第百三十六面 オマエたまに失礼だな
「あれっ? さっきまで一緒に……」
エドウィンはちょっぴり呆れた様子でぼくを見ている。
「ここまで案内してくれた人がいたんだ」
「ふむ」
「帰っちゃったのかな」
いつの間にかランスロットがいなくなっていた。人々の喧騒に足音が掻き消されていたのかもしれないけれど、あの足で一瞬にして立ち去ることなんてできるのだろうか。
落ちているジャケットを拾ったエドウィンの腰には剣が下がっていた。柄の部分にアレキサンドライトのペンダントが巻き付けられている。
「バンダースナッチが現れたと騒ぎになっていたから心配していたんだ。……オレは、駆け付けられない……から……。迎えに行けなくてすまない」
「大丈夫だったよ」
「それならいいんだ。……オマエに何かあったらチェシャ猫と帽子屋に絞められるからな」
「ちらっと見たけど襲われなかったんだ」
「そうか。見付からないようにしていて遅くなったのか?」
「うん……」
地下鉄での色々は報告しなくてもいいだろう。無事に戻ってこられたのだ、余計な心配はかけたくない。
エドウィンはジャケットを広げてぼくの肩にかける。
「剣できてたの?」
バンダースナッチから話を逸らそう。訊ねると、エドウィンはアレキサンドライトの光る柄を撫でた。無表情を保っているけれど、いつもより柔らかい表情に見える。クラウスならば、もっと彼の表情を読み取ることができるのだろうな。
「以前の物と似たデザインの組み合わせで頼んでいたんだ。ここの鍛冶屋は刃の種類や柄などを好きなように合わせてオーダーメイドできることで有名で、既製品を買うよりも愛着が沸くと騎士団でも人気だ」
「……愛着とか言うんだ」
「オマエたまに失礼だな」
「人との会話にあまり慣れていなくて」
緑色の瞳がぼくのことをじっと見る。その視線はぼくが手にした紙袋に向けられていた。
「それは?」
「案内してくれた人が道中で買ってくれたんだよね……。ペンなんだ」
「知らない人に物を買ってもらうのはよくないぞ」
不愛想で感情もあまりないとは本人談だ。しかし年下の面倒見はいいのだ。やはり弟がいるからだろうか。なんだかんだでいいお兄ちゃんなんだよな。
まだどこかにバンダースナッチが潜んでいるかもしれない、とエドウィンは呟く。おそらくこの辺りにいた者は皆地下鉄に乗って行ってしまったと思うけれど、それを言ったら「なぜ知っている?」と問い詰められるだろう。
「は、早く帰った方がいいかもね。用事は済んだんだし」
「……そうだな」
愛おしそうにフランベルジュの柄をもう一撫でしてからエドウィンは歩き出した。
「案内してくれたというのはどういうやつなんだ」
「傭兵だって言ってたよ」
「傭兵? 今の時代珍しいな。先の大戦の頃は随分といたらしいが、戦後数を減らしたと聞く」
「お金持ちの後ろで汚れ仕事やってるみたいなこと言ってた」
「危ないやつだな。オマエが無事でよかった」
エドウィンがぼくの身の安全を考えているのは自分の身を守るためだ。もちろん「お兄ちゃん」としての面もあるだろう。しかし、ニールさんとアーサーさんに御小言を言われたくないという理由も大きいはずだ。
バンダースナッチに襲われた、という理由があったにしても、偶然居合わせた少年をあんなにも親身になって支えてくれたランスロットの行動原理は何なのだろう。血で血を洗うような仕事をしている人だ、それが守ろうと思ったなんて。
ぼくのこの考えも、人間の多くが獣に抱いている偏見に似ているのかもしれないな……。
地下鉄の駅に辿り着くと、そこは喧騒に包まれていた。たくさんのパトカーが停まっていて、警察が大勢いる。壁を作っている警察の外では野次馬が押し合いへし合いしていた。ただの野次馬の他に、職人さんや地下鉄の利用客がいるようだ。
「何だ……?」
もしかして地下鉄でバンダースナッチの騒動があったから使用禁止になっているのかな。
野次馬の少ないところを通ってぼく達は規制線に近付く。するとやはりお巡りさんに止められてしまった。
「これ以上先へ入ってはいけないよ」
「何かあったんですか?」
「子供は知らなくていいんだよ」
追い返されそうになったぼくの背後からエドウィンの腕が伸ばされた。手にしているのは一枚のカードだ。
「王宮騎士団の者だ。中の様子を知りたい」
「騎士団……。はっ、お疲れ様です!」
お巡りさんはびしぃっ、と敬礼をする。エドウィンもそれに返した。
「何があった」
「地下鉄がバンダースナッチの群れにジャックされたんです。車両は既に停止し、軍と警察で調査をしているところです」
「どれくらいかかる? 北東へ行きたいのだが」
いつ終わるかは分からない、とお巡りさんは言う。
「エドウィン、どうしよう」
「……参ったな」
代替の馬車と自動車が何台か出るらしいという情報が人から人へ広がっているようだけれど、数に限りがあるだろうしいつ順番が回って来るか分からない。
ぼく達は顔を見合わせる。
お巡りさんが手を伸ばしてきた。そして、「騎士団の人でもこれより先は駄目ですよ」とぼく達のことを追い返した。ぼくとエドウィンは人混みの中に放り込まれる。
「どうやって帰ろう」
「……運行再開まで待つしかないか」
「えぇっ! アーサーさんに叱られてニールさんに怒られるよ!」
「可能な限り避けて通りたい未来だな」
押し合いへし合いをしながら警察と対峙している人々の間を縫って、ぼく達は駅前広場の端の方へやってきた。
暗くなる前に帰りたい。けれど、地下鉄は動かない。
「どうしようもないか……。チェシャ猫と帽子屋に……」
頭を抱えるエドウィンの隣でぼくは空を仰ぐ。飛行機が……せめて飛行船でもあればいいんだけれどな。
あれ?
空で何かが光った。日光を受けてちかちかと光っている。そして、ぼんやりと眺めているうちにそれはぼく達目掛けて急降下して来たのだった。
綺麗な長い黒髪が風に舞う。艶やかでありながら塗り潰したようにも見えるその黒の中で、先程飛んでいた空のように真っ青な瞳が煌めいた。にひひっ、とした笑みを浮かべて、イーハトヴの伝統衣装を纏った芋虫もとい蝶はぼくの眼前に浮かんでいる。咥えられた煙管からは紫煙がぷかりぷかりと昇っている。
「よお人間。なんだか騒ぎが起きてるみたいじゃないか、どうしたんだ?」
その声にエドウィンも顔を上げる。
「芋虫」
「芋虫じゃない。美しい俺を捕まえて芋虫だなんて言いなさんな。お兄さんを子ども扱いするんじゃありません」
「ヤマトさん、お散歩ですか?」
ひらりと着地して、ヤマトさんは紫煙を吐き出した。
「まあそんな感じ?」
「諸事情で地下鉄が不通なんだ。空を飛べるオマエには関係ないだろうがな」
「っはは、折角開通したのにもう止まってんのか」
綺麗な顔なのに嘲笑がよく似合うな。
触覚のように跳ねた髪が人々のざわめきに反応するようにぴょこぴょこ揺れている。あれは本当に触覚なのかもしれない……。
ぼくが触覚のような髪を眺めていると、エドウィンがヤマトさんの着物の衿を掴んだ。掴みかかったという表現をしてもいいだろう。勢いがあった。しかしヤマトさんは全く動じていない。
「どうしたんだい騎士さん?」
「芋虫」
「蝶だよ」
「芋虫、オマエには色々と訊きたいことがある。役場の住民課の調査を毎年毎年潜り抜け、コーカスレースにも尻尾を掴ませない不審者であるオマエの正体を教えてほしい。ヤマト・カワヒラという名前と、ドミノ登録名が芋虫、それしか情報がない。『ドミノの管理をしているのだろう? ついでに頼む』と押し付けられたオレのためだと思って観念してくれ」
ヤマトさんは同情するようにエドウィンを見た。そして次の瞬間、先程にも増して下卑た笑みを顔面に貼り付けた。その様子にさすがのエドウィンも苛立ちを露わにする。あの無表情を極めた彼が静かに怒っているのが見ただけで分かった。
衿を掴む力の強くなったエドウィンの手を、ヤマトさんは掴み返した。これでもかというほどの嘲笑を浮かべて見下す。
「残念ながらそれは無理だ」
「オマエを調べに行く住民課虫ドミノ担当の葡萄蜻蛉を毎回弄んでいると聞いた」
「人聞きが悪いな。向こうが迫ってくるんだよ」
役場の葡萄蜻蛉さん、というと蝿のユーリさんのパブで出会った彼女のことだろう。彼女が葡萄の蜻蛉なら、ユーリさんは木馬の蝿だろうか。どちらも『鏡の国のアリス』で語られている不思議な虫だ。
蜻蛉のお姉さんはあの夜もヤマトさんを求めていた。酷い職務怠慢だ。いや、近くに寄って本性を知ろうとしている可能性もある。
ヤマトさんはエドウィンの手を引き剥がす。
「お兄さんには少しくらい秘密があった方が魅力的だろう?」
エドウィンは小さく溜息を吐いた。
「糠に釘、暖簾に腕押しか……」
「騎士さんイーハトヴの諺を知っているんだな。……あぁ、アンタがあれか。花札の血を引く王宮騎士がいるって聞いたことがある。なるほどなるほど。それならほら、もっと俺を見ていいぜ。俺の格好が血に沁みるだろ。心が懐かしいと叫ぶだろ。美しい俺のことをもっと――」
「触覚をもいでもいいだろうか」
「エドウィン落ち着いて」
仕方ないか……。と呟いて、エドウィンはぼくの羽織っていたジャケットを引っ張った。
「今日オマエに会ったことは報告しないでおいてやるから、代わりにコイツを北東の森まで運んでやってくれないか」
「えっ、ぼく? 何?」
「オレは帰りが遅くなっても特に問題はない。しかし、コイツの帰りが遅いと同行していたオレがチェシャ猫と帽子屋にみっちり絞られることになる。頼めるか」
ぼくから取り上げたジャケットを自らの肩にかけ、エドウィンはヤマトさんを見た。森に来た時にも着ていたけれど、やはり持ち主本人が纏うとしっくりくるんだな。だぼだぼだった己の小ささを改めて思い知らされ、ぼくは静かに嘆いた。
真剣な目付きのエドウィンを見てヤマトさんはにひひっと笑った。
「仕事より大事なんだ?」
「あの兄弟は突っかかってくる先輩なんかよりも恐ろしい存在だからな」
「あぁ、怖いよねあの二人。分かった分かった。じゃあお兄さんとの約束だ。ここでアンタに会ったこと内緒にしてくれよ」
エドウィンが無表情で頷くのとほぼ同時に、ぼくの体は地面を手放した。ひょいと持ち上げられ、ヤマトさんの小脇に抱えられる。
「待って、飛ぶの?」
「よーし、行こうかアレクシス君。お兄さん張り切っちゃうぞ」
「まだ心の準備が……。あ……」
遊園地のアトラクションに、乗っている座席がぐんぐんと上がって行って急に落ちて行くものがある。あれは上がって行く段階で非常に怖い。もしも上がるのも猛スピードだったならばどうなるだろうか。答えは簡単だ。
空を見上げるエドウィンがぽかんとしている。駅前広場にいた人々の何人かも空を見た。
そして、ぼくの口からは言葉なのか何なのかよく分からなくなっている叫び声が発せられていた。




