第百三十二面 人間のくせに
デッキにいると風が気持ちいいな。地下鉄だから景色は見えないけれど。
戸を開けて客車に入る。
「どこに乗ってるんだろう。途中で降りちゃったら分からなくなっちゃう……」
「……それはないと思うよ。このまま終点まで乗りっぱなしだ」
「分かるの?」
ランスロットは車内を見回す。コンパートメントが続く通路があるだけだ。
「この地下鉄、何か変だ」
「変?」
「ボク達はそのまま車内に入ったんだよ? 車掌室がなかった」
言われてみれば確かにそうだ。特別な車両なのかな。違うか。
「この、気配……は……」
頭を押さえて、ランスロットが壁に凭れる。
「えっ、大丈夫」
「大丈夫……。……分かってる。分かってるよ。大丈夫だから、任せて……。……行ける、から。キミに頼らなくても……。交代しなくていい……」
何を……言っているんだ……。
ぼくに向けられた言葉ではない。全くぼくの方を見ていない。彼が見ているのは窓だった。窓に映っているのはもちろんぼく達と車内の装飾だけで、ランスロットは窓ガラスに映る自分を見ていたのだ。どうして?
体勢を立て直し、剣の柄に手をかける。
「チェスの気配がするね。……いや、この地下鉄車両そのものがチェスみたいなものだ」
「どういうこと」
ぼくが訊ねたのとどちらが早かっただろうか。一番近いコンパートメントから黒い影が飛び出してきた。三角形の耳とふさふさの尻尾を携えた犬の獣で、足元の影が別の生き物のように蠢いていた。
バンダースナッチだ! という声すら飲み込んでしまうくらい驚いた。いや、怖いのかもしれない。こんな狭いところで出くわすなんて。あのコンパートメントのお客さんは無事なのだろうか。
ランスロットが剣を抜く。引き摺らないぎりぎりのところで佩いている剣だ。刃渡りはとても長く、車内の通路で振り回すのはやや困難そうな印象を受ける。エドウィンのフランベルジュとも、クラウスのエストックとも違う。この剣は何という名前なのだろう。
バンダースナッチはぼく達のことを視認すると、思い切り踏み込んで飛び掛かって来た。しかし、その体はあっけなく床に叩き付けられてしまった。肩の辺りから出血している。
「くそっ、人間のくせに……っ!」
剣で叩き落とされ、床に伸びているバンダースナッチ目掛けてランスロットは足を振り下ろした。出血している肩に頑丈そうな靴が落とされる。見ているだけで痛くなりそうだ。
「っぐ」
「ねえ、キミはどこの陣のバンダースナッチ?」
「はっ、言うかよ」
ランスロットはにこりと笑う。そして、手にした剣をバンダースナッチの背に突き刺した。
「まあ、どこのでもいいんだけどさ」
思わず「ひっ」と言う声が漏れた。ぼくの足は彼の横にいることを拒絶し、立っていることも拒絶する。下半身に力が入らない。
尻餅をついたぼくを振り返ったランスロットは返り血を浴びていた。動かなくなったバンダースナッチから剣を抜き、とても優しく微笑んだ。大丈夫だよ、とぼくを安心させるように。
その姿を見て、ぼくの頭の中には夜の景色が広がった。森の中、月光を受けて煌めく白い髪。青白く気だるげな目。鈍く光る銀のローブに、所々を染める赤。足下には血まみれの……。そして、優しい微笑み。血に濡れた、笑顔。
あの時の……。
「バンダースナッチ! おいで! 一匹残らずボクのアーロンの錆にしてあげるよ」
ぼくの記憶が間違いでなければ、彼は、もしかすると……。
「トランプが乗り込んできたぞ」
「やっちまえ!」
「行けー!」
あのコンパートメント、このコンパートメント、車内に次々とバンダースナッチが姿を現す。いや、バンダースナッチだけではない。緑色の耳と巻いた尻尾を持っている者が何人か混じっているようだった。バンダースナッチ相手に剣を振り回していたランスロットが、緑色の部位を持つドミノを見て一瞬怯む。
あの耳、あの巻いた尻尾はおそらく豚だ。バンダースナッチと一緒にいることから推察すると、あれはきっとラースだろう。『鏡の国のアリス』でジャバウォックと共に歌われる動物の一つ。
「ラースがいるのか。そんなに総動員して何をするつもりなのかな」
剣が空を斬る。影を纏った犬と豚も斬り裂いて、車内は真っ赤に染められた。ぼくが腰を抜かしている間に、この車両は一掃された。
「ひとまずお掃除おーわりっ。……っ、あ。……あぅっ」
文字通り死屍累々な惨状を笑顔で見ていたランスロットが、突然青くなって倒れた。銀のローブにどんどん血が染み込んでいく。
「ら、ランスロット!? どうしたの?」
「血の量多過ぎ。ちょっと無理。気持ち悪い」
「自分でやったのに!?」
「やり過ぎだよ……。出てこなくていいって言ったのに……」
バンダースナッチとラースを乗り越えて、一つ前の車両の後部デッキにぼく達はやって来た。剣を抱きしめたランスロットは柵に凭れて俯いている。
「どうなってるの、これ」
「この地下鉄、乗っているのは全部バンダースナッチとラースだと思う。職人街の駅でおかしいとは思ったんだ。ホームにいた客は皆、乗れたはずなのに誰も乗っていなかった。それに、このスピード。速すぎる。客は乗らなかったんじゃない、乗れなかったんだ」
「……ジャックされてるの?」
ランスロットは頷く。
「チェスに身を捧げた犬がいた。影に囚われた裏切り者の犬。その末裔がバンダースナッチ。トランプやドミノを襲う者もいるし、首輪で力を制御して平和に暮らしている者もいる。ラースもそう。けれどね、それ以外の生活をしている者もいるんだ」
取り換えたはずの包帯は再び赤くなっていた。染まっているどころか、浸されている。ぽたぽたと斬った相手の血が垂れていた。
「チェスの配下にいる者もいるんだよ。特に深く影に堕ちた者だね。この地下鉄に乗っているやつらがそう。どこかの陣営の配下で、指示を受けて動いているんだと思う。物資を沿線で奪取して輸送するつもりだろうね。開業間もない地下鉄だ、乗っ取れば大騒ぎだよ」
「あ、あのさ。バンダースナッチやラースは一応ドミノなんだよね? こ、殺しちゃって大丈夫なの……。いや、チェスも、なんだけど……」
キミは優しいね。と言ってランスロットは立ち上がる。そして連結部を越えて後ろの車両へ行くと、ゆっくりと戸を開いた。
そこにはあるはずのものがなかった。床や壁に血痕はある。しかし、積み上がっていた遺体がなかった。バンダースナッチも、ラースもいない。まさか遺体が歩き出しただとか、生き返っただとか、そういうことはないだろう。猛スピードで走り続ける地下鉄だ、車外に飛び出すということは考えられないし、動けるならぼく達を襲ってくるだろう。
戸を閉めてランスロットが戻ってくる。
「崩れて影に消えたんだ」
「え……」
「チェスやバンダースナッチを生き物だと思わない方がいい」
次の車両の戸を開ける。
「あれは質量のある影だよ」
剣を鞘から抜いてランスロットは車内に飛び込んでいった。一瞬、悲しそうな表情に見えた。ぼくの見間違いだろうか。
叫び声と赤が溢れる。ぼくはやっぱり腰を抜かしてしまって、デッキから動けなかった。目の前で殺戮が繰り広げられている。何度も何度も、そういう場面を本の中で見てきた。けれど、実際に見る日が来るなんて。
コーカスレースを束ねるイグナートさんでも対応できなくて、王宮騎士の中でも際立って剣術に長けているらしいエドウィンが苦手だというバンダースナッチに一人で挑んでいる。それも、何人も束になってかかってきているものに。
「職人街でひったくりとスリをしたやつってここにいる? いない? じゃあみんな殺すね」
剣の軌跡が弧を描く。……じっくり観察なんてしていられない。ずっとなんて見ていられない。さっきもそう。ぐしゃりぐしゃりという音が止まるまで、ぼくは目を瞑る。
少しして、地下鉄の走行音がよく聞こえるようになってきた。足音が近付いてくる。
「アレクシス君、終わったよ」
顔を上げると、ランスロットがぼくを見下ろしていた。先程よりも赤い部分が増えている。
「今度は大丈夫?」
「うん。ほどほどにやったよ」
辛うじて元の色を保っているズボンで手を拭き、こちらに差し伸べる。
「じゃ、次の車両に行こうか」
「ねえ、この地下鉄はどこへ向かっているの。バンダースナッチをやっつけて、そうしたらどうするの。運転してるのも、バンダースナッチなんでしょ? 停められる?」
「……全部の相手なんてしないよ。キミが盗られたものを回収したら適当な駅を通過する時に飛び降りるつもりだけど」
「やっつけなくていいの?」
「地下鉄が一編成ジャックされたっていう情報はこの路線の終着駅に伝わっているはずだよ。なにしろ、イーハトヴから輸入した電話が各駅に置かれているからね。あれは便利だね、とても。だから、この地下鉄が停まる駅には軍や騎士団が待ち構えているはずだ。残りは彼らに任せておけばいい。それに、乗ったままだったら色々事情聴取されるよ。面倒でしょ?」
電話があるのか。この言い方だと、地下鉄の駅同士でしか通話できないようだけれど。
確かにランスロットの言う通りではある。事情聴取をされるととても面倒だ。ニールさんとアーサーさんにも迷惑をかけることになるだろう。
「分かった。行こう」
なるべく下を見ないようにしながら、ぼくは客車の中を歩いた。この惨状をなるべく見たくないし、聞きたくもない。次の車両でぼくの大切なものが見つかりますように。




