第百四十五面 大好きで大事で心配
鬼丸先輩に案内され、角田家に入る。玄関の靴箱の上には外国のお土産と思われるよく分からない動物のような形の置物が置かれていた。
「ただいまー」
「お邪魔します」
放り投げられたスリッパに履き替えていると、先輩はリュックと足を引き摺るようにしながら階段の方へ行ってしまった。
「はぁ……階段……」
「先輩」
ぼくは重いリュックを引き受ける。
「持ちますよ。お部屋二階ですか?」
「……ごめんね」
リュックを抱えて一緒に向かった先輩の自室では、かわいらしいぬいぐるみがいくつも待ち構えていた。棚の中にもふもふが何匹も並んでいて、ベッドの上には大きなライオンの抱き枕が横になっている。
璃紗の部屋に何度かお邪魔したことがある。あの部屋もぬいぐるみが置いてあったし、琉衣の部屋にも飾ってあるのを見たことがある。ぼくだって小さい頃から大事にしてるぬいぐるみの一つや二つある。しかし、それでも、こんなにたくさんある部屋に入るのは初めてだった。
「か、かわいいお部屋ですね」
んぅ。という唸り声が聞こえた。
「後輩を通せる部屋じゃなかった」
「そんなことないですよ。かわいいのいいと思います」
「……違う。違うんだよ。ボクの趣味じゃなくて、どれもおじいちゃんに貰ったものなんだ。ライオン以外は」
苦しい言い訳をするように、先輩はそう言った。「そこに置いといて」と言われてリュックを床に下ろす。
「小さい頃、アンティークの人形が怖かった。店に並ぶ人形達に怯えるボクを見て、『これなら怖くないだろう』っておじいちゃんがぬいぐるみを買ってくれたんだ。喜ぶボクの姿がとても嬉しかったんだろうね。次々に買ってくれてさ、どんどん増えて。確かにかわいいんだ。おじいちゃんの思いも込められている。だから手放せなくて、こんな部屋になっているんだよ。あくまで、貰い物で、ボクの趣味なわけじゃ……」
「かわいいのぼくも好きですよ」
先輩は眼鏡のブリッジを軽く押し上げた。
「……みんなには言わないでくれ」
好きなんだろうな、かわいいの。棚にちょこんと座っているネズミのぬいぐるみ脇にはおもちゃの剣が添えられていた。全体的に『ナルニア国物語』でそこそこ出番を持っていた動物が並んでいる印象だ。キーケースにぶら下がっていたビーバーもまたしかり。
着替えるから先に店に行ってて。と言われ、ぼくは先輩の部屋を後にした。
しかし、一階に下りたぼくはそこで立ち止まる。お店はどちら側だろう。位置的に考えると、玄関から真っ直ぐ進んだ分厚いカーテンの向こうだろうか。
よいしょとカーテンをよけると、廊下が続いていた。フローリングの色が切り替わっていて、サンダルが置かれている。向かって右手には同じようなカーテンがあり、左手にドアが見えた。左手のドアはおそらく、以前先輩が見せてくれた書庫のドアだ。ということは、右手のカーテンの奥が店だろう。確認をして、サンダルに履き替える。
「栞、帰って来たのかい」
ぼくが手を伸ばす前にカーテンが開いた。
「おや、有主君」
「お、お邪魔してます」
物音がしたから栞かと思ったよ。と、店主のおじいさんは笑う。
「あ、あの、先ぱ……栞さん、ちょっと怪我しちゃって、一緒に帰って来たんです」
「怪我? 今は部屋かい」
「はい」
おじいさんは慌てた様子で家の方へ向かう。そして、先輩の名前を呼びながらカーテンの奥へ姿を消してしまった。
「おじいさんは栞のことが大好きで大事で心配なのよ」
視界一杯に白が広がった。
開け放たれた店側のカーテン。骨董品に囲まれて白ずくめの女が立っていた。真っ赤な瞳が妖しく笑う。
「いらっしゃいアリス」
さらりさらりと髪を揺らしながら、彼女はぼくに歩み寄って来た。相変わらず帽子を深く被っていて、腕に兎のぬいぐるみを抱いている。そして目の前まで来ると、ぬいぐるみを左手に持ち替えて右手をこちらに伸ばしてきた。
思わず後ずさってしまったぼくは、書庫のドアに背中をぶつけて止まる。
白ずくめの女の手がぼくの顎に触れた。顎を軽く持ち上げられる形になったぼくの顔はやや上を向き、彼女とばっちり目が合うことになる。白い髪が流れて来て、ぼくの肩に一房かかった。首に当たって少しくすぐったい。
鼻先が触れてしまうのではないだろうかというくらい顔が近い。反射的に逃げ場を探してドアノブに手を伸ばすけれど、ぼくの手はただドアを撫でただけだった。ドアノブの位置が見えないため掴めなかったのだ。そうこうしている間に、白ずくめの女は右手の指でぼくの口元を撫でた。指の間から転がり出て来た何かが唇に押し付けられる。
「んっ、う……。あ……」
ぐいぐい押されて、ぼくの口はそれを受け入れてしまった。ちょっとだけ彼女の指先に舌が当たってしまった気がする。
「んぁ……。甘、い……」
「ふふ。美味しいでしょう。飴玉は好きかしら?」
口の中に広がるはちみつ味を転がしながら、ぼくは白ずくめの女を見上げる。
「普通に渡してくれればいいじゃないですか」
「それね、おじいさんのお気に入りなのよ。美味しいから私も好き」
「答えになってない……」
白ずくめの女は至近距離でぼくを見つめている。帽子の広い鍔が顔に薄っすら影を落としていた。
「お姉さんは、おじいさんと先輩とここで三人で暮らしているんですか」
「そうね。そうなってる。前にも言ったはずよ」
「自分のことは思い出せましたか?」
ゆるりと首を横に振る。そして、先程ぼくの口に突っ込んだ指を自分の唇に這わせて、舐めた。目元が笑う。揺れた髪がぼくを撫でた。
「甘いわ。とっても」
ルビーのように美しい、それと同時に血のように禍々しい赤を湛える瞳がぼくを捉えて逃がさなかった。ドアノブを探していた手は逃走を諦め、限界を超えて後退ろうとしていた足も沈黙した。
何か言わないと。
何かまた、彼女に質問しないと。
会話を続けなければ、と思った。そうしていないと、店内に響く時計の針の音と自分の鼓動と息遣いに押しつぶされてしまいそうだった。しかし、ぼくの口ははちみつを転がしているだけで声を出してくれない。
「どうしたのアリス、そんなに怯えて」
再び伸ばされた彼女の手がぼくの頬を撫でた。細い指が目元の辺りに触れる。
今まで何度も、白ずくめの女に顔を近付けられたり、触られたり、からかうような素振りをされたりしてきた。けれど、こんな感覚になるのは初めてだった。危ないおじさんに品定めをされている女の子という構図は本の中で見たことがあったけれど、その時の女の子はこういう気分なのかもしれない。
自分の体が小さく震えたのが分かった。視界が滲む。
「アリス?」
ジャバウォックの姿を見た時と似ているのだろうか。
「アリスっ」
バンダースナッチに睨まれた時と似ているのだろうか。
「アリスってば」
そうだ。これは、部外者を見る村人達と対峙した時と似ているんだ。この極度の緊張は、教室に入った時と同じだ。道行く人々に見られた時と同じだ。
この緊張状態になると、ぼくの頭は禁断の書の表紙を捲ってしまう。ページを黒々と塗り潰した、これまで聞いてきたクラスメイト達の囁きが解き放たれる。
「アリスっ!」
気が付くとそこは本棚に囲まれた部屋だった。角田家自慢の書庫である。立っている時にはよく見えない一番下の段の本がはっきりと見えることから、自分が床に横になっていることを把握した。
枕がとても気持ちいい。と思っていると頭を撫でられた。
「アリス、気が付いた?」
白い髪がぼくの顔にかかった。
「え……?」
体の向きを変えて仰向けになると、白ずくめの女と目が合った。ぼくのことを覗き込んでいる。いまいち状況を把握できていないぼくのことを彼女は撫で繰り回している。
「ごめんなさい、アリス。あんなに怖がらせてしまうとは思わなかったの」
膝枕だ。これ膝枕だね。
「す、すみませんっ。重いですよね」
ぼくが起き上がっても、白ずくめの女は頭を撫でる手を止めない。そしてあろうことか抱きしめて来た。抱きすくめられ、撫でられる。
今度は先程のような緊張は覚えなかった。今感じているのは暖かさだ。
「よかった。急に倒れるから驚いたのよ。よかった、よかった」
「豆腐メンタルなのでびっくりしすぎると危ないんです」
「よかった、目を覚ましてくれて」
「大袈裟ですよ」
手を止め、白ずくめの女はぼくを解放する。と思われたが、より強く抱きしめられてしまった。確かに倒れたら心配するだろう。しかし、時々顔を合わせる程度の相手としては大袈裟すぎないだろうか。ニールさんとアーサーさんのように兄弟であるわけでも、イグナートさんとハワードさんのように強い信頼関係があるわけでもないはずだ。
それとも、ぼくがそう思っているだけで、彼女にとってのぼくはそれ以上の存在なのだろうか。「アリス」とぼくのことを呼ぶ彼女は嬉しそうにも寂しそうにも見える。失われた記憶の中ではっきりと覚えている誰かの名前、それが「アリス」だ。彼女にとってそれが特別な存在であることは明らかだ。ならば、ぼくに対するこの反応も当然だと言えるのだろうか。
もう少し、このままでいてもいいのかな。彼女が落ち着いてくれるまで。
余裕ぶっている姿ばかり見ていたから、ちょっぴり新鮮だな。
「アリス、アリス。よかった。貴方を失わなくて。私は、貴方を失うわけにはいかないの」
「……それってどういう」
書庫のドアが開く。
「神山君、目が覚め……」
一歩踏み込んだ先輩が硬直した。ぼくと目が合って後輩を見守る優しさを浮かべていた目が、ぼくを抱きしめる白ずくめの女の背を見て一瞬で敵意の色に切り替わる。
「何してるんですか、白さん」
感情をどこかに落としてきてしまったかのように冷たい声が書庫に響いた。




