第百四十六面 人聞きの悪い子ね
「幼気な少年を誑かしてどうするつもりですか」
「人聞きの悪い子ね」
白ずくめの女はぼくから離れて立ち上がる。帽子を深く被り直して、鬼丸先輩を鋭く見た。
「アリスを失うわけにはいかないの。慌てるのも当然でしょう?」
「アナタにとって神山君は何なんです」
「……私にはアリスしかいないの。残っているのは『アリス』という名前だけだと、そう言ったはずよ」
少し遅れてぼくも立ち上がった。頭の中を搔き乱す忌々しい囁き声はもう聞こえていない。
白ずくめの女と先輩は静かに睨み合っていた。互いの出方を窺っているように、両者共に動かない。開け放たれたドアから入る風に白く長い髪とスカートが揺れる。
数秒の間の後、先輩が小さく口を開いた。そして、一気に白ずくめの女との距離を詰めた。
「アナタは何者なんですか。おじいちゃんを丸め込んで上手くやっているつもりでしょうけど、ボクはまだ信用していませんからね」
「栞はどうしてそんなに私を敵視するの? 大好きなおじいさんを盗られて嫉妬しているの?」
「煽ってるんですか。アナタも随分と性格が悪い」
白ずくめの女は薄く笑った。
「私は私。それだけよ。自分が何者なのか分かっていたら困らないわ。おじいさんに心配されることも、貴方に警戒されることもなかったはずなの。私には分からないのよ、自分のことが」
ただ……。と言って彼女はぼくの首筋を撫でた。「ひゃっ」という声が漏れ出てしまった。
「アリスのことは分かるのよ」
すっと手を離して、踵を返した彼女は逃げるように書庫を出て行ってしまった。怪訝そうな顔をした先輩と、おっかなびっくりした顔になっているであろうぼくの二人きりになる。
先輩は足を引き摺りながらぼくに近付いて来た。机に手を着いて立ち止まる。
ブラインドの隙間から差し込む日差しが舞い踊っている埃に反射してきらきらと光っていた。集められた本達の長き時を経て来た古さを感じさせる独特の匂いの中で、書庫の番人たる少年はぐるりと棚を見回した。眼鏡のレンズが光る。
「あの女は怪しすぎる。気を付けた方がいい」
「どうしてそんなに敵視してるんですか」
「君はあの女を怪しいと思わないのかい」
「思ってます。でも、先輩はそれ以上ですよね。家に上がり込まれてるから?」
先輩は眼鏡のブリッジを軽く押さえ、溜息を吐いた。
「理由を言ったらきっと君は笑うだろう」
「笑いませんよ」
本当に? と首を傾げて見せてから、先輩は机から手を離した。ぼくの肩に手を置いて、ぐっと近付いて、耳元に口を寄せる。眼鏡の柄の部分がぼくの側頭部に当たった。
「あれは人間じゃないよ」
先輩はぼくから離れる。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だよ。あの女は人間じゃない。ボクは見たんだよ、あの女が……」
ぼくは思わず生唾を飲み込む。あの白ずくめの女の秘密を、先輩は知っているのだ。
しかし、真剣な面持ちで秘められし真相を語ろうとしていた先輩はそこまで言って失笑した。両手を軽く広げて、肩を竦める。
「なんてね、冗談。ただ何となく彼女のことが嫌いなだけさ。彼女の言っていた通り、おじいちゃんを盗られているように思っているのかもしれないし、あの捉えどころのない雰囲気にイライラしているだけかもしれない」
妖怪だとでも言うと思った? といたずらっぽく笑う先輩に、ぼくも体の力が抜けた。
「からかわないでくださいよ。身構えちゃったじゃないですか」
「あはは、ごめんね。残念ながらボクにも彼女のことは分からないんだよ。得体のしれないものが家にいるんだから怖いのは確かだけれどね」
椅子を引いてそこに座ると、先輩は小さく息をついた。深い水色の石が光るループタイをいじりながら、立っているぼくを見上げる。
グランピングの時はアウトドアに適した動きやすい服装をしていたから、室内で過ごしている時の私服姿を見るのはこれで二回目だった。腕まくりをしたワイシャツ姿で、七分丈のズボンをサスペンダーで留めている。首元にはループタイ。率直な感想としては、とても好きだ。
金色の腕時計が鈍く光る左手がぼくに向けられる。図書局の会議の際に局員に発言を促す時と同じだ。本棚から目当ての本を引き抜くかのように、相手の言葉を引っ張り出すのだ。
「好きだろ、こういう格好」
「えっ、は、あ、えっと、はい!」
くすくすと笑いながら、先輩は落ちて来ていた靴下を引き上げる。
「店に並ぶ骨董品達に溶け込めるよね。アンティークっぽい雰囲気を漂わせる格好は個人的にも好きだし、店にも合う。店番をする時はいつもこういう格好」
「でも、春に来た時には」
「あれが本当の私服。あの日は店を閉めておくつもりだったんだけれど、看板をひっくり返す前に君が入ってきてしまったから対応しただけ」
ちらりと腕時計を見て、ぼくを見る。
「白さんのことは分からない。分からないことを話しても仕方ないから彼女の話は今日はもうやめだ。……四時半からおじいちゃんと店番を交代する。それまでここで君の相手をしてあげよう」
本はいくらでもある。語りたいだけ語りたまえ。そう言うように、書庫の番人はにやりと笑った。
先輩と一緒に店に出ると、「じゃあ休んでくるね」とおじいさんが家に引っ込んでいった。ロッキングチェアを揺らしながら先輩は腕組をする。
「やはり本好きと本の話をするときりがないね。とても楽しい」
「はいっ。ぼく、今度読んでみますね」
「うん。でも意外だな、『海底二万里』は読んだことがあるんだとばかり思っていたよ」
「『十五少年漂流記』はあるんですけど、そこまではまだ手が伸びてなくて。読みたいものがたくさんあって中々順番が回ってこないんですよね」
図書室にあるやつの訳が読みやすいよ。と先輩は言う。次に行った時に借りるとしよう。
お客さんのいない店内には古びた時計の針の音が響いている。そんな中で、ナルニア国に行けそうな衣装箪笥の向こうから鼻歌が聞こえて来た。はたきを手にした白ずくめの女が姿を現す。作業中のためぼく達のことは全く気にしていないらしく、骨董品達の埃を払って回っている。
綺麗な曲だ、と思った。足音に紛れて旋律は途切れながら聞こえてくるけれど、とても綺麗だと思えるのだ。どこかで聞いたメロディーだ。
ロッキングチェアが軋む。
「回れ回れ、歪な歯車。迷え迷え、時の中で。踊れ踊れ、繋がれたまま。歌え歌え、古の詩。くるくるくるり、きらきらら」
背凭れに身を預けた先輩が詩を呟いた。
「……あの歌の歌詞。よく口ずさんでいるから聞いているうちに覚えてしまったんだよね」
「その詩、ぼくもお姉さんが呟いているのを聞いたことがあります。ああいうメロディーなんですね」
「うん」
先輩は白ずくめの女を目で追う。
「不安になってくる詩なのに、旋律はとても美しいんだ」
「きっとお姉さんの記憶の鍵になると思うんですけどね」
「今は分からないね。彼女もなぜか頭に浮かぶだけだって言っているし」
骨董品達の中で白い髪とスカートがふんわりと広がる。
あの白を追い駆けてぼくはここまでやって来たのだ。彼女の正体は分からないし、彼女自身も分かっていない。それでも、彼女がぼくにとって白兎であることには変わりないのだ。追い駆けて追い駆けて、そうしたらどこまで行けるのだろう。
「……先輩、ぼくそろそろ帰りますね。足お大事に」
「体育はしばらく見学かなあ。……あっ、神山君、そっちから出ないで。君の靴は家の玄関だよ」
「あっ」
危うくサンダルのまま帰るところだった。店を出ようとしていたぼくは踏み止まり、家の方へ引き返す。「またね」と手を振る先輩に小さくお辞儀をして、カーテンを潜った。




