第百三十四面 今思えば
これは発明品なのだ、と老騎士は言う。逆さになった物入れに、馬の上のネズミ捕り。
おかしな発明品につっこみを入れながらも、少女は老騎士の道案内に従って歩いて行く。
小川で別れて、少女は手を振った。
ありがとう、優しい騎士さん。
♥
青白い瞳がトンネルの暗がりの中で光るように揺れた。
「大丈夫だよ……。ちょっと力が抜けただけ……。意識はあるから……」
消えるような声で言って、ランスロットは目を閉じた。体を丸めるようにして左足を押さえる。
「職人街の方へ行く地下鉄が来たら飛び移ろう」
「でも、服はどうするの」
「……どうしようもない。でも、戻らないと。キミの友達が待っているからね。ボクも用事あるし」
そうは言っても、こんな血まみれの人が乗って来たら絶対にみんなびっくり仰天する。ひったくりに遭ってこんなことになるとは思わなかった。
あれ? よく見てみるとシャツは白いままだな。袖は赤くなっているけれど。
「ローブとか上着とか脱いだら?」
「えぇ……?」
ゆるりと起き上がり、ランスロットはローブを脱ぎ、ジャケットを脱ぎ、ベストを脱いだ。袖を捲ってしまえば返り血はほとんど目立たない。そもそも真夏なのだからこれくらいの格好で十分だ。しかし、ズボンは誤魔化しが効かない。
ぼくは畳まれた血塗れの上着達を見る。これもどうにかして運ばないと。
上着……。上着?
「そうだ!」
ぼくはジャケットを脱ぐ。
「これを腰に巻けばズボンも隠せるんじゃない?」
「いいの? 裏に血付くかもしれないけど」
「……致し方ない!」
分かったよ。とランスロットは言う。愛想笑いを浮かべる元気もないらしく、表情は暗いままだ。こんな状態の時に訊くべきではないのかもしれない。しかし、やってきた地下鉄に乗ってしまったら周りに人がいるのだ。二人きりの今訊くしかない。
ぼくは意を決して、姿勢を正した。
「あの、ランスロットさん」
「……どうしたんだい改まって」
「あなたは……チェスなんですか……」
右腕に包帯を巻いていたランスロットは目を丸くして手を止める。とても驚いているようだ。
去年の秋、夜の森で赤のナイトに絡まれた際に目撃した少年は今思えば彼だったのかもしれない。覚えている特徴とあまりにも酷似しているのだ。そして、バンダースナッチのことに詳しすぎる。運動能力も超人的だ。
「スート、付けてないし……。バンダースナッチのことよく知ってるし……」
青白い瞳がぼくのことを突き刺すように見ている。とても怖い。静かに睨みつけられている。ものすごく怖い。
ランスロットは畳んでいたジャケットを広げてポケットに手を入れる。ナイフでも飛び出して来て刺されるんだろうか。
「あ、あのあの、ごごごめんなさい変なこと訊いて」
ぽんっ、とぼくの目の前に登場したのはナイフではなく、水色のクラブだった。
「残念ながら、というか、幸いにも、というか……。ボクは人間だよ」
「変なこと訊いてごめん」
「いや、スートを付けていなかったボクが悪かったね。仕事柄あまり素性を知られたくなくて、普段は外しているんだ。ほら、前の雇い主と次の雇い主が仲悪かった時、別の傭兵だと思われていた方がいいだろう? 傭兵を雇うような人達はボクらの顔なんて覚えていない。でも、番号はともかくスートは覚えられていることがあるからね」
ランスロットはスートをジャケットにしまう。
ぼくは今ものすごく失礼なことをしてしまった気がする。助けてくれて、守ってくれた人に向かってチェスですか? なんて失礼すぎる。
「そもそも昼間にチェスが出るわけないだろう?」
確かにそうだ。あの夜見たランスロットにそっくりなチェスらしき人は他人の空似だったのかもしれない。
ただ、疑いが消えたわけではない。いや、この人を疑うなんて駄目だ。
頭の中がぐるぐる回って、爆発しそうだ。イメージ画像などでよく天使の自分と悪魔の自分が戦っているものが出てくるけれど、今のぼくはそういう状態になっているのだろう。今のところはひとまず保留にしておくしかないか。
ぼくが思案していると、がたんごとんという音が近付いてきた。
「来たみたいだね」
ランスロットは立ち上がり、アーロンを差してからぼくの渡したジャケットを腰に巻いた。脱いだ上着は血の付着が少ないベストの背中側が外に来るように丸め、包帯で縛る。
「少しでもタイミングがずれたら、ボク達は怪我をするどころじゃ済まなくなる。アレクシス君、ボクの合図に合わせてね」
「できるかな……」
「できるかどうかじゃない、やらなきゃ」
手が差し伸べられる。アリスが白の騎士と一緒に歩き出したように、ぼくはその手をしっかりと握った。
隣の線路を走る地下鉄の明かりが見えた。後少し。後少し。
「もしもボクがチェスだって答えていたら、キミはどうしたんだい?」
「えっ……? うわっ」
合図するって言ったじゃん!
世界がぐるりと回り、ぼくはデッキの床にしたたかにお尻を打った。
「いたぁ」
「無事に乗り移れてよかった」
「お尻無事じゃない……」
ぼくに早く立つように促し、ランスロットは客車の戸を開けた。
「空席を探そう」
アーロンを杖に、壁に右手を添えながら歩いて行く。
「ちょっと、待ってよ!」
「このコンパートメントでいいか。アレクシス君、こっちこっち」
指し示されたコンパートメントの座席には、翅の生えた男女二人組が座っていた。虫の獣かな。男の人の方は額に角が生えているからカブトムシだろうか。女の人は何だろう。
相席の了承を得て、ぼく達は彼らの向かいに座る。
すると、のんびりと雑誌を読んでいた女の人が目付きを変えてランスロットの腕を掴んだ。鋭い目付きで彼のことをじろりと見る。口元には鋭い牙が覗いていた。
「アンタ、かわいい男の子じゃないか」
「へっ!? あ、ありがとうございます?」
女の人は、ぐっと顔を近付ける。
「よかったらお姉さんと遊ばないかい? アタシこの先の歓楽街で降りるんだ。一緒に来ないか」
「えっ、いやっ、その……」
見ているだけでこちらまで恥ずかしくなってきた。
「ごめんなさい!」
「あっはっは、ふられちゃったよ。冗談だよ冗談。美味しそうな匂いがするからからかっちゃったのさ。アンタみたいなしっかりしてそうな子には、アタシの店よりこっちのおじさんの店の方がお似合いだよ」
女の人はカブトムシさんを指差す。指名されて彼はぺこりとお辞儀をした。露出多めの派手なドレス姿のお姉さんに対して、こちらのおじさんはオーバーオールを着ていて作業員風だ。
「リチャードという。……こういうものを売っている」
オーバーオールの胸ポケットから出てきたのはゼンマイ仕掛けのおもちゃだった。ヒヨコかスズメだろうか、小さな鳥の形をしている。リチャードさんがゼンマイを回すと、小鳥はくちばしと翼をぴこぴこと動かし始めた。
ランスロットは興味深そうに鳥のおもちゃを見て「なるほど」と呟いた。
「とても精巧に作られているようですね。イーハトヴの物ですか?」
「そうだ。まだ若いんだが腕のいいロボット研究者がいてな、そいつの作ったからくりなんだ。俺はそれを仕入れて売っている。イーハトヴはドミノに異常なほど寛容だから、我々も花札相手には仕事がしやすい」
「ふーん。アタシも花札相手の商売始めようかねー。あぁ、アタシはマーカラっていうんだ。大人になったらうちの店においでよね」
丁重にお断りしよう。
「ぼくはアレクシスです。こっちは」
「ボールスです」
「え?」
「道中よろしくお願いします」
今何て言った? ぼくの聞き間違いでなければボールスと名乗ったよね。
ぼくはランスロットを見る。目が合ったが、彼は貼り付けたような愛想笑いを向けてくるだけだった。
マーカラさんはまだランスロットのことをじろじろ見ている。それも、足。左足の辺りを重点的に。そしてあろうことかマーカラさんは舌なめずりをしたのだ。
「ボールスくん? アンタ足怪我してるだろ。よかったらお姉さんに味見させてくれないか」
「は……?」
「アタシは蚊なのさ。ね、どうだい。痛くはしないよ。気持ちよくさせてあげるから」
「お断りします……」
「照れちゃってかわいいねえ」
拒否するランスロットにまだ諦めないよというようにマーカラさんが手を伸ばしたところで地下鉄が停まった。マーカラさんは名残惜しそうに手を引っ込める。
「時間切れだね。おじさん、また会ったら面白い話聞かせてね! アンタ達もね、店に来るの待ってるから!」
ひらひらのドレスを揺らしながら、マーカラさんは地下鉄を降りて行った。
「やれやれ、騒がしい女だったな」
窓からホームを見ると、ベンチに座っていた女の子に声をかけている姿が見えた。美味しそうだと思ったら見境なく声をかけているのだろうか。突然刺してくるのだから、蚊はそういうものなのかもしれない。
地下鉄が動き出す。
職人街へはあとどれくらいで着くのかな。




