第百四十面 おかしくなっちまうだろ
食べ終わったら廊下に出しておきます。と言われて、ぼくはアーサーさんの部屋を後にした。玄関のドアを開けると、丁度外でも誰かがドアを開けようとしていたようでとても勢いよく開く。
「わわっ」
「おっと、すまねえなアリス」
「ニールさん」
「帽子屋どうだった?」
「イーハトヴ文字の勉強してました」
そっか、とニールさんはほっとした様子だ。大慌てで引っ込んでいったから気になっていたのだろう。
大きなふわふわが視界に入ったので見てみると、公爵夫人が来ていた。傍らに控えるラミロさんは大きな大きな包みを抱えている。
「オマエに声かけようと思ってな」
「ごきげんようアリス君」
「よう小僧」
ぴょんぴょんと前に出て、ラミロさんは包みをぼくに差し出した。
「新しい正装ができあがったから届けに来たの。早速着て、感想を教えてくれると嬉しいわ」
ぼくはラミロさんから包みを受け取る。
「着替えるんだったら俺の部屋使っていいぞ。帽子屋が勉強中なら一旦家に戻って、とかはしない方がいいだろ」
「ありがとうございます。着てみますね」
先程出た家にまたすぐ入り、今度はニールさんの部屋へ向かった。アーサーさんの部屋と比べるとちょっぴり散らかっている。ベッドの上の布団は起きてそのままのぐしゃぐしゃで、クローゼットは半開きだ。書き損じの紙が丸められたものがいくつか絨毯の上に転がっていた。机の上には乱雑に本やらメモやらペンやらが積まれていて、天板がほとんど見えていない。
絨毯には毛羽立っている部分が数か所あるようで、壁にもひっかき傷があった。きっと暴れたこととかあるんだろうな……。
そこそこ綺麗そうなところに包みを下ろし、リボンを解く。
淡い黄色のロングジャケット。灰色のスラックス。ベージュのベスト。合わせと裾に軽くフリルのあしらわれたシャツ。黒くて細いリボン。茶色の革靴。ジャケットの背中には大きな水色のリボンがくっ付いていた。
くたびれたTシャツと膝に穴の開いているジャージから着替える。底の減って来たスニーカーから革靴に履き替え、リボンをネクタイ代わりに結ぶ。
上手に着られたか確認しようとして、この部屋に鏡がないことに気が付いた。姿見も、手鏡も、置き鏡もない。ニールさんは洗面所で身だしなみを整えるタイプなのかな。
首のリボンをいじりながら廊下に出ると、アーサーさんが立っていた。
「とても似合っていますよ」
「ありがとうございます」
「リボンが曲がっていますね……。はい、これで大丈夫」
「ありがとうございます。みんなに見せて来ます!」
一礼して、玄関に向かう。
きっとみんなも気に入ってくれるだろう。なんてったって公爵夫人が見繕ってくれたのだ。彼女のセンスをぼくは信じているし、みんなも分かっているはずだ。
しかし、ドアを開けたぼくの目に飛び込んできたのは思いもよらぬ光景だった。ニールさんがルルーさんのことを羽交い締めにしている。ルルーさんは夫人のことを鋭く睨み、手を伸ばしてじたばたしている。夫人はラミロさんに守られながらニールさんを見ていた。
華やかな薄水色のドレスにお茶の染みができている。
「落ち着け馬鹿兎」
「夫人はブランシャール家を貶めるつもりなの!?」
「そんなんじゃないわ。森を管轄するブリッジ家として……。あ、アリス君……!」
大人達の視線が揃ってぼくに向けられた。
「え、っと……。どうですか? 似合ってます?」
「えぇ。よかった、サイズもぴったりね。着てみてどうかしら」
「前のもいいけど、これも素敵です。ありがとうございます、公爵夫人」
他のみんなも口々に「似合っている」と言う。
「あのぅ、何かあったんですか」
「……夫人が、クロヴィスのことを公開手配するって」
「決めたのは私じゃないわ。主人が決めたのだもの。森の安全を守るのがブリッジ公爵家の務めよ」
「そんなことしたら三月の家は失墜する。エドウィンだって秘密裏に調べてたことだよ? 公開する必要なんてないよ。国民のいらない不安を煽ることなんてしなくていいよ」
「私に言われてもね……」
ルルーさんはニールさんを振り払って地団駄を踏む。うさ耳が大きくしなった。
エドウィンから上層部へ報告が行き、それが公爵に回って来て今に至るのだろう。公爵の考えも、ルルーさんの意見もどちらも言い分は分かる。
「例え公爵家でも、三月ウサギの家は敵に回さない方がいいよ。だって、お屋敷のあるところもうちの庭だからね」
「主人に伝えておくわ。ウサギさんご立腹って」
「あー! こういう時こそアーサーによしよししてもらいたいのにー! うぅー!」
「アーサーさん、びっくりしちゃってごめんって言ってましたよ」
「謝らなくていいのに。驚かせたのは僕なんだ」
憤怒の形相から何も考えていないような笑顔に変わる。「真面目だよねー」とへらへら笑っているけれど、あの笑顔の奥で色々考えているんだろうな。
そんなルルーさんの目の前を横切って、ニールさんが夫人に歩み寄った。おそらくルルーさんが引っ掛けたお茶で濡れたと思われる顔にそっと手を当てる。そのままキスしてしまうのではないかというくらい二人の顔は近い。
「夜出歩くんじゃねえぞ。昼間も気を付けろ」
「誰に向かって言っているのかしら。森全体のことなら貴方より把握しているのよ?」
「帽子屋を一人にできない。しばらく会いに行けない」
「……うふふ。甘えん坊な私の猫さん」
夫人がニールさんの喉元を撫でた。それを合図に、ニールさんの体から力が抜けた。夫人の腰に手を回して擦り寄ると、いいように撫で繰り回され始める。この絵を見るの久し振りだな。
不意にニールさんが顔を上げた。と思ったら、ふわふわフリルの塊をいとも簡単に持ち上げて運び、芝生に転がした。さすがの夫人もそれには驚いたようで、目を丸くしている。ニールさんは突然のことに声も出ない夫人に覆い被さり、首筋から肩へ流れている銀髪に顔を埋めた。大きく開いているドレスの胸元、鎖骨の辺りに大きな手が添えられる。
「ミレイユ……」
「あぁう……っ」
「楽しませてくれよ?」
「と、当然だわ。ペットの猫を喜ばせるのが飼い主の務めだもの。いいわよ、たっぷり甘えさせてあげる」
夫人の手がニールさんの背中に回された。あまりじろじろ見るのはよくないか。ゆっくりお楽しみいただこう。
ナザリオの隣に腰を下ろす。
「仲良しだよねえ」
焦げていないクッキーを選んで食べながらルルーさんが言った。
あの二人の関係はあくまで飼い主と猫だ。それ以上でもそれ以下でもない。去年のクリスマスに酔った夫人がニールさんにぐいぐい迫って行っていたけれど、優しく止められていた。撫でて撫でてかわいがっているのは夫人の方だ。しかし、以前ニールさんが言っていたように支えていて主導権を持っているのは彼の方なんだろう。
ラミロさんは仲睦まじい二人のことをにこにこと見ている。
「あの、ラミロさん」
「何だ小僧」
「公爵夫人とニールさんのことって、公爵は把握してるんですよね」
「あぁ。旦那様はご存知だ。奥様は隠しているつもりのようだが、獣達からの目撃情報が旦那様に次々届くからな」
「黙認しているんですか」
ラミロさんはぼくの向かいに座る。カエルがちょこんと座っていてパッと見かわいいけれど、この場で一番の年長者なんだよな。
「なぜ旦那様と奥様が別々に暮らしているか知っているか?」
「知らなーい。もしかして、夫人本当は公爵のこと嫌いなんじゃない? おじさんだし、おでこ広がって来たし、お腹も出て来たし」
「失礼なウサギの小娘だな。二人の関係は良好だ。ただ……」
もつれあっている二人をちらりと見てから、ぼく達の方を向く。
「奥様の一番はダイナなんだ。旦那様のことは好きだし、ピーターもかわいい。しかし、ダイナのことが忘れられない。だから、ダイナの墓の近くに住んでいるんだ。奥様の腕の中、かつてダイナのいたところに今はあの小僧がいる。ただそれだけだ」
ただそれだけ。
夫人の長い銀髪がニールさんの腕に絡んでいる。大人の雰囲気に満ち溢れすぎていてぼくには直視できない。
「……ダイナのお墓? あるんですか」
「あぁ。ログハウスから少し獣道を進んで脇にそれたところにな。……そこでダイナは死んでいたんだよ。使用人がそれを拾って屋敷に戻ってきて、奥様……お嬢様はとても取り乱して、大変だった」
あれ? その場所って確か……。
ライオネルに初めて会ったのがその辺りだ。もしかすると、あのお墓はダイナのものだったのかな。猫のお墓だと言っていたし。
「ダイナはよく外に?」
「自由な子だったな」
それなら、きっと外へ出た時にライオネルと会ったことがあったのだろう。
「ミレイユ……っ! 待てっ、これ以上は……」
夫人の上から飛び退き、よろめきながらニールさんがこちらへやって来た。テーブルに両手を着き、肩で息をしている。真夏の太陽の元で触れ合って、汗が滴っていた。服や髪は乱れ、暑さの所為か興奮の所為か少し顔も赤くなんとも悩ましい雰囲気だ。
夫人は芝生の上に座ってその様子を見ている。彼女の髪も乱れていたが、ドレスは綺麗に整ったままだ。
「あらあら、うふふ。もう終わりかしら」
「ば、馬鹿っ! オマエ、そんなに撫でたらおかしくなっちまうだろ」
「撫でられたら理性ぶっ飛ぶって、いつも言ってることじゃないの。いつも理性飛んでるんでしょ?」
「そういうレベルじゃねえんだよ今の」
夫人は不服そうに口を尖らせる。
「加減がよく分からないわ」
「自覚して止めたからよかったけどよ……もしも俺が噛みつこうとしたらそこで撫でるのやめてくれねえか」
「甘噛みくらい構わないわよ。ダイナにもたくさん噛まれたわ」
「違う、違う、違うんだミレイユ。噛んだら最後戻れなくなる」
妖艶に笑う夫人から目を逸らし、ニールさんはぶんぶんと首を横に振った。
「俺は、俺、俺と……俺とオマエは、猫と飼い主なんだよ。そこにあるのは飼われる側と飼う側の関係性だけだ。俺はオマエに恋愛感情なんて持っていないし、オマエからのそういう気持ちも求めていない。それともオマエは……俺を愛人にしたいのか?」
夫人はゆるりと立ち上がると、ドレスに付いた草や土を払った。琥珀色の瞳はニールさんのことを見つめている。
テーブルに掴まっているだけでは支えきれなくなり、力の抜けきったニールさんは石畳にへたり込んでしまった。猫耳が軽く伏せられ、尻尾は石畳に伸びている。歩み寄って来た夫人に顔を触られて、耳と尻尾がびくっと震える。
「ごめんなさい、今日はちょっとやりすぎたわね」
「次からは気を付けろよ」
「そうするわ。飼い猫に襲われたなんてことになったら笑い話になってしまうもの。私にも猫を誘惑する気なんてないのだから。……でも気持ちよかったでしょう?」
「……馬鹿」
「ふふ。じゃ、今日はこの辺でお暇するわ。それではみなさんごきげんよう」
ラミロさんを引き連れて、夫人が去って行く。
ニールさんはしばらく恍惚そうな表情で身悶えしていたけれど、ぼく達の視線に気が付くと「見世物じゃねえぞ馬鹿ぁ!」と言って家に引っ込んでしまった。