第百四十四面 聖域
始業式からの連続登校を維持しつつ、二学期最初の図書局当番の日を迎えた。図書室に入ってきたぼくを見て、返却棚を整理していた鬼丸先輩は手を止めた。
「やあ、神山君」
「どうも」
先輩と顔を合わせるのはグランピング以来だ。夏休みの長期貸し出しで借りた本を返しに来た時にいたのは亀倉さんだった。
ぼくが当番で図書室を訪れるといつも先輩がいる。毎週特定の曜日が当番というわけではなく、ランダムに割り当てられた担当日一ヶ月分をまとめて提示されている。ぼくはいつも先輩と同じ日だった。欠席の多いぼくがいなくても回るように、人付き合いの苦手なぼくが安心できるように、そういう配慮なのだと思う。
先輩は返却棚の本を数冊手に取ってカウンターに入って行った。
「あ、あの、鬼丸先輩」
「何?」
「あの……。夏休み、とても楽しかったです」
きょとんとした様子で先輩はぼくを見ている。
「『誘ってくれてありがとう』ってのは帰り際に聞いたけれど」
「改めてお礼がしたくて。あんな経験、初めてでした。友達とキャンプなんて」
「おじいちゃんのくじ運に感謝だね。……リュック置いたら貸出カウンターお願いしていいかな」
「分かりました」
司書室にリュックを置いてからカウンターに入る。先輩は返却された本を積み上げながらパソコンの操作をしていた。貸し出された日、返却された日、などの情報を計算ソフトで管理しているのだ。本を探していたり読んでいたりする生徒はちらほら見えるけれど、借りに来る人は今のところいないようだ。少し先輩の仕事を見ていようかな。
本に挟まれている返却期限の記された紙を抜き取る。裏表紙に貼られたバーコードを読み取る。データを閲覧する。「返却済み」等の記録を打ち込む。終わった本は横に積んでいく。それらの動作がまるで流れるように行われていた。三年間続けて来た結果だろう。
確認済みの本が十冊程積まれたところで先輩は手を止めた。次の本を返却棚から持ってくるようだ。
「……神山君、ボクのことを見つめていても特に何も起こらないよ」
「えっ」
「滅茶苦茶視線感じてるから」
「す、すみません! 仕事してるの、格好いいなって思って。パソコン、使い慣れてるんですね」
新しい本を持ってきて、先輩は椅子に座る。
「一年生の時、『遅い遅い』って先輩に文句言われて、腹が立ったからパソコン教室に行って見返してやったんだ。そんな理由だけれど、格好いいって言われて悪い気はしないね」
ちょっぴりいたずらっ子のような笑みを浮かべてから、先輩は作業に戻って行った。本を手にした女子生徒の「すみません」という声にぼくも姿勢を正す。
「これ借りたいんですけど」
「貸出カードはありますか?」
この仕事にもだいぶ慣れて来た。色々な本を借りに来る色々な生徒達がいる。彼ら彼女らが手にした本を見て、作者のことが好きなのかな、授業で使うのかな、誰かにお薦めされたのかな、などと考えながらバーコードをスキャンする。時々、こんな本が図書室にあったのかと驚くこともある。そんな時は、返却されたら自分で借りる。
「返却期限は二週間後です」
名札にくっ付けられている『図書局』のバッヂがなんだか誇らしく思えて来た。ここに来られてよかったと思っている。誘ってくれた鬼丸先輩には感謝してもしきれない。
仕事が終わったら、帰る前に自分も何か借りよう。
ちらりと先輩の方を見ると、確認済みの本をまとめて抱えているところだった。よいしょと持ち上げ、それぞれの本があった本棚に戻していく。
「先輩、手伝いますよ」
「大丈夫だよ。神山君はカウンターにいて」
そう言った先輩がぼくの視界から消えた。否、カウンターや低い本棚よりも下へ行ってしまったのだ。
「うあっ……」
「鬼丸先輩っ!」
ばさばさと音を立てて本が散らばった。ぼくはカウンターを飛び出す。
先輩は座り込んで足をさすっていた。後方の床に本が積まれている。あの本に躓いてしまったのだろう。
「先輩」
「ボクのことはいい。本を……」
近くにいた生徒数人も拾ってくれて、ぼくは二冊だけ拾って机の上に置いた。全部で十二冊。落下の衝撃で破損したものはなさそうだ。「局長さん?」「大丈夫?」というみんなの声に先輩は小さく頷いている。
先輩が引っ掛かったと思われる本を拾い上げる。見覚えがありすぎる本だ。作業の効率化を考えて図書局員の多くが通る一方で、図書室を利用する生徒があまり通らない本棚と壁との隙間に積まれていたということは、意図的に局員を転ばせようとでもした人がいたということだろうか。読み終わって戻す棚が分からなければ局員に訊けばいい。わざわざご丁寧に積み上げてあるのだからそこに置くことに意味があったはずだ。
「神山君」
「『ナルニア国物語』です、これ」
「……ボクを狙ったのか」
思い切りぶつけたらしく、先輩はまだ痛そうにしている。様子を見守っていた生徒達に読書や本探しに戻るように言い、机の上の本に手を伸ばす。
「ぼくがやります。先輩、カウンターお願いします」
「……ごめん」
閉館時間になり、ぼくは自分で借りるために本棚から引っ張って来た『走れメロス』のバーコードと自分の貸出カードをスキャンしてからパソコンの電源を切った。
リュックを取りに司書室へ入ると、先輩が待っていた。ラミネーターの横に座っている。さっさと片付けをしていたからもう帰ってしまったと思っていた。
「先輩、足大丈夫ですか」
「結構ガツンってぶつかったからね、ちょっと青くなってきた……。ハードカバーは危険だ」
「あの……。あれ……」
あれは仕掛けられたものだ。
「い、いじめじゃないですよね?」
「……君が思っている以上にボクはクラスで孤立している。学校の中で落ち着けるのはここだけだ。その聖域が侵された」
「先輩……」
「ただの嫌がらせだよ。妬ましいんだ、ボクのことが。羨ましいんだ、ボクのことが。邪魔してやりたいと思うんだろうね。こんなこと考える暇があるならその時間で勉強すればいいものを。愚かなやつらめ」
眼鏡のブリッジを軽く押し上げて、先輩は息を吐く。
「自慢じゃあないけれど、これでも学年主席なんだ。一年の終わり頃からずっとね。恨まれるよねえ」
「ぼくの幼馴染も、成績がいいとその分周りの期待が怖いって言ってました」
「そうそう、あるあるなんだよね」
「でも、あれはちょっとやりすぎじゃないですか。先生に言った方がいいですよ」
「言ってあるよ。言ってあるとも。だから先生の目に付かない方法に変えて来たんじゃないか、向こうは」
思ったより深刻だぞ。
グランピングに行かないかと声をかけて来た時のことが思い出された。先輩には、ぼくにとっての璃紗や琉衣のような相手がいないのかもしれない。
先輩は頭を抱える。
「あぁぁ、後輩に知られた。知られてしまった。図書局内では弱いところ見せないで過ごせると思っていたのになぁ」
「他の局員には言いませんから」
「何だろう、こう、神山君にはついべらべら喋っちゃうんだよね」
「似てるからですよ、ぼく達」
「あぁ、やっぱり、君も……。学校に来られなかったのは、つまり……。そうかぁ……」
君も大変だね。と言って先輩は苦笑した。
学校の中で、鬼丸栞という少年が鬼丸栞らしくいられるのは図書局長として仕事をしている時だけ。教室にいる時には、ぼく達後輩に見せているような余裕は持っていないのだろう。
蛍光灯の光が眼鏡のレンズに反射している。
「図書室の中を定期的に見回る必要があるな。みんなが巻き込まれると困る」
「鬼丸先輩」
ラミネーターの方を眺めていた先輩がこちらを向く。はっとしたその顔に雫が一筋伝っていた。
「こんなんじゃフォローにならないかもしれないけれど、ぼくよりずっとマシですよ、先輩。ちゃんと学校に来られてるじゃないですか。偉いです。いい子です」
「ふうん? 先輩のことそうやって褒めるんだ?」
「えっ。あ。ご、ごめんなさい」
「ふふ、ありがと。ちょっと元気出た」
眼鏡を外して目元を拭ってから、かけ直す。そうして先輩は立ち上がると、よろめいた。机に手を着き、体を支える。
「あ……。あれ? 思ったよりボクの足ヤバくなってる……?」
「保健室に行きましょう。運動部はまだ活動してるから、保健室も開いてるはずです」
リュックに伸ばしかけた手を下ろして、先輩は溜息を吐いた。
応急処置として足に冷却シートを貼られた先輩は、ぼくに寄り掛かるようにして歩いていた。
「神山君、重くない?」
「どうってことないですよ」
肩に回された先輩の腕をひしと掴みながらぼくは答える。これはきっと、先輩の体重ではなくリュックの重さだ。参考書や問題集が詰まっているのが司書室で見えていた。
それとなく高校受験について訊ねてみると、「雅野を受けるつもり」という答えが返って来た。更に上を目指して市外に出る選択肢もないわけではないが、遠くなればなるほどおじいさんと一緒に家にいる時間が短くなってしまう。それはなるべく避けたいのだという。つまりは、「雅野がいい」のではなく「雅野でいい」のだ。クラスの人に睨まれるのが分からなくもない。
空ヶ丘商店街から少し逸れた道に入り、曲がって、進んで、曲がって進む。夕日を受けて美しく輝く、絵本から飛び出してきたような建物が並ぶ通りに出る。
「ありがとう、神山君。ここでいいよ」
「いえ、ちゃんと家まで。お店見たいし」
背中に小銭を載せたカエルの置物が見えた。ピエロのような人形が『CLOSED』の看板を掲げている。ドアには鍵がかかっているようだった。
家自体の入口は別にあるんだよ。と言う先輩に案内され、建物正面向かって左側の少しへこんでいる部分に連れていかれる。そこにはごく普通の家のドアがあり、『角田』と表札が出ていた。郵便受けに新聞の夕刊が刺さっている。
どさっとリュックを地面に下ろし、先輩はキーケースを取り出した。赤紫の、おそらく合皮製のキーケース。鍵と一緒に茶色い動物のストラップがぶら下がっていた。平たい尾が別パーツになっていてゆらゆら揺れている。
「ビーバーですか?」
「おじいちゃんが奥さんの方を持ってる」
「なるほど。いいですね、おそろい」
だろう? と得意げに笑って、先輩はドアを開けた。




