第十三面 お遣い完了かしら
魚男に案内され、ぼく達はお屋敷に踏み込む。靴越しでも分かる上質な絨毯。きらびやかでありつつも控えめという絶妙な雰囲気を醸し出す壁紙。
立ち止まった魚男が部屋のドアをノックする。中から返事が聞こえる。
「入りたまえ。ワタクシはここで待っているから」
魚男はドアを開け、ぼく達に入るよう促す。ラミロさんがぴょこぴょこ入ってしまったので、ぼくは魚男に一礼してから部屋に入った。
「ラミロと……君は?」
部屋の奥に小太りの男が座っていた。金色が混ざり始めた茶髪で、生え際はやや後退しているように見える。カイゼル髭を撫でながら、探るような目付きになった。この人がブリッジ公だろうか。公爵夫人は若い人だったけれど、相手はこんなおじさんだったのか。
ラミロさんが一歩前に出て恭しく頭を下げる。
「旦那様、奥様からお手紙です」
そして、ぼくに前に出るよう手で合図した。早く、と言われるまま、ぼくは公爵の前に立つ。預かっていた封筒を差し出すと、公爵はふふんと鼻で笑った。何だその笑いは。子供か、って馬鹿にされてるみたいで嫌だなあ。
封筒を開けると、中から薄ピンクの便箋が出てくる。公爵はだらしない顔で手紙を読み、気持ち悪い含み笑いをして、きりっとした顔を上げた。
「ご苦労であった」
何だろう。異世界の貴族というファンタジーの塊みたいな存在なのに、かわいい女の子を妻として手に入れた変態おじさんにしか見えない。
公爵はパイプを燻らせる。
「君は誰だい」
「え、えと……ぼくは……」
言ってもいいのかな。確認しようと振り向くと、ラミロさんはいなくなっていた。魚男と話している声が廊下から聞こえる。そんなあ……。
「えーと、ぼくは、帽子屋の友人です」
「ほう」
間違ってはいないよね。
公爵は興味深そうに身を乗り出す。じろじろとぼくを見て、ふふんと鼻で笑う。
「一般トランプかな?」
「え、あ、はい……」
「子供が森に入るなんて危険だよ」
公爵の声のトーンが下がった。薄紫の瞳から光が消えたみたいに見える。
「帽子屋なんかとは関わらない方がいい。さっさと縁を切り、君は街で他のトランプと仲良く暮らしなさい。分かったね」
「え……それってどういう……」
「マレク! お客様がお帰りだよ」
ドアが開き、魚男が入って来た。マレクさん、というのかな。廊下にはラミロさんの姿が見える。
「マレク、彼を街まで送ってやってくれ」
「はい」
「旦那様っ、お待ちください」
ぴょんっとラミロさんが部屋に飛び込んでくる。マレクさんを押し退けて、ぼくの腕を掴む。
「彼はワタシがちゃんと送り届けますので」
「そうか。しっかり街まで送ってやるんだぞ。君、もう森へ入ってはいけないよ」
「公爵はなぜ森に?」
つい、そう聞いてしまった。ラミロさんとマレクさんがそろって口をあんぐり開ける。ぼくは聞いてはいけないことを聞いてしまったんだろうか。
公爵はパイプをパイプ置きに置いて、気持ち悪い含み笑いをする。夫人からの手紙を読んでいた時とは全く違う、それこそ死んだ魚のような目だ。声を出して笑ったのを合図に、死んだ魚の目は獲物を見付けた肉食獣の目のようになる。
「私がこんな森にいる理由? そんなの、子供の君が聞いてどうするんだい?」
「うっ……ご、ごめんなさい……」
ラミロさんに腕を引かれる。「もう帰ろう」と小声で言われた。
公爵の威圧感に押されるように、お屋敷を後にする。
「疑問を持つ、ということはいいことだがな、何でもかんでも質問するんじゃないよ」
「ごめんなさい」
全く……。と言いながらラミロさんはぴょんぴょん前を歩いている。
どうしてあんなに怖い顔をされたんだろう。地雷でも踏んだかな。この世界の人はやっぱりよく分からないな……。
公爵夫人のログハウスに戻ると、相変わらず夫人がニールさんと仲睦まじい様子だった。ぼくとラミロさんに気付くと、うふふと柔らかく笑う。
「お帰りなさいアリス君。どう? お遣い完了かしら」
「嬉しそうにお手紙読んでましたよ」
「ありがとう」
お茶会の席にルルーさんの姿がない。帰っちゃったのかな。
「ああ、ルルーなら帰ったわよ。貴方達が出てすぐ。きっとアーサーのところね」
公爵夫人はそう言いながらニールさんの喉元を撫でる。赤ちゃんがいないな、と思ったら、ログハウスの中で女の人が抱いているのが窓から見えた。さっき料理を作っていた料理番さんかな。
ごゆっくり。と言ってラミロさんが家の中へ入っていった。テラスにはぼくと公爵夫人とニールさんの三人が残された。
「お願いを聞いてくれたから貴方のことは口外しないわ。それと、お遣い完了したから私達の関係について教えてあげるわね」
琥珀色が妖しく笑う。公爵夫人はチェシャ猫を抱き寄せて、顔を近付ける。公爵夫人の綺麗な細い指にチェシャ猫の金髪が絡む。
「私はね、彼の飼い主なの」
見えないリードに引かれるように、チェシャ猫が公爵夫人に体を寄せる。
「約束したの。その時から私は彼の飼い主……」
チェシャ猫の胸に顔を埋め、公爵夫人は黙ってしまった。ニールさんは申し訳なさそうに目だけでぼくを見る。
「アリス、家まで俺が一緒に帰るから。中で待っててくれるか」
ぼくが返事をするのを待たずに、ニールさんは公爵夫人をベンチに押し倒した。大胆な! ぼくは慌ててログハウスの中に入った。
「絶対愛人じゃないですか!」
ラミロさんと料理番さんがそろって「違うよ」「違いますよ」と言う。
「小僧、どうせ一緒に帰るんだろう? それなら帰り道でチェシャ猫に直接聞けばいいさ」
「二人は仲良し、です」
仲良しとかのレベルじゃないと思うんですけど……。
テラスからは公爵夫人の妖艶な笑い声が聞こえていた。
「待たせたな。日が暮れる前に帰ろうか」
しばらくして、ニールさんがログハウスの中に入って来た。髪は乱れ、猫耳は力なく伏せられ、何とも悩ましい雰囲気だ。息も少し上がっているようだった。
ラミロさん達に挨拶をして、外に出る。ふわふわフリルの塊になった公爵夫人がベンチの上で眠っていた。おさげを解いた銀髪が無造作な感じに広がっている。
「行くぞ」
疲れた様子のニールさんの後を追って、茂みに入る。
しばらくお互いに無言で歩いていたら、木々が深くなった辺りでニールさんが口を開いた。
「疑ってるんだろ、俺とミレイユのこと」
少し日が傾いた森の中、チェシャ猫と並んで歩く。数日前の自分に言っても信じてもらえないだろうな。
猫耳がぴくりと動いた。周囲を探るように耳を動かしながらニールさんは歩いている。
「俺とアイツは愛人なんかじゃないさ。アイツは俺の飼い主だって言ってるけど、実際は俺がアイツを支えてやってるみたいなもんだ」
「約束したって言ってましたよね」
「ミレイユはな、子供の頃猫を飼っていたんだ。俺みたいに人型なんじゃなくて、普通の猫な」
「いるんですか、普通の動物」
「いるさ。それで、ある日かわいがっていた猫が死んじまってな……」
時間を確認して、懐中時計をジャケットの内ポケットにしまう。歩幅が若干大きくなり、歩くスピードが上がる。置いて行かれては困るから、ぼくも少し急ぐ。
「何年前だったかな、森で会った時に貴方あの子の生まれ変わりね! とか言われてさ、話を聞いてやったんだ。で、すごく大事にしてた猫なんだと。だから、ちょっとふざけて『俺がオマエの猫になってやろうか』って言ったんだ。そしたらアイツ真に受けやがって、『今日から私が貴方の飼い主よ』って……」
「それで愛人関係に……」
「だから違うんだって……。俺とアイツは、そういう関係じゃないんだよ」
「いちゃいちゃしてたじゃないですか」
「撫でられたら体の自由効かなくなっちまうだろ。俺一応猫だし、喉とか撫でられたらヤバいんだって」
「あの後テラスで何があったんですか」
あの辺でだいたい疑われるんだよな……。とニールさんは頭を掻く。
「あれは撫で繰り回されてるだけなんだよ。あんなに撫でられたら理性ぶっ飛ぶから止めて欲しいんだけどなぁ」
「ぼくが未成年だからって、隠すことないんですよ」
「本当に撫でられてるだけだ。あんまりしつこいと怒るぞ」
ニールさんの手が鋭い爪を装備した獣の手に変わる。
「う、ごめんなさい」
「アイツは寂しいやつなんだよ。あんなログハウスに、使用人二人だけで……。公爵でも、カエルでも、料理番でも、赤ん坊でもない。俺が支えて、俺が受け止めてやらねえと……」
懐中時計で再び時間を確認する。ヤベっ、と言ったかと思うと、ぼくをひょいと担ぎ上げる。
「えっ、ええ!? 何ですか!?」
まさに獣という速さで木々の間を駆け抜けていく。担がれているため、ぼくは進行方向と逆を見ている。ものすごい速さで草木が遠のいていく。
「すみません! 何でこんなに急いでるんですか!」
「日が落ちるとヤベぇからな。それまでに家に着かなきゃ」
ぴょーんとジャンプして、開けたところに出る。下ろされたので周りを確認すると、猫と帽子屋の家だ。お茶会セットにアーサーさんとルルーさん、そして地面にナザリオが転がっている。
「遅い! 馬鹿猫! いつまで雌狐といちゃいちゃしてたんです! アリス君が危険な目に遭ったらどうするんですか!」
アーサーさんがティーポットを投げつけてきた。ニールさんは手を獣に変え、飛んで来たティーポットを粉砕する。
「危ねぇだろ! アリスに当たったらどうすんだ!」
テーブルの下で寝ていたナザリオが身じろぎした。
「熱いよう……かかったよ……」
それでもまだ寝ている。
アーサーさんが家の玄関を指差す。
「もう時間がありません、早く!」
「分かってるって!」
「ニール急いでー!」
「うるせえ馬鹿うさ!」
再び担ぎ上げられる。
「ええええ! 何なんですかー!」
帽子を被った猫のノッカーが付いたドアを乱暴に開け、家に飛び込む。廊下を駆け抜け、いつもの部屋のドアを開け、放り投げられた。
「うわあああああ!」
「じゃあなアリス! またな!」
「えええええええ!」
◆
「あうっ」
鏡を越えて、ぼくは自室に転がり出る。勢いあまって後方のベッドに激突した。
「痛い……」
お尻だけでなく腰もぶつけた。さすりながら立ち上がる。
「有主ー、帰ってたのー? 今すごい音したけど大丈夫ー?」
「大丈夫ー」
全然大丈夫じゃないけど。
いてててて……。
姿見に歩み寄り、鏡面に触れてみる。けれど、通り抜けられそうなのに何かにぶつかって手がこれ以上先へ進まない。向こう側の姿見の前に何か置かれたのかな。でも、どうして?
ぼくが戻らないように……?