第十四面 夜は危ないんですよ
公爵夫人のお遣いの翌日。
ぼくは姿見の前に立っている。昨日の夜は鏡の中に放り込まれた後、戻ろうとしたら向こう側に何かが置いてあって通れなかった。そういえば、初めてワンダーランドに行った時も夜に確認したら通れなくなっていたな。夜は通れないようにしているのかな。誰が? どうして?
誰が? は、考えるまでもなくアーサーさんかニールさんのどちらかだろう。どうして? は、うーん……。ぼくを通さないため、なのかな。でも、それがどうして、だよね。
昨日の夕方、ニールさんはやけに急いでいるようだった。アーサーさんとルルーさんも、早くぼくを返すように言っていた。それに、危険な目に遭ったらどうするの、と。
夜のワンダーランドは危険なのか? でも、それならみんなも危ないじゃないか。のんびりお茶なんかしないで、片付けをするべきだ。では、なぜぼくだけ放られたのか。
姿見に手を伸ばし、鏡面に触れる。
通れそうだ。
◇
今回は上手に通ることができだ。どこもぶつけていない。
そういえばここは誰の部屋なのかな。鏡について教えてくれたし、私がなくした、って言ってたからアーサーさんの部屋なんだろうか。奥の部屋も気になるけどなあ……。まあ、その辺は追々教えてもらうことにしよう。
外に出ると、やっぱりお茶会セットが準備完了していた。もしかして出しっぱなしなのかな。
「アリス」
テーブルに半ば伏せるような感じでだらしない体勢のニールさんがぼくに気が付いた。今日はルルーさんやナザリオの姿はない。
「こんにちは。アーサーさんは?」
「客だよ」
「お客さん?」
ニールさんの指差す方向、石畳の端のほうでアーサーさんとエドウィンが話し込んでいる。昨日、明日行くって言ってたな。昨日の明日、つまり今日だ。アーサーさんは余裕たっぷりに微笑んでいるけれど、エドウィンは少し緊張した面持ちだ。ニールさんの隣に座って見守っていると、エドウィンが突然腰に差した剣の柄に手をかけた。そして、引き抜く。
何で!? これってもしかして緊急事態!?
ニールさんは驚いた様子もなく、剣を突き付けられている弟の姿を眺めている。優雅にお茶まで飲んでいる。
エドウィンが手にした剣は、刀身が波打った不思議な形をしていた。幅のある鞘だなと思っていたけれど、あの形状ならば納得だ。あれはフランベルジュといって、見た目の美しさと桁外れの殺傷能力を持つ剣なのだとニールさんが横から教えてくれた。扱いは難しいらしいけれど、エドウィンはそんなフランベルジュを使いこなす剣の名手なのだという。けれど実戦経験はないそうだ。
アーサーさんはフランベルジュを指差しながら何やら言っている。それを聞いてエドウィンがうなだれる。剣を鞘にしまい、エドウィンはアーサーさんに何かを言う。
「何の話をしているんですか」
「俺が知るかよ」
ニールさんはぼくの前に置かれたティーカップにお茶を注ぐ。黄色い花びらが浮かんでいた。
「黄色いヤマサゲテテのお茶だ。その花も食えるやつだからそのまま飲んでくれ」
柑橘系に似た爽やかな香りがする。飲んでみるとちょっぴり酸っぱい。
「ははは、酸っぱいか。初めて飲むやつはだいたいそんな顔するんだよな」
「でも美味しいです」
「当たり前だろ。帽子屋が選んでくるのはいいお茶ばかりだ」
そう語るニールさんは嬉しそうだ。何だかんだで弟のことは大事に思っているのかな。
話が終わったのか、軽く礼をしてエドウィンが帰っていく。その後ろ姿に小さく手を振って、アーサーさんはこちらへやって来る。
「アリス君、いらっしゃい。今日はヤマサゲテテのお茶ですよ」
「いただいてます。美味しいですね。……エドウィンと何の話してたんですか? 剣抜いてましたけど……」
「ああ、書類の提出期限が迫っているからと催促されたんですよ。もう少し待ってくれと言ったら剣で脅されましてね。それで、そのようなもので私を動かせるとお思いで? と言ったのです。そうしたらうなだれて、怒られるのはオレなのになどと言いながら帰って行きました」
「書類?」
アーサーさんはニールさんの隣に座ってお茶を飲む。
「ええ、先日エドウィンに頼まれましてね。この時季に咲いている森の花についてまとめて欲しいと。そして、新種を見付けたら教えて欲しいそうです」
「王宮騎士が何でそんな」
「薬草に興味のある先輩に頼まれたそうですよ」
「アイツも忙しいからな、代わりに俺達がやってんだよ。よくあるんだ、こういうこと」
「彼には普段無理を言っているので、たまには彼の手伝いをしてあげませんとね」
クロックフォード兄弟は全く同じタイミングでお茶を飲んだ。双子なのか。いや、廊下の写真はニールさんの方が少し大きかったから、歳は少し離れているはずだ。それでこんなにシンクロするなんて、本当は仲がいいんじゃないだろうか。
「あの、昨日の夕方追い出されたんですけど、あれ何だったんですか」
「夜は危ないんですよ」
「子供は早く帰らねえとな」
「危ないって、皆さんはあの後もお茶してたんでしょう?」
二人は押し黙る。ちらちらと視線を交わして、何とも怪しい。
「危ないものは危ないのです」
「子供の夜歩きなんて駄目に決まってるだろ」
「……ふーん、そうですか。分かりました」
何かを隠しているのがバレバレだ。いつもの余裕はどこへ行ってしまったんだろう。それほどまでに重要なことなのかな。
日が傾き始めた頃、帰りますねと言って席を外した。二人はエドウィンに頼まれたという書類を確認していて、関心はそちらに向かっているようだ。「ええ」「おう」という無関心な返事をされてしまった。うーん、まあ、いいかな。
家に入る振りをして、裏に回った。うん、気付かれてないみたい。
辺りが少しずつ暗くなってきた。
「そろそろ中に入ります?」
「そうだな」
「アリス君、夜に興味を持ってしまったのでしょうか……」
「大丈夫じゃねえか? ちゃんと注意喚起しただろ」
「んん……。また聞かれる気がします」
「心配性だなあ……。あ、そうだ。なあ帽子屋、今日の晩飯さ……」
ドアの開閉音がした。
ああ、夜だ。
新しい本の新しいページを捲るようなこの感覚。わくわくする。これは空気に飲まれているな。
暗い森の中に一歩踏みだす。月明かりに照らされ、辛うじて足の踏み場は分かる。
冒険小説の主人公になった気分だ。ロビンソン・クルーソーや十五人の少年達は何を思っていたのだろう。ここは無人島じゃないけれど、異世界ではある。ぼくはガリバーかもしれない。
本を読んでいると、時間を忘れて読みふけってしまうことがある。次のページまで、次のページまで、そう思いながらどんどん捲る。
運動とか、冒険とか探検とか、そういうことは基本的に苦手。秘密基地を作る子達を遠くから見ているのがぼくだ。ぼくの冒険は本の中。物語の主人公達と一緒にドキドキわくわく、それが好き。今だって森の中を散策してはいるけれど、感覚としては本を読み進める感じだ。さあ、このページを捲ると何が待っている?
ああ、すごい……。
少し開けたところに出た。木々の間で月光を浴びた大岩がきらきら光っている。中に色々な鉱物が混じっているのかな。
もう少し近くで見てみよう。
「アリス君?」
「うわっ」
「貴方、どうしてこんな時間にいるの」
夜の闇に美しい紫のドレスを纏った公爵夫人だった。ちょこんと載せたミニハットに赤いハートが付いている。
公爵夫人は草を掻き分けて近付いてくると、「やっぱりアリス君ね」とぼくを睨んだ。眉を吊り上げ、頬を膨らませて、怒っているんだろうけれどちょっとかわいい。
「ニールから聞いていないの? 夜は危険なのよ。貴方人間だし子供なんだから」
「夫人も人間ですよね。危ないんじゃないですか? 女の人が一人で」
ぼくがそう言うと公爵夫人は眉をひくつかせた。
「わ、私は……。いつもと違う道に入って迷ったとか、そういうわけじゃ……」
そういうわけなのか。意外とおっちょこちょいなんだろうか。
「ラミロがぴょこぴょこ先に行ってしまうからこういうことになったのよ。いい、アリス君。夜、森にいるなんて駄目よ。あの兄弟に言われてるだろうけれど」
「教えてもらってはいないんですよ。何が危ないんですか?」
「はあ……。あの二人はいつもそうね。駄目だよって言うくせに理由を言わないんだから」
やれやれと肩を竦めて、公爵夫人は溜息をつく。
「あのね、夜はチェス時間なの」
チェス時間? チェスって、あの、西洋将棋だよね。黒と白の、ポーンとかが出てくる。
不思議の国に来たもんだと思っていたけれど、鏡の向こうなのだから鏡の国でもあったのか。でも、チェスが危険ってどういうことだろう。