第百三十七面 蛹
数週間前にハワードさんに抱えられながら空を飛んだことがある。ちょっぴり恥ずかしかったけれど、いわゆるお姫様抱っこの形だったので安定感があり初めての飛行でもそれほど怖くなかった。しかし、今ぼくは両手両足を地面に向けている。支えられている部分は腰しかない。その状態で地面とおさらばしたらどうなるのか。
「あぅあ……」
「すっげえ声だったな。アレクシス君大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
目が回るどころか体の中身が全部ぐりんぐりんと回り出しそうだ。滑空するように獲物目掛けて一直線に飛ぶ梟に対して、蝶はひらひらと優雅にゆるやかに飛んでいる。見ていると綺麗だけれど、一緒に飛んでいると不安でしかなかった。
腰に回されているヤマトさんの腕に必死にしがみ付く。
「……そんなに怯えんなよ。落とさないってば」
左手で抱えられているため、彼の顔は隠れていない。見上げた横顔は余裕たっぷりににやにやと笑っていて、日常的に空を飛んでいる慣れを窺うことができる。
ぱっちりと切れ長のいいとこどりをしたような目元を長めの睫毛が囲っている。格好いいとか、かわいいとか、人の容姿を形容する言葉はたくさんある。彼の容姿を一言で表すなら綺麗だろう。しかし、その綺麗さがいかんなく発揮されている場面にぼくは出会ったことがない。目が合うとすぐににひひっと笑いだすからだ。
空の色に似た瞳。艶々の黒髪。近くで見るとやっぱり似ているんだよな。
「ヤマトさん」
「どうしたー?」
「……イオリって名前に心当たりありま」
視界一杯の緑。緑。緑。時々茶色。
森の木々と地面がものすごい勢いで近付いてきた。否、ぼくが落ちたのだ。
「ひっ!?」
「あー! ごめん! 待って待って落ちないでアレクシス君っ!」
大慌てなヤマトさんの声を背後に聞いた時、背の高い木のてっぺんが真横にあった。この速さで生い茂る木々の中に落ちて行ったら、串刺しになる未来も見えてくる。全身から血の気が引くような感じがした。
「よっ……と。つーかまーえたっ」
手を握られた。その直後世界がぐるりと回った。
ヤマトさんの手がぼくの手を引っ張ったけれど、再浮上することは叶わない。枝が折れる音、葉が擦れる音。そして、呻き声。枝と枝との間を転がり落ちたぼく達は広大な森のどこかに不時着した。
暖かいものに包まれていたぼくは無傷だった。しかし、その暖かいもの――ぼくを庇って抱きかかえていたヤマトさんは、ところどころに掠り傷を作っていた。着物も破れてしまっている部分がある。何よりも目を惹いたのは、ぼろぼろになっている翅である。
「ってて……。獣には応えるな。ただの虫ならこれくらい平気だろうに……」
「ご、ごめんなさい! ぼくを庇って……。こんなに怪我を」
「手ぇ放したのは俺だからさ……。殺人事件にならなくてよかった」
「近くに川か池がないか見て来ます。手当てしないと」
木の根元に凭れるヤマトさんを置いて、ぼくはその場を離れた。少し周辺を回ってみるけれど、水音すら聞こえてこない。ハンカチを水で浸せばガーゼ代わりになると思ったんだけどな……。
「ただの虫ではないけれど、枝が減速の手助けをしてくれたし地面の草がふかふかに生えていて衝撃を吸収してくれたから割と大丈夫だぜ?」
「ヤマトさ……」
振り向いたぼくのほっぺたが両手で押さえつけられた。
そのままぼくの顔を押しつぶしてしまうのではないだろうかという気迫で、ヤマトさんは両手の力を抜くことはない。青い瞳はぼくを今まさに射抜かんとするかのように鋭い。
ひらひら舞う蝶々はかわいらしいけれど、目の前に迫って来たらちょっと嫌だ。
「アレクシス、オマエは一体何者だ?」
「ふへ」
「オマエは一体……」
「い、いひゃいれす」
「オマ、オマエは……」
先程まで脅すような形相だったのが嘘のように、突然青くなり始めた。ぼくのことを掴む手が震えだす。続きを言おうとする口はぱくぱくと動いているだけで音を出せていない。
一枚の葉がぼく達の間を舞い下りて行った。
「オマエはニホンジンなのか」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。ワンダーランドで聞くはずのない言葉を告げられた気がする。
「アレクシス、オマエは日本人なのか……?」
思考がパンクするまで一秒もかからなかった。一言で簡潔に表すならば、ヤバいと思った。言われた言葉の意味を理解しようと思った。この国の人間ではないと気が付かれたと思った。どうしてヤマトさんの口からそんな言葉が出るのだろうと思った。ヤマトさんと伊織さんって似てるよなと思った。この場から逃げたいと思った。夏休みって何日までだったっけと思った。ヤマトさんの姿にとても恐怖を覚えた。
この上なく焦っていた。イグナートさんにこの国の人間ではないと言われた時に似ていた。しかし、ぼくに勝るとも劣らないほどにヤマトさんも動揺しているようだった。
半ば混乱しながらも、ぼくは一つの疑問を山積みになっている考えの中から引っ張り出した。
なぜ、ワンダーランドに暮らすドミノである彼が日本という国を知っているのか。
ぼくはヤマトさんの腕を掴む。
「はにゃしてくらさい」
「……ん」
脅されていたのはぼくの方だ。それなのに、ぼくから手を離すとヤマトさんは怯えるように後退った。恐ろしい物を見るようにぼくを見ている。
「どうして、日本のことを知っているんですか」
夏空が見開かれた。そして、地獄の底から蜘蛛の糸に縋り付くように、一縷の望みに手を伸ばすように、ぼくの肩に手を置く。
「その質問をしてくるということは、君は日本人なんだな。アレクシス君」
「……え、えっと」
「アイツの名前……」
そこまで言って、ヤマトさんはへたり込んでしまった。触覚のように跳ねていた髪が力なく垂れている。
「待ってくれ、俺……。今寝たら駄目だ……。駄目、だって……」
蜘蛛の糸が切れて落ちて行ってしまったように、崩れるように、ヤマトさんは倒れた。本人の言葉によるとどうやら眠ってしまったらしい。
「ヤマトさん。ヤマトさん?」
反応はない。規則正しい寝息だけが聞こえてくる。
「無理に起こさない方がいいですよぉ」
足音と共に近付いてきた声に顔を上げると、フードを目深に被った男が立っていた。ぼくが獣であれば全身の毛が逆立っていたかもしれない。
そんなに警戒しなくても、と男はからから笑う。
「クロヴィスさん」
「人がどこを歩いていようと勝手でしょう?」
「あの」
「ルルーの話したら殺すしますからねえ」
チェシャ猫と真っ向から戦えそうな笑みを浮かべるヘイヤは、倒れている芋虫もとい蝶を見た。
「翅が傷ついてんのか……。坊やにいいこと教えてあげます。平凡な虫ならば、成虫になったところで体の組織の成長が止まることがあるでしょう。けれどドミノは違う。体のほとんどがトランプと同じ状況で、怪我が治らなかったら困りますよねぇ」
「確かに……」
「虫のドミノは腕や足を獣のものにするのではなく、一時的に蛹になって再生できるんですよ。まあ、翅や角等の部位に限りますけどね。こうやって話している間にも、ほら」
くしゃくしゃになっていた翅が先程よりも伸びていた。ワイシャツにアイロンをかけたようだ。
「蛹を叩き起こしたらぐちゃぐちゃになりますよ。……あー、鞄のこんなところにサンドイッチが入っていたから坊やと蝶々さんにあげますよ」
「クロヴィスさんって本当は優しい人なんですか」
「はっ、簡単に人を信用しない方がいいですよぅ? ワタシは怖いウサギさんですよ」
「どうしてチェスなんかに」
サンドイッチを二つぼくに押し付けると、クロヴィスさんは飛び退いた。脱げかけたフードからウサギの耳がちらりと見える。
「……薬の時間だ」
そう呟いた彼の目からは笑みが消えていた。虚ろな顔のまま、茂みの向こうに消えていく。
薬の時間……? 風邪でもひいているのかな。
ニールさんとアーサーさんにこっぴどく叱られることが確定した。地下鉄が不通だったと理由を言えば少しは大目に見てくれるだろうか。
クロヴィスさんがくれたサンドイッチは、ジューシーなハムが入っていてとても美味しかった。食べて問題のないものなのかちょっぴり怖かったけれど、今のところ体にも頭にも異常はない。
オレンジ色に染まる空を見ていたぼくは、視線を地面に向けた。横たわるヤマトさんの背に広げられた翅は青い輝きを取り戻していた。周囲の地面には剥がれ落ちた古い鱗粉が飛び散っている。
普通の蝶であれば、取れてしまった鱗粉は元には戻らない。しかし、ドミノであれば話は別だ。クロヴィスさんが言っていたように、削れてしまった部分を眠っている間に修復することができるのだろう。ただ、おそらく丸ごと作られている。怪我をした部分だけではなく、翅全体の鱗粉を含む組織が作り替えられている。だから、蛹なのだ。時間もかかる。
戦闘力よりも生命力を取ったのが虫のドミノなのかな。会ったことはないけれど、きっと蝉のドミノは大人になってからも長く生きていくことができるのだろうな。
微かに動いた指が土を抉る。触覚がぴょこんと立った。
「ん……。寝てた、のか……。……はぁっ!? 今何時だこれぇ!」
寝起きとは思えない速さで詰め寄って来たヤマトさんに、ぼくはとりあえずサンドイッチを差し出した。




