、赤い花を咲かせたような傷痕を背負う姿はやけに色っぽいと、いつも思ってしまう。やっぱり和装が似合いそうだ。吉原とかにいそうな感じだ。なんとなく。
「……つぐみちゃん」
「な、なに?」
「体に見惚れている暇があるのなら手早く処置をお願いしたいのだけれど」
そう言って、お兄ちゃんは床に座った。わたしも座る。
血の繋がりがないだけじゃない。わたしのお兄ちゃんは、人間じゃなかった。
二年前の冬休み、わたしはそれを見てしまったのだ。宿題がよく分からなくて、お兄ちゃんの部屋に突撃して教えてもらった。そのまま夜は更けていき、二人そろって寝落ちして、空が白むよりも前に目覚めた。先に起きたわたしが見たのは、お兄ちゃんの背中に生えている青く美しい蝶の翅だった。直後、目を覚ましたお兄ちゃんが翅に負けないくらい青褪めていたのを覚えている。
理由も、原因も不明。おおよそ一ヶ月、もしくは二ヶ月ほどの間隔で背中に翅が生えてくる。それを聞いて、怖いと思う前に絵本で見た世界のようだと興奮していたのでわたしはだいぶ危ない子供だったんだと思う。十年近く一人で抱え込んできたお兄ちゃんは、わたしに打ち明けると少しだけすっきりした表情をしていた。「こんな僕でも、お兄ちゃんでいられるかな」と言ったお兄ちゃんのことを、わたしは何も言わずに抱きしめた。
「いっ、いたたたた痛い痛い痛い!」
「仕方ないよ我慢してよ。グロテスクなもの見せられてるこっちの気にもなってよね」
わたしはお兄ちゃんの秘密をお父さんとお母さんに知られないように、協力をしているのだ。具体的に言うと翅をもぐ作業とその後の手当てだ。三年目だぞ、腕に磨きがかかってるはずだ。うんうん。
「待って、本当に痛い。悪化してない?」
「してないよう」
一人で試行錯誤しながらやるよりも随分と楽になったとお兄ちゃんは言っている。ただ、今日みたいに時々無茶をしちゃうんだよね。わたしはお兄ちゃんの力になりたいんだけど、まだまだ頼りないのかなあ。身につけてきた技があるから一人でももげるにはもげるんだ。でも、綺麗に外れないと今日みたいに流血沙汰になって後が大変だ。
怪しまれないように家族用とは別に用意している救急箱の中には、消毒液や塗り薬やガーゼや包帯が大量に入っている。それを駆使して、お兄ちゃんの指示通りに処置を施していく。
「できたー!」
「手際がよくなったね」
「偉い? 偉い?」
「よしよし、偉い偉い」
「えへへー」
わたしをなでなでしてから、お兄ちゃんはシャツを着て髪を下ろした。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
髪を巻き直そうとしていたお兄ちゃんが、簪を持っていた手を止める。
「何も分からないの、翅のこと」
「分からないって前にも言っただろ。覚えているのは、どこかの深い森と、恐ろしい何かだけなんだ」
「神山先輩と鬼丸先輩は何か知ってるんじゃないかな」
「まさか」
鬼丸先輩はお兄ちゃんのことを敵視しているように見えた。憧れているんだなどと言いながら、監視するように見ていた。一方、神山先輩はとても不思議そうにお兄ちゃんのことを見ていた。もいだはずの翅が見えているかのように、別の誰かを重ねているかのように。
髪を纏めて、お兄ちゃんは救急箱を手に立ち上がった。カラーボックスに救急箱をしまい、作業台へ向かう。
「ねえっ」
「んー?」
「もしも……。もしも、本当の家族が見つかったらどうするの」
長い髪を揺らしてお兄ちゃんが振り向く。家族の誰とも似ていない青い瞳が小さく震えていた。
「こんな化け物が他にもいるっていうのかい」
「ば……化け物、なんかじゃ、ない! お兄ちゃんは、わたしのお兄ちゃんだよ」
「……それが答えだよ。僕は寺園伊織だ。君の兄だ。ただそれだけで十分だろ?」
回転式の椅子をぐるりんと回して腰を下ろし、人形の目玉をいじり始める。
お兄ちゃんは、お兄ちゃんだ。けれど、どこかに本当の家族がいるはずなんだ。その人達に会うことができたら、翅を隠すことも、痛い思いをすることも、必要なくなるんじゃないだろうか。きっとその方が、体の負担は少ない。毟っても毟っても生えてくるのは、体にとって必要な部位だからのはずなんだ。平気そうな顔をしているけれど、体にはよくないはずだ。だって現に痛いし辛いんだもの。
お兄ちゃんが楽になるなら、翅のある人達と暮らした方がいいんだ。
でも――。
お兄ちゃんが行ってしまったら、わたしはきっと泣いちゃうんだろうな……。