第百四十一面 とっても大切でとっても大好き
数分後、落ち着きを取り戻したらしいニールさんが外に出て来た。乱れていた服は整えられている。髪はぼさぼさのままだけれど。
「なんか……すまねえな……。変なところ見せた」
「いつものことじゃん? ニールが思っている以上に普段からぐにゃぐにゃだよ」
「へっ? 冗談だろ」
「いや本当に。うにゃーん、もっと撫でてほしいにゃーん、ご主人様ぁー。にゃんにゃん。って感じで夫人にすりすりしちゃってさあ」
満面の笑みを浮かべたニールさんがルルーさんのうさ耳を掴んだ。そして、ぐんっと引っ張る。
「ひんっ! 痛い痛い痛い! もげちゃう! もげちゃうぁあ!」
ルルーさんは涙目になってじたばたしている。あまり動くと余計痛くなりそうだ。しかもいつもより強めに握りしめられている。
枕に埋まっていたナザリオが小さく悲鳴を上げて自分の鼠耳を押さえた。
「もげちゃうよぉ! ごめん! ごめんってニール! でも本当のことだよ」
だからアーサーは夫人のことを雌狐って呼ぶんだ。そう言われて、ニールさんは手を離した。ルルーさんはこてんと転がる。耳の付け根を痛そうにさするルルーさんを見下ろして、ニールさんはがしがしと頭を掻いた。
「分かってる。分かってんだよ。そう見えてるってのは。でもさすがにさっきの言い方はねえだろ。ここに帽子屋がいなくて本当によかった。兄の威厳が消えるところだった」
「兄の威厳なんて元々ないじゃぎゃあ! もげもげもげるぅ!」
「馬鹿兎は俺に喧嘩を売っているのか。いい値で買うぞ」
「ごめんって!」
ナザリオが体を震わせた。常日頃から蹴飛ばされたり踏みつけられたりと、耳を引っ張られるよりも酷い扱いを受けているのにこの反応なのか。彼にとっては耳の方が体そのものよりも大事なのだろうか。
それにしても、ニールさんなんだか気が立っているみたいだな。恥ずかしいのを隠そうとしているようにも見える。
耳から手を離されて、再びルルーさんがこてんと転がる。耳の付け根をさすっていると、ニールさんの手がルルーさんの手に重ねられた。先程まで乱暴に引っ張っていたのが嘘のように、優しく耳を撫でる。
「すまねえルルー。引っ張り過ぎた。大丈夫か? ちゃんとくっついてる? ここ。ここか、この辺りが痛いのか?」
「アーサーもだけどさ、ニールも自分の顔のよさと人への対応の格好よさを自覚した方がいいよ。勘違いする女の子たくさん出るよ」
「何言ってんだオマエ。オマエ以外にこんなことするわけねえだろ」
「ああー! 馬鹿馬鹿! そんなこと言ったら好きになっちゃうだろ!」
「何言ってんだオマエ……。見ず知らずの女の子の耳引っ張ったらヤバいだろ……」
互いに「え?」と首を傾げながら二人は向き合っている。
「ルルー絶対ニールとアーサーのこと好きだよねぇ」
「急に饒舌になったね。おはよう」
「おれずっとみんなのこと見て来たから分かるんだ。かわいい女の子たくさん見て来たから分かるんだ。ルルーは乙女だよね。でも好きって言っても、とっても大切でとっても大好きで特別な友達なんだよね」
「かわいい女の子、たくさん……?」
ナザリオは枕を抱えている。口元は見えないけれど、目元はばっちり覚醒しているうえにきりりと鋭くなんだか格好いい。「おれはかわいい女の子をシエスタに誘うのが夢なんだぁ。一緒にドルチェ食べようって誘う」と真剣に語る姿は伊達男のようだ。ここはイギリスではなくスペインかイタリアだったのだろうか。
お昼寝がたくさんできる国があるって聞いたことがあるんだ。とナザリオは言う。
「シエスタって時間があって、そこではお菓子をドルチェって呼ぶんだって」
「近いの?」
「ブルボヌールやネルケジエよりも西だよ」
ぼくの質問に答えたのはナザリオではなかった。茂みを掻き分けてやってきたクラウスだ。真夏の太陽に青いマントが映えている。何事もなかったかのようにお茶を飲み始めていたニールさんとルルーさんに挨拶をしてから、ぼくとナザリオの方を向く。
「キャロリング大陸の外だよ。西にある……えっと、なんだっけ。忘れた」
頼りにならないなあ。
「そんな目で見ないでよ。おれ勉強はからっきしで……。兄貴なら知ってるかもしれないけど……」
よくそれで士官学校を通ったね。
「チェシャ猫さんは知ってますか?」
話を振られて、ニールさんは食べようとしていたスコーンをお皿に置いた。見るからに焦げまくっているそれを見てクラウスの表情が若干ひくつく。
長い尻尾がゆるりと揺れた。
「いや、知らねえ。帽子屋なら知ってるかもしれねえけど」
「えー?」
「大陸内のことなら分かるけどよ……。勉強とかそういうのは全部アイツに任せて、俺はその金集めるのに必死だったからさ」
頬杖を突いたニールさんの視線が少し下を向く。お父さんがいなくなって、お母さんが参って、それから大変だったという話は聞いている。そもそも獣は学校に通うこと自体が難しい。アーサーさんも通えなかったから独学らしいけれど、独学であれだけ博識なのだからニールさんが集めて来たお金と本と資料はすごい数だったのだろうな。
「チェシャ猫さん悪いことしてたんですか」
「喧嘩売ってんのか?」
「ごめんなさい」
「なあなあクラウス君よお」
ニールさんは黒いスコーンを手に取り、謝っているクラウスの口に突っ込んだ。
「んむぐぅ!」
「折角来たんだ。茶菓子の一つでも食って行けよ」
「ひいぃ……」
やっぱりニールさんめちゃくちゃ気が立っている。怖い。とても怖い。
真心込めて作ったからなあ。と言われ、クラウスは半泣きになりながらもスコーンを完食した。飲み込んでからもしばしの間ぽろぽろと涙を零していて、あのスコーンは最早兵器だと思った。
買ってきたものと思われるクッキーを選んで食べていたぼくは、ニールさんお手製の不可解な味がするお菓子の力を知らない。あんなにも恐ろしい物なのか。伸ばした手が黒いクッキーに触れていて、思わず手を引っ込めてしまった。
クラウスは泣きながら、腰のポーチからメモとペンを取り出した。
「美味しくないよぉ……。……じゃなくて。今日も今日とてお茶会中、っと」
「あれ? 管理の仕事、クラウスが?」
「あ、はい。そうなんです。この間、地下鉄とその近くで事件があったじゃないですか。それで、あの日地下鉄に乗っていた兄貴に『話を訊きたい』って軍の担当者が来たんです。バンダースナッチの被害があったんだ、って担当者が写真と被害者の調書を見せたら読んでいるうちに兄貴ダウンしちゃって……」
エドウィンのバンダースナッチ嫌いには何か事情がありそうだよね。あまり訊かれたくなさそうだからぼくは深入りしていないけれど、様子を見ていればどれほど苦手にしているのかがよく分かる。岩の広場で見た時も、人間が被害に遭ったという話をしていた時も、クロヴィスさんが関係ありそうだという話をしていた時も、職人街でぼくを探しに行けなかったと言っていた時も。
兄を心配するような顔をしていたクラウスは、テーブルに着いているぼく達のことを見回した。座っている人数を指折り数えて、家の方を見て、ぼく達に向き直る。
「帽子屋さんがいませんね」
「オマエの兄貴ほどじゃねえだろうけど俺の弟にも色々あったんだよ。まあ、オマエはトランプだし大丈夫だろ。部屋にいるだろうから、廊下から声かけてリビングに引っ張り出して話聞け」
「もしかして、帽子屋さんもバンダースナッチに何か……? すごい人数が被害に遭ってるんですね。ライオネルも心配だな」
「ライオネル?」
ぼくが訊ねると、クラウスは頷いた。
「うん。先輩の騎士や司書に『重いものは運ばなくていいから』って言われてた。左足を引き摺って歩いてたね。バンダースナッチに噛まれたって。だからおれ、普段は警備してるだけだけど荷物運び手伝ったんだ!」
普段から手伝いはした方がいいと思うよ。
「よーし、帽子屋さんにお話訊いてきます」
空いていたグラスにアイスティーを注ぎ、それを飲み干してからクラウスは家に入って行った。その後ろ姿を見てニールさんはにやにやしている。
「エドウィンと比べるとクラウスは圧倒的に弱っちくていじりがいがあるよな。リアクションもちゃんとできるし」
「ニール性格悪いよねー。すこぶる悪いよねー」
「退屈よりも面白い方がいいだろう?」
「分かるよ」
酷い大人達だ。
まあいつものことだよね。と思いながらクッキーを一つ手に取ったぼくは、それを口に入れて後悔した。クッキーが口に入る直前、見えたのは黒だった。ココア味のクッキーも混ざってお皿に入っていたため、まんまと騙された。
あぁ、これが不可解な――。




