第百三十九面 時間が必要そうですね
穏やかな昼下がり。お茶会をするのにぴったりないい天気だ。
ワンダーランド北東の森、広大な敷地を持つ三月ウサギの家の庭。そこに建つ家の前にはいつものようにティーセットが準備されている。しかし、お茶会を支配する帽子屋の姿はない。
テーブルに突っ伏して眠っている眠り鼠と、あまり美味しくなさそうにクッキーを貪っているチェシャ猫と、アイスティーの揺れるグラスを見下ろして黙っているアリス。テーブルに並んだお茶菓子の中には見事なまでに焦げているものも混じっていた。
「うえええ何これ! この上なく暗いね!」
沈黙を打ち破ったのは茂みの奥から姿を現した三月ウサギだった。ルルーさんは黒こげのスコーンを見ながら「これニールが焼いたんでしょ」と手に取った。もぐもぐと食べ、「不可解な味がする」と一言。
「アーサーは?」
「帽子屋なら部屋にいる」
「こんなにいい天気でお茶会日和……。雨でもお茶会しようとするアーサーが?」
ルルーさんはぼくに近付いてきて、そっと耳打ちした。
「ニールとアーサー喧嘩でもしたの?」
「い、いやあ、そういうわけではないです」
「僕が来てない間に何かあっ……」
言葉が途切れる。玄関のドアが開いて、アーサーさんが姿を現したのだ。ルルーさんは満面の笑みを浮かべて彼に駆け寄る。嬉しそうにうさ耳が揺れた。
対して、首元に手を当てながらぼんやりとした様子で外に出てきたアーサーさんは、迫ってくるルルーさんにびくっと身を縮めて後退った。完全に怯え切っている顔だ。
「あわわ、びっくりさせちゃったかな。ごめんねー!」
「……あ、う」
明らかに様子がおかしいことに気が付いたルルーさんが、元気よく振り上げていた手を下ろす。あの勢いのまま飛び付いてハグくらいしようとしていたに違いない。
「……アーサー?」
「ごめん……なさ、い……。私……」
一歩、また一歩とアーサーさんが後退していく。そして、くるりと踵を返して家に引っ込んでしまった。
「えぇっ? ちょっと待っ」
「追うな馬鹿兎。そっとしといてやってくれ」
廊下をちらりと見てから、ルルーさんはテーブルの方へやって来た。ナザリオを押し退けてニールさんの隣に座る。追いやられたナザリオとその隣のぼくは席を一つずれた。
ニールさんに渡されたグラスを受け取り、一口飲んでからルルーさんは家を指差す。
「何あれ。どうしたの」
ニールさんは頬杖を突きながら尻尾を揺らした。
「獣が怖ぇんだとよ」
「はぁ? 自分だってドミノじゃん」
「馬鹿兎オマエあれ、あれ知ってるか。地下鉄沿線にバンダースナッチとラース? が現れて、近くにいた人を襲ったり物を盗ったりした事件」
「先週だっけ。地下鉄の車両も占拠されて、それで折角開業したのに休業中なんだよね。亡くなった人はいないらしいけど、怪我人はたくさんいるって」
そこまで言って、ルルーさんは「まさか」と呟いた。
「そのまさかだよ。その時、帽子屋は駅の近くにいた。騒ぎが起きていると気が付く間もなく襲われて、首をな……。だいぶ薄くなったけど、絞められた痕はまだ残ってる」
食器が激しく音を立てた。ルルーさんが勢いよく立ち上がり、テーブルを叩いたのだ。
「どうして!? ニールは一緒じゃなかったの!? 守るんだっていっつも言ってるじゃん!」
より強くテーブルが叩かれる。ニールさんだ。クッキーが小さく跳ねた。
「ガキじゃねえんだ、買い物にいっつもいっつも同行してるわけねえだろ! ちょっとそこまでって言ってたんだからな!」
「一緒じゃなかったんだね……」
「……一緒に行けばよかった」
ルルーさんが着席する。
枕に顔を埋めながら、ナザリオが何か呟いた。「すごく怖かったんでしょ」、かな。ずっと眠っていると思っていたけれど、起きていたようだ。
その呟きにニールさんが頷く。毛づくろいをする猫のように、大きくて優しい手は自分の猫耳を撫でている。手に押さえつけられ、柔らかな耳は軽くへこんでいる。見方によっては、耳を外してしまおうとしているようにも見えた。
「その次の日の朝だ。中々起きてこねえから起こしに行ったんだけど、布団剥がしたらすっげえ顔でこっち見て来てさ……。『嫌っ、来ないで!』って一言……。……めちゃくちゃショックだった」
「ニールはアーサーのこと大好きだもんね」
「うるせえ。誰があんな腐れ帽子屋……」
あの日のニールさんはこの世の終わりのようにどんよりと暗い顔をしていた。そして、それをアーサーさんがちらちらと探るように警戒しながら見ていたんだよね。
「俺だってことを伝えてもしばらく怯えたままでさ、落ち着いて口を聞いてくれるようになるまでだいぶかかったな。『あまり寄るな馬鹿猫』って言われた。だからちょっと離れて話を聞いたんだ。……駅の前で襲われた時の恐怖が頭から消えない。耳が、尻尾が、牙が、爪が怖い。……兄さんだって分かってても怖い、って」
「僕悪いことしちゃったな……。でも、一週間も経ってるのに」
「それだけ怖かったってことだろうな」
ニールさんはグラスを傾ける。
「元に戻るまでどれだけかかるか。もしかしたら、ずっとあのままかもしれない」
「そんなっ。じゃあ、もうアーサーにタックルできないの」
「タックルはしないでくれって前から言ってるだろ」
「不安な時に……寄り添ってくれないの……」
グラスの中で氷がからんと音を立てた。ルルーさんはしょんぼりとした様子で俯いている。それを横目に、ニールさんは空いているお皿にお菓子をいくつか載せ、グラスにアイスティーを注いだ。
完成した一人分のティータイムのお供達は盆に載せられて、そして、ニールさんがぼくを指差す。
「アリス、頼めるか」
「はい」
ぼくは席を立ち、盆を抱えて家に入った。
ドミノが怖い。だから、兄や友人達と共にお茶の時間を過せない。それでもお茶は飲みたいから、この一週間ぼくがお茶とお菓子を届けている。今日はおそらく勇気を振り絞って外に出てきたのだろうけれど、ルルーさんにびっくりして引っ込んでしまった。今は食事もニールさんと別々に摂っているという。
部屋のドアをノックすると返事があった。ぼくを出迎えるアーサーさんはこれまで通りの穏やかな微笑を湛えていて、何ら変わりない。何冊か本が積まれている机に向かって、何やらメモを取っていたようだ。
本が机の端っこに寄せられた。ここに盆を置けということだろう。
「ありがとうございます、アリス君。毎日毎日申し訳ありません」
「いえ。えっと、帽子の本ですか?」
「あぁ、違うのです。これはちょっと、勉強を」
ぼくが盆を置いたのを確認すると、アーサーさんは本を一冊渡してきた。受け取った表紙を見て思わず声が出てしまった。日本語が書かれている。
『よく分かる言葉の基本』というのがタイトルらしい。表紙を捲った扉の部分には「イーハトヴ文字を初めて勉強する異邦人に向けての教科書」と書かれている。その下に「for Wander」とある。ワンダー文字を使っている人向けに書かれているんだな。中身も日本語と英語で構成されている。
ページを捲っているとアーサーさんが小さく笑った。
「ふふ、アリス君はすらすら読めるのでしょう? 羨ましいです」
「でもぼく英語……ワンダー文字はあまり得意じゃなくて。自分の国とは違う言葉って難しいですよね」
「えぇ、ですがとても興味深いです。大人になってからこうして学ぶことも面白いなと思い、購入しました。ほんの少しだけ読めるのですが、イーハトヴ文字はごちゃっとしたものと丸いものと角ばったものがあって難解ですね。これをたやすく解読できるアリス君はやはりすごいのでは」
ごちゃっとしたものが漢字で、丸いのがひらがなで、角ばったのがカタカナかな。元を辿れば全部漢字で、中国から伝わったんだよね。ここには、中国に該当する国はあるのかな。地理や歴史を考え出したらきりがないし、イーハトヴで日本語が書き言葉として使われていることだけ理解しておくことにしよう。
テキストの最初の方のページを開き、アーサーさんに見せる。いろはの順で書かれたひらがなの後ろの方。
「これ、『あ』です。アーサーさんの名前の、『あ』」
「ふむ」
「こっちも『ア』ですね」
「……理解するのにやや時間が必要そうですね」
アーサーさんは焦げまくっているスコーンを全く気にすることなく食べた。ニールさんの作る不可解な味には慣れているんだろうな。
「この本、ニールさんが街で?」
「えぇ。全く恥ずかしいことです。外出できない、いいえ、家の中でも兄さんと顔を合わせられない。こんなことになるなんて思いませんでした。貴方達が乗った地下鉄が気になって、駅に近付いて。その結果がこれですよ。好奇心は猫を殺すのです」
自嘲気味に笑いながら、グラスに口を付ける。
ぼくは本を机に置く。残りの本は他の国の言葉かな。
「どうして自分には三角形の耳がないのだろう。どうして自分には長い尻尾がないのだろう。幼い頃、兄さんの姿を見ながらよく考えていました。しかし、それでよかったのかもしれませんね。自分も見るからにドミノの姿だったら、私はきっと自分に恐れ戦いて狂ってしまうでしょう」
これ……。と言って、アーサーさんは指をちょっとだけ突っ込んで口角を軽く引っ張った。どこからどう見ても人間にしか見えない彼の容姿の中で、それだけが異質だった。人間のものにしてはあまりにも大きく鋭すぎる犬歯が光っている。
手を離し、小さく息を吐いてから続きを語る。
「これだけで、怖いのです。歯を磨く時に鏡に映る自分が、怖くて。けれどそれと同時に、歯だけでよかったと思っているのです」
不格好なクッキーを撫でる指先が小さく震えた。
「もう一週間も経つのに……。私は、いつまでこの恐怖に怯えて暮らさなければならないのですか」
「えっ。えっと」
「アリス君に訊いても答えが出ないことは分かっていますよ。そんなに悩まないでください。話し相手になってくれるだけでいいのです」
「はい……」
何かできるのなら力になりたいけれど、ぼくは心の問題に手助けできるほどよくできた人間ではない。それができたら去年も元気よく学校へ行っていたはずだ。
アーサーさんはグラスを弄んでいる。
「ルルーに悪いことをしました。申し訳ないと伝えておいてください」
「分かりました」
一つあげます、と焦げていないクッキーをくれた。外でも食べていたけれど、折角くれたのだからありがたくいただこう。
椅子の背もたれに帽子が引っ掛けられていた。心なしか、リボンと一緒にくっ付いている猫の飾りも寂しげな顔をしているように見えた。




