第百四十七面 オマエのことは俺が守ってみせる
何気ない日常にも、いつもとちょっぴり違う部分などがあるものだ。
例えば、今ぼくの目の前に広げられているお茶会セットに漆黒のオーナーがいるところとか。
「やあナオユキ君」
始業式からの連続登校が途切れた今日。ワンダーランドへやって来たぼくを出迎えてくれたのは、相変わらず自室に引き籠って勉強中のアーサーさんだった。「馬鹿猫が外にいるはず」と言うので出てみたけれど、そこにいるのはチェシャ猫ではなくて大烏だったのだ。
学校を休んだのは「ちょっと疲れたから」という単純な理由だ。どこかでまだ慣れていないというか、教室を自分の居場所にできていないというか、そういう感じ。保健室にいてもよかったのだけれど、朝制服に手を伸ばして拒絶反応が出たので休むことにした。次はもうちょっと頑張ろうと思う。
テーブルに近付いてから周囲を見回す。しかし、いつものメンバーの姿はない。席に着いているのはイグナートさんだけだ。彼の前にはちょっとお高めそうなお店の紙袋が置かれている。
「ニールさんは?」
「買い物」
右手で頬杖を突きながら、空っぽのグラスの縁を左手の人差し指でぐるぐる撫でている。
「お茶菓子が足りなくなりそうだから買いに行くって。通りすがりの私を捕まえて留守番をさせているんだよ彼は」
「イグナートさんお仕事中だったんじゃないんですか」
「一応ねえ。ほら、バンダースナッチやらラースやらが地下鉄で暴れただろう? あれの所為でコーカスレースも大忙しさ。獣の良家から護衛を頼まれるわ、商人から荷物運びを任されるわ、パトロールの回数が増えるわ。書類もたんまりで、私はハワードが心配でならないよ」
手伝えばいいのに。
グラスを撫でている手も、頭を支えている手も、その指はいくつもの指輪で飾られていた。そして、羽根を模したピアスが耳元で光り、大粒の宝石がクラバットの結び目に光っている。いつにも増して煌びやかな印象を受けるのは、おそらく増えた仕事で得た報酬で新たな装飾品を増やしたからだ。嫌味な成金風の風貌に磨きがかかっている。
「体はもう大丈夫ですか」
「あぁ……。時々あるんだよね。困っちゃうね」
イグナートさんはあっけらかんと笑う。本当に「よくあるいつものこと」なんだな。とても苦しそうだったけれど、本人的には琉衣の喘息の発作よりも気にしていないものなのかもしれない。
「……またハワードに迷惑かけちゃったな」
普段から仕事を押し付けていることに関しては全く悪びれていないのが非常にタチの悪いところだと思う。
羽根のピアスが揺れる。見た物全てを吸い込んでしまいそうな漆黒の瞳が、ぼんやりとカップや皿を眺めている。
「調べても調べても答えに辿り着けなくて。私の体のことも……。依頼されているジャバウォックのことも。……聞いてくれよナオユキ君」
「何です」
「この間、ティリーの親御さんが岩の広場の事務所にやって来てね、『うちの子を危ないことに巻き込まないでください』『ただのお手伝い屋さんだと思っていたから預けていたのに』って言われたんだ。そのまま連れて帰られてしまって、それ以来あの子は出勤していない」
「親としては当然だと思いますよ。だって、怖いですよ」
そういうもんかあ。とイグナートさんは唸る。
「本当の親のことは余り覚えていない。チャドじいさんはかわいがってくれたものの割と放任的だった。だから、親の気持ちはよく分からない。子供扱いするのも失礼だと思って時に厳しくしたこともあったし、大きな仕事を任せることもあった。彼や家族には重荷になっていたのかもしれないな。……イーグルトンさんに話をしに行こう。そう思って、菓子折りを手に飛んでいたところをチェシャ猫さんに呼び止められて今に至る」
「ティリーのお家は遠いんですか?」
「毎日通うには遠いね。だからよく事務所に泊まっていたんだけれど……。おっ、三月ウサギさんが来たみたいだし、留守番は終わりだ。私はこれで」
テーブルに載せていたお高めそうな紙袋を手に立ち上がる。漆黒の翼が日光を受けて青に緑に煌めいた。紫も混じっているように見える。身に纏った金属や宝石をぎらぎらさせながら、イグナートさんは南の方へ飛んで行った。
茂みから姿を現したルルーさんがそれを見上げて見送った。
「あれー、イグナートじゃん。どしたのあの人」
「ニールさんに留守番を頼まれていたそうです」
「ニールは?」
「お買い物」
「なるほど」
アリス君も突っ立ってないで座りなよ。と言いながらルルーさんは席に着く。ひらひらのレースが揺れている。
……ひらひらのレース?
よく見ると、ルルーさんは花柄のスカートを穿いていた。裾にレースがあしらわれている。そして、ぼくの視線に気が付いたらしいルルーさんはあろうことかその裾を捲って見せた。思わず目を覆ってしまったぼくが恐る恐る顔から手を離すと、スカートの中に短パンを穿いているのが見えた。
「ブリッジ公に話しに行ってクロヴィスのことが公になるのは防げたんだけど、公爵にお見合い写真を投げ付けられてさあ。もうやだやだ。へへへ、衣装合わせ中に逃げてきたところなんだ」
「怒られますよ」
「もういいよー、怒られても。『またお茶会に行く頻度が増えて来た!』って使用人に文句言われてるけどどうでもいいし、僕の自由だもんね」
「ルルーは自由過ぎるんじゃないの」
テーブルの下からにょきっとナザリオが出て来た。
「ちょっとはお嬢の自覚持ちなよ」
「何だよー、寝てなよー」
「ナザリオ、いつからそこに」
「イグナートがいる時からいたよぉ。誰にも気付かれてなかったみたいだけど」
枕をテーブルのに載せて、ナザリオは椅子に座る。ルルーさんに促されてぼくも座ったけれど、このまま三人で座っていてもお茶は出てこない。
ぼくは席を立った。
「揃って来たのでお茶持って来ますね」
「ありがとー、アリス君」
家に入ってキッチンへ向かうと、冷蔵庫の前にアーサーさんが立っていた。ぼくの気配に気が付いて振り向く。
「おや、どうしました」
「ピッチャーがなかったので取りに」
「あの馬鹿猫、グラスだけ持って行ったのですね」
だからあったのか、と呟きながらアーサーさんはピッチャーを差し出してきた。左手にピッチャー、右手にはアイスティーの入ったグラスを持っている。ぼくがピッチャーを受け取ると、アーサーさんはグラスに口を付けた。
真っ白な手袋がグラスを撫でる。水滴が手袋に吸い付いた。
「兄さんと顔を合わせて話せるようになったのです」
「よかったですね」
「えぇ。少しずつ、元に戻ることができればよいのですが……」
どうしたのニール! というルルーさんの声が外から聞こえて来た。続いて、ドアの開閉音。
アーサーさんはグラスを調理台に置いてリビングに向かい、廊下へ顔を出した。ぼくもそれに続く。
玄関を見遣ったぼくの目に飛び込んできたのは、赤だった。鋭い爪の光る獣の腕から赤が滴っている。壁に添えられたアーサーさんの手が震えたのが視界の端に見えた。
「馬鹿猫……?」
「……くっ。くは、はははっ……! やってやったぞ。俺はやったぞ」
駆けて来た血まみれのニールさんが、アーサーさんの両肩に手を載せて体を引き寄せた。狂気を孕んだ笑顔を浮かべる兄に対して、弟はとても恐ろしい物を見るかのように強張った苦笑いを浮かべていた。
爪も、腕も、尻尾も、猫耳も、着ている物も所々が赤くなっている。本人はいたって元気そうであるから、全部返り血なのかもしれない。
ニールさんはアーサーさんの肩を揺さ振る。
「バンダースナッチを見付けたんだ」
「えっ」
「だからやってやったんだ。オマエの敵討ちだ。喜べ帽子屋、俺はやったぞ。オマエの敵、オマエを傷付ける者、全部俺が殺してやるから」
「殺したのですか」
「とどめを刺す前に警察に邪魔されちまったけど、しばらく再起不能だと思うぜ。なあ、嬉しいだろ? もっともっとやってやる。オマエのことを怖がらせるヤツ、全部殺してやるから安心しろ。オマエのことは俺が守ってみせるから」
「……あ」
「あとどれくらい殺せばいい?」
「い……嫌っ……!」
実に楽しそうに笑っていたニールさんは、突き飛ばされてよろめいた。笑顔が驚きに変わる。
「帽子屋」
「わ、私……兄さんが、怖いです……」
「あぁ、悪い悪い、腕だな」
鋭く長い爪と柔らかそうな肉球を備えていた腕が人間の物に変わる。改めて弟に触ろうとしたニールさんだったが、アーサーさんは身を翻してそれを躱してしまった。
廊下の向こう側、部屋のある方へ後退りしながら、アーサーさんは自分の体を抱いていた。ぎゅっと掴まれてシャツに皺が寄っている。銀に近い水色の瞳は激しく震えていて、今にも回り出してしまいそうだ。
「帽子屋?」
「私の所為ですか。私が、私が弱いから兄さんにそんなことをさせてしまうのですか」
「家族を守るのは長男の俺の仕事だろ」
「違う。そうじゃない。そういうことじゃなくて、私は、僕は……。やっぱり僕の所為だ……!」
「待っ……。アーサー!」
踵を返したアーサーさんが部屋に入る。伸ばされたニールさんの手は空を掴んだ。
「俺は何か間違えたのか……。……アリス、俺は間違ってないよな」
「えっ!? えっと……」
玄関から覗いていたルルーさんとナザリオにも同じ質問を振る。しかし、二人は困ったように顔を見合わせるだけだ。
ニールさんはぼく達のことをぐるりと見て、弟を掴めなかった手を見た。
「オマエが、嫌う者……。オマエを、怖がらせるヤツ……」
僅かな躊躇いを見せつつも、返り血に染まった両手で自分の首を押さえる。手に力が入り、口角が吊り上がった。
「全部俺が……っ」
「何をして……。だ、駄目ですよやめてください!」
「ニール馬鹿っ、何やってんの!」
ルルーさんの飛び蹴りを受けて体が傾くが、首から手は離れない。それどころか、どんどん力が込められていく。
「俺が……消して……っ」
「自分を消すのは最後でしょ! やめてってニール!」
「……っく、ぁ」
「ねえってば!」
ナザリオがアーサーさんの部屋のドアを叩くが、返事はない。首を絞めんとする腕を押さえるけれど、ぼくとルルーさんの力ではニールさんを止めきれない。
「アーサー出てきてよぉ! ニールが死んじゃう! 死のうとしてる! 自分の存在が弟を怖がらせるって! だから消すって!」
ナザリオが訴える。しかしドアの向こうは無言のままだ。
「出て来てよお!」
少しして物音がした。次の瞬間ナザリオが床に転がる。勢いよく開いたドアから踊り出て来たアーサーさんは、獲物に襲い掛かる猫の速さで迫ってくるとぼくとルルーさんを払いのける。そして、見事な蹴りを兄の鳩尾に叩きこんだ。




