第百四十二面 できるところから少しずつ
酷い目に遭った。あそこまで不味いと思わなかった。まだ口のどこかに不可解な味がこびりついているようにさえ思った。
「有主君、大丈夫?」
璃紗が心配そうにぼくの顔を覗き込む。
長かった夏休みも終わり、始業式の日がやって来た。何日経ってもニールさんが作ったクッキーの味が頭から離れなくて、ひいひい言いながら残りの宿題を片付けたぼくはたくさん褒められてもいいと思う。
「ダイジョブ」
母の料理を食べているうちに不可解な味の効力は薄れてきた。ニールさんが作ったものに関して、お菓子だけではなくご飯すら食べるというアーサーさんの味覚は最早麻痺してきているのではないだろうか。けれど本人が作る料理はどれも美味しいんだよな。麻痺しているのではなく耐性が付いてるのか。
信号が青になり、ぼく達は歩き出す。
璃紗の三つ編みおさげが揺れている。今日は紫色のリボンが結ばれていた。
「二学期はどれくらい来れそう?」
「善処するけど、分からないな」
「できるところから少しずつ、だね」
一学期よりも登校できるように頑張ろう。グランピングで図書局での居場所は改めて保証された。次はクラスでの居場所を手に入れなければ。
などと考えているうちにぼく達は学校に辿り着いた。上靴に履き替えて二年三組の教室を目指す。久々に聞く中学生達の喧騒に若干の怖さを覚えつつも、勇気を振り絞って歩を進める。璃紗が声をかけてくれてちょっと落ち着いた。
教室に着いたぼくは自分の席に向かう。ぼくの左の席で、琉衣は机に突っ伏していた。耳元にマスクの紐が見える。
「おはよう琉衣」
声をかけると、琉衣はのそのそと体を起こした。
「有主……。おはよう」
「どしたの、風邪?」
ずれていたマスクの位置を直す。そこそこいい顔は目元しか見えていない。それでもそこそこいいのが分かる。
「ちょっと、昨日から調子悪くて……」
「休んだ方がよかったんじゃないの」
「いや、平気。いつものただの倦怠感だし……」
「休めよ」
「うっせえな。平気だって言ってんだろ」
琉衣はそう言い捨てると、再び机に突っ伏した。開けられた窓から吹き込む風が少し長めの髪を揺らしている。
……ヘアピンが外れかけているな。
そっと手を伸ばす。
「有主君」
「うひゃぅ!」
「ご、ごめん! えっと、琉衣君具合悪いの?」
璃紗がノートを手に立っていた。いつも作品のことをメモしているノートだ。「平気」という琉衣の声を聞いて、ほっとした様子になる。そして、ファスナーが開きっぱなしの琉衣のエナメルバッグにノートを放り込んで「よろしく」と言った。
顔の向きを変えてぼく達の方を向いた琉衣が小さく溜息を吐く。
「えっ、えぇっ。駄目だったかな」
「……怠いだけ。やっとく」
「大丈夫?」
「うん……。先生来るまで休ませて」
腕に顔を埋めて静かになった。外れかけていたヘアピンぼくの手の中にある。筆箱の中に入れておけば気が付くかな。バッグと同じくファスナーが開きっぱなしの、同じくエナメル質のペンケースにヘアピンを放り込む。
ぼくが席に着くと、璃紗が机の前に回り込んできた。前の席の人は席を外しているようなので構わないだろう。
「琉衣君にね、キャラデザと挿絵を頼んでるんだ。絵の練習になるし想像力を鍛えられそうってノリノリだったからお願いしたんだけど」
「琉衣が申し出たの?」
「うん。なんか、コンクールに出す絵が上手く進んでなくて気分転換にイラストを描きたいって」
スランプというやつかな。小学生の頃から琉衣の絵はとても綺麗だと思っているし、さらさら描けてすごいなあと思っている。しかし、さらさらに行きつくまでが大変なのだろう。
根を詰め過ぎて倒れないといいけれど。
「わたしも絵が描けたらなあ」
「……だいぶあれだもんね」
「あれなんだよねぇ」
眼鏡の奥の目がどこか遠くを見ている。
幼稚園の時既にその画力の無さが片鱗を見せていた。しかし幼稚園児の絵などどれも同じようなもの、璃紗の絵もみんなのものに混じってどうにかこうにかお絵かきの時間を乗り越えて来た。
小学生になると休み時間にお絵かきをして過ごす女子がクラスに数人いた。その仲間入りをしようとした璃紗は、その子達が描いていた絵を見て逃げて来た。図工の時間についに璃紗の恐ろしい画力が白日の下にさらされ、彼女は絵から距離を置くことになったのだ。そうして、元々得意だった勉強と物語に特化していく。
自画自賛、ではないけれど……。ぼくの方がたぶん上手だ。
「あの、ほら。六年生の時に幼稚園の子と触れ合ったでしょ。あの時女児向けの戦うヒロインの絵を求められたんだけど、泣かれたんだよね……」
「覚えてるよ。同じ班だったからね」
「あれはちょっとショックだった。泣かれるとは思わなかった」
戦うスーパーヒロインのはずが最早敵の怪物だったんだよね。
「適材適所って言うじゃん。二学期もテスト期待してるから」
「プレッシャーやめろー」
先生が来たぞー! という誰かの声が教室に響いた。
「おっと。じゃあ有主君、また後で」
教室中に散っていた生徒達が各々の席へ戻って行く。全員が座ったタイミングでドアが開き、村岡先生が入って来た。
「みんなおはよう。充実した夏休みは過ごせましたかー?」
校長先生の退屈な長い話をぼんやり聞いているうちに始業式は終わり、ロングホームルームの時間になった。去年は久し振りの学校という環境に耐えられなくて倒れてしまったけれど、今年は無事に乗り切ることができた。
学校祭や合唱コンクールなど、二学期は学校行事が目白押しだ。クラスの団結力を高めてみんなで一緒に取り組む必要がある。その輪の中に自分が入ることができるのか、ぼくは不安だった。頑張った結果、去年の学校祭のようになってしまったらどうしようという考えが頭の中で渦巻いている。
頑張ろうね、という先生の言葉にクラスの中でも目立っている集団が大いに盛り上がっていた。あの人達は学校行事にこれでもかというほど熱心に取り組むタイプの人達で、普段から元気を有り余らせている上にとても慣れ慣れしく勢いもあるので少し苦手だ。ぼくがまばらな登校をしている理由を知って「大丈夫だよぉ」と迫って来たのでちょっと怖い。親切なのだろうけれど、そこが怖かった。きっとあの人達にはぼくの気持ちは分からない。
隣の席で、琉衣は相変わらず机に突っ伏していた。時折顔を上げて先生の話に耳を傾けているようだけれど、頭には入っているのだろうか。
「じゃあチャイムも鳴ったし、今日はこれで終わりにしましょう」
「やったー!」
「帰れる!」
「部活!」
「今日は完全下校だからみんな帰ろうねー」
「ええー、先生まじかよー」
明日の予定を確認してから、日直の「さようなら」を合図に元気の余っている生徒達は教室を飛び出していった。クラスの三分の一程度が姿を消した。
ぼくは荷物をリュックにしまい、席を立った。
「琉衣、帰ろう」
「……あれ。ホームルーム終わったのか」
「先生の話聞いてなかったの」
「学級通信に書いてあるしまあいいや」
朝外れかけていたヘアピンは前髪の定位置に収まっている。エナメルバッグに机の上の物をばさばさと入れて、肩にかける。
「璃紗ちゃんは」
「学級委員でちょっとだけ会議あるって」
「そっか」
琉衣と連れ立って教室を出ようとしたぼくは、先生に呼び止められた。出席簿やプリント類を抱えた先生は優しく笑ってぼくを見た。
「神山君、どうかな。学校来られそう?」
「ぼちぼちですね。でも頑張ります。一学期より多く来られるように」
「無理はしないでね」
「はい」
にこりと微笑んだ先生は、男子生徒に呼ばれてそちらへ向かって行った。ぼく達は廊下に出る。
夏休みの間に琉衣はまた背が伸びたのではないだろうか。こうして並んで歩いていると、ぼくの小ささが際立つので少し離れて歩きたい。
「背ぇ伸びた?」
「計ってない」
三年生になる前に百七十センチを越えそうだな。
一階に下りた時、琉衣がマスク越しに口を押えてげほげほと咳き込み始めた。
「琉衣」
そして突然ぼくの腕を掴んだ。そのままぼくのことを男子トイレに引きずり込む。特別教室ばかりで一般教室のない一階だ。全部活動がお休みの今日は玄関以外の利用者はほとんどなくトイレも無人だった。
タイル張りの壁に凭れて琉衣は咳き込んでいる。ぜえぜえという息が漏れているようだった。
「大丈夫?」
「大丈夫に見えるか」
「見えない」
「薬、出してくれないか」
整頓されていないエナメルバッグの中から吸入式の薬を取り出し、琉衣に渡す。
「……ありがと」
「やっぱり今日無理して来てたんじゃないの」
吸入器を口に当てながら琉衣は首を横に振った。マスクを付け直すと、使い終わった吸入器をバッグの中に放り込む。もう少し丁寧に扱った方がいいと思う。
「昨日の夜も今日の朝も咳は出てなかった。体が怠いのなんてよくあることだし、数日続くのも」
「琉衣ってどこが悪いの」
「……オマエデリカシーって言葉知ってる?」
「病気のこと知らないと、何かあった時に対応できないし」
「トイレで密談なんて女子みたいだな。まあげほげほやってんの見られたくなくて入ったから似たようなもんか」
腕組をして、今から話しますよ、オレの話を聴きなさい、という格好いい雰囲気を作っているけれど、ここトイレなんだよね。
琉衣はネクタイをしておらずボタンも少し開けているシャツの胸元に手をやった。
「そもそも、生まれつき虚弱体質なんだよ。疲れやすいし、風邪もよく引く。今はそこに喘息が被ってる状態。きっとこの喘息が大人になって治っても、今度は別の症状が出てくるだろうな。気管支とか肺とかその辺が特に弱いらしいし」
「ぼくに何かできる?」
「こうやって付き合ってくれると気持ちが落ち着くから、一緒にいてくれると助かる。あと……。美千留に心配かけたくないから、オレが発作起こしたとか倒れたとかそういうの伝えるのは必要最低限にしてくれ」
「分かった」
マスクの鼻の辺りを押さえながら、琉衣は壁から背中を離した。距離が近いと余計大きく見えるな。
「有主縮んだ?」
「琉衣が伸びたんだろ。人を縮めるな」
「もっと大きくなれよな。オレが倒れてもちびじゃ支えらんねえだろ」
ぼくの頭をぽんと叩いて、琉衣は廊下に出て行った。
大きくなるもん。まだ成長期が来てないだけだ。そのうち璃紗のことも琉衣のことも追い抜いてやるんだからな。見てろよ。




