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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
十九冊目 映して覗いて
150/236

第百四十八面 そんな顔すんじゃねえよ

 強烈な一撃を食らってニールさんがくずおれる。


 アーサーさんが愛用しているモンクストラップタイプの革靴は、森の中でも安全に歩けるように非常に頑丈にできている。見た目はフォーマルだが、底はアウトドアにぴったりなのだ。


 胸元を押さえて咳き込むニールさんを見下ろして、アーサーさんは小さく溜息を吐いた。


「困った兄さんですね」

「っは、ぁ……。こ、殺す気か……!」

「死ぬつもりだったのでは?」

「はぁ、あ。……っう」


 アーサーさんは屈むと、蹲っているニールさんの猫耳のつけね辺りを軽く撫でた。


「本当に、困った兄さん」

「自分に呪い殺されるところだった」

「やはり私の所為なのですね」


 呼吸が整って来たニールさんが顔を上げ、アーサーさんの肩をぽんと叩く。


「そんな顔すんじゃねえよ。オマエの笑顔は俺が守ってやるから安心しろよな」


 にやりと笑った兄に対して、弟は表情を曇らせた。





 部屋の外に出るのにも覚悟が必要だった。まだドミノが怖い。と言って部屋に引っ込んでしまったアーサーさんと、血を流しにシャワーに行ったニールさんが不在の中、ぼく達三人はテーブルを囲んでいた。


 ピッチャーの脇には端っこに赤い汚れの付いたケーキ屋さんの箱が置かれている。エルシーの店のものだ。バンダースナッチ三人を相手に激しい戦闘をしたものの中のケーキは無事である、とのことだがあまり食べる気にはなれない。


「この間クラウスが来た時に、子供の頃はニールがお金稼いでアーサーが勉強してたって、ニール言ってたでしょ」


 ルルーさんがグラスを弄ぶ。衣装合わせ中に逃げ出してきたという言葉通り、ちょっぴり華やかな格好。その手を覆う手袋はほんのりピンク色で、花を模したリボンがくっ付いていた。


「悪いことしてたのかって訊くクラウスのことをいじってはぐらかしてたけどさ、本当は」

「危ないこともたくさんしてきた」


 タオルを被ったニールさんが庭に出て来た。グラスにアイスティーを注ぎ、一口飲む。金色の髪からは雫が滴っていた。


「ただ、その内容をオマエ達が知る必要はない。……すげえ怪我して帰ったことがあって、その時、帽子屋のやつぎゃーぎゃー泣いて大変だったんだ。『お兄ちゃんが死んじゃう』って言って。たぶん、その時のことを思い出したんだと思う。『ボクのせい?』って言ってたし」

「ニールは落ち着いた?」

「あー、たぶん。自分で自分を呪って苦しんでるんだから笑えねえよな。止められねえんだもんなぁ。死ぬかと思った」


 冗談を言っているような口調だが、全く笑っていない。にやにやを絶やさない笑い猫が笑わない時はにはよくこの呪いが関わっているように思えた。


 解くことは叶わないのだろうか。


 タオルで髪を拭いながら、ニールさんは席に着いた。右手にタオル。左手をケーキの箱に伸ばす。


「オマエら茶菓子いらねえのか? 人が折角守り抜いて帰って来たっていうのによ」

「い、いやあ、なんか赤いよそれ」

「中身は無事だって」


 シュークリームが箱から取り出され、皿に載せられた。薄い茶色がちらりと見えるのでチョコレートクリームなのだろう。むんずと掴み、ニールさんが一口食べる。


「美味いぞ」

「ええー、でも箱に血ぃ付いてたじゃん」

「外側にちょっとだけだろ気にすんじゃねえよ」

「気にするよー。僕お嬢様だからね」

「こういう時だけお嬢様なんだな」

「いつもかわいいお嬢様だろー?」

「知らねえなあ」


 枕に顔を埋めるナザリオと並んで二人のやり取りを見ていると、獣道の向こうからエドウィンがやって来た。何やら急いでいるらしく駆け足だ。夏の青々とした森の木々の中で緑色のマントが翻る。


 エドウィンはテーブルまで来ると、思い切り天板を叩いた。テーブルクロスが少しずれ、グラスの中でアイスティーが波打った。


「チェシャ猫っ! オマエ! なんてことをしてくれたんだ!」

「どうしたんだよそんなに感情ぶちまけて。明日表情筋が筋肉痛になるんじゃねえか」

「ふざけている場合ではないんだ。大問題なんだ」


 エドウィンはテーブルをべしべし叩く。


「バンダースナッチと乱闘騒ぎを起こしたらしいな」

「えー、っと、そうだな。まあそうなるな」

「アレは先日の地下鉄襲撃事件の際に捕縛された者で、首輪を装着し警察の立ち合いの元、当時の状況を確認していたところだったんだ」

「あぁ? 知らねえよ。そこにバンダースナッチがいるなあって思って、気が付いたらそこに倒れてたんだからな。ちなみに俺は無傷なんだぜ」

「そんな『すごいだろ』と自慢するように言うな」


 まあまあお茶でも飲んで。とルルーさんに差し出されたグラスを奪い取るように手にして、一気に飲み干す。グラスも叩き付けてしまうかと思ったけれど、さすがにそこには気を使っているらしく優しくテーブルに置いた。しかし、その代わりにニールさんの尻尾を思い切り掴んだ。


「いってえ!」

「オマエが騒ぎを起こしたら管理者であるオレに飛び火するんだ」

「気が付いたらやってたんだよ。アイツらは弟の敵だ」

「……またか。……また、その呪詛か」

「いてて尻尾引っ張んな馬鹿野郎」


 手を払いのけられたエドウィンはフランベルジュの柄に手を載せる。右足にやや体重をかけたいつもの立ち方だ。柄から下がるアレキサンドライトは緑色に光っていた。同じような色を湛える無表情な瞳は若干の苛立ちを伴いながら、椅子に座っているニールさんのことを見下ろしている。


 尻尾を抱えて握られた部分をさすりながら、ニールさんはエドウィンのことを睨みつけていた。結構痛いんだろうな。


「じきに警察が来る。捕まる覚悟くらいしておけ」

「はあ? なんでだよ」

「警察の捜査を妨害したんだ当然だろう。それに先に手を出したのはオマエの方なんだぞ。……頼むから問題を起こさないでくれ。また……始末書を書かねばならなくなる」


 エドウィンは柄から左手を離し、右腕を撫でた。自分の腕なのに、なんだか探るような触り方だ。ニールさんも気が付いたらしく、自分の尻尾から手を離してエドウィンの左手を掴んだ。


「オマエ、右腕どうしたんだ」

「報告を受けて慌てて出て来たから、階段で転んで……」

「誰にやられた」

「だから、階段から落ちたのだと言っているだろう」


 ニールさんに気を取られている隙にルルーさんが背後に回っていた。教えてあげた方がいいのだろうか、などとぼくが考えている間に、ピンク色の手袋が無表情な左頬に触った。


 大和さんのように目を隠しているわけではないけれど、エドウィンの前髪は左側が際立って長い。髪の影が落ちるため顔の様子が分かりにくいうえ、見る角度によっては顔の左半分が完全に隠れてしまう。


 ルルーさんの手が、そんな左前髪を掻き上げた。エドウィンは咄嗟に右手で顔を隠そうとするが、ルルーさんに弾かれてしまった。露わになった左頬は薄っすらと腫れて赤くなっている。


「触るな」

「誰にやられた」

「……先輩、達に。……慣れてる、問題ない。……わっ」


 立ち上がったニールさんがエドウィンの頭を乱暴に撫でた。「触るな」と拒絶されたが、手は止まらない。


「帽子屋に手当てしてもらえ。中にいるから」

「待て、何のためにオレが来たと思っているんだ。オマエのフォローのためだ。警察に喧嘩を売らないように、警察が喧嘩を売らないように」

「大丈夫大丈夫、上手くやるさ。怪我人はおとなしくしてろ」

「しかし、管理者として同席する権利が……」

「アリス、連れてけ」


 指名され、ぼくは席を立ってエドウィンの左手を取った。


「行こうエドウィン。ルルーさんもいるから大丈夫だよ」

「だが」

「どちらにせよ今の体じゃ、警察に喧嘩を売ったニールさんのことは止められないでしょ」

「喧嘩売らねえから安心して引っ込んでろ」


 ぐっ、と親指を立ててにやにや笑うニールさんを見てエドウィンは渋々歩き出す。あれだけにやにやしているということは、呪いの効果が切れてすっかりいつもの調子に戻ったということだろう。


 ぼくはエドウィンを引っ張って家に入る。


「いつまで手を掴んでいるつもりだ。離せ」

「あっ、ごめん。……エドウィン、あんまり触られるの好きじゃないよね」


 ぼくの言葉には答えずに、離した手で壁を撫でるようにして歩いて行ってしまう。歩くのに合わせてマントが揺れる。裾の部分が少しほつれているのが見えた。


 アーサーさんを呼び行こうとしたぼくは、エドウィンがリビングに入ったのを見て立ち止まった。いるのだ、リビングに。


「外が騒がしいので窓から見ていましたが、何かあったのですか」


 言い切る前に、エドウィンがソファに倒れ込んだ。


「アーサーさん、救急箱ってどこにあるんでしたっけ。怪我してるんです」

「なんと。少々お待ちを」


 ぼくはソファに歩み寄る。無表情な緑色の瞳がちらりとこちらを見た。外にいる時は堪えていたのだろうか、今は先程よりも辛そうに見える。


 おそらく、今回の暴行の理由はチェシャ猫の管理不行き届き。花札の血を引くことも罵倒されたに違いない。ドミノだけでなく、異邦人バックギャモンのことも差別的に見ているのがこの国の人間トランプのほとんどだと思うと恐ろしい。


 救急箱を手にしたアーサーさんがやってきた。ゆるりと起き上がったエドウィンはおとなしく服を脱ぐ。痛々しい痣がいくつもあった。出血している部分もあるようだ。


「貴方も傷の絶えない人ですね。それも、戦いでできたものではなく、周りから攻撃されてできたものが。王宮騎士団は荒れているのですか」

「他のやつのことは知らん。んっ……」


 トランプにはあまりにも強力すぎる、ドミノによく効く薬を傷に塗られて無表情が僅かに揺らいだ。


「団長の期待に応えれば応えるほど、王女殿下に認められれば認められるほど、先輩や同僚からの当たりがきつくなっていく。『親の七光り』『花札のくせに』。何かミスがあれば、これはいいチャンスと言わんばかりに囲まれる」

「エドウィン、クロンダイク公やジャンヌさんには相談してるんだよね?」

「相談相手が貴族というのも妬まれる原因になりうるでしょう」


 アーサーさんに包帯を巻かれながら、エドウィンは小さく頷いた。


「団長にも一応相談した。しかし、そこで自分が個人的に介入すると逆に酷くなる可能性があるからと言われ、集会の際に騎士団内での人間関係について話をするに留まった。適切な対応だとは思う」

「ブランドン団長からは相談後も重要な仕事を任されているのですよね」

「オマエ達の管理を引き続き任されている。他も、色々」

「しかし、その仕事が上手くいけば妬まれ、失敗すれば手を上げられるのでしょう?」


 アーサーさんが人の悪そうな笑みを浮かべた。こういう表情をしているとニールさんにそっくりで、猫耳や尻尾の有無など関係なく兄弟なのだとよく分かる。笑顔で威圧している時の方がどちらかというと怖いけれど、この顔の時は純粋な恐怖を覚える。


 自らの狂った世界に客人を引きずり込まんとするおかしな帽子屋に見付かってしまったクラブのジャックは、問答無用にティーカップを与えられ続ける。そんな場面を想像しながら、ぼくは二人のことを見ていた。


 アーサーさんの口元に鋭い牙が覗いている。


「貴方が周囲に羨望され暴行されるのを分かっていて、任務を与えているのでは?」

「何を言っているんだキサマ」

「ふふ、冗談ですよ。お気になさらず」

「さすがのオレでも怒る」

「おや、怒れるのですか」

「喧嘩を売っているのか」


 クラウスほどではないけれど、エドウィンも毎回毎回いいように遊ばれているよね。酷い大人達だ。毎回毎回ぼくもこの感想を抱いている気がする。


 ウィリアム・ブランドン騎士団長。裁判の時にちらっと見て受けた印象は、優しくて強そう、だ。アーサーさんが言っていたようなことをするとは思えない。冗談が真実になりませんように。


 蒸気自動車がお茶会会場にやって来たのを眺めながら、ニールさんに何事もないことを祈りながら、手当の終わったエドウィンに服を渡した。








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