第百三十一面 変わった子だね
ランスロットは左耳のピアスに軽く触れる。
「こんなところで会うなんて奇遇だね。えっと……一人で来たのかな。北東の森から?」
「こんにちは。いや、友達と来たんだけど……はぐれて……」
「すごい人混みだものね。ボクも来た時潰されそうだったよ。……案内しようか?」
右腕に巻かれた包帯はほどけかけており、血が付着していた。道行く人がちらちらと彼のことを見ている。
「怪我してるの?」
「あー、これはボクの血じゃあないから大丈夫。ちょっと悪漢に絡まれてね」
撃退した、ということだろうか。包帯に付いているのは悪漢の血か。細身なのに強いんだな。出会った時もチェスと戦ったとか言っていたし、傭兵らしいし、人は見かけだけじゃあ分からないね。
風に揺れる包帯の先を引っ張って巻き直しながら、ランスロットはこちらに歩み寄って来た。しかし、包帯はどんどんほどけてきてしまう。ぼくの目の前に来た時には、すっかり腕から零れ落ちて指先から垂れてしまっていた。
ぼくの目はその右腕に釘付けになる。細い腕には大きな傷痕があった。ぼくの視線に気が付いたらしく、ランスロットは左手で右腕を隠す。
「あまり見ないでね」
「ご、ごめん……。あの、新しい包帯にした方がいいんじゃない? それ汚れてるし……」
不思議そうに包帯を見て、ぼくを見る。ローブに血が付いていても気にならないのだ、包帯ならなおさらか。
「薬局にあるかな……。行こう、ランスロット」
「キミ……。キミは、変わった子だね」
「えっ?」
変わっている。そう言われるのは初めてではない。何度も言われてきた。何度も、何度も。そうして、ぼくは閉じ籠ってしまったのだから。
青白い瞳がぼくを見ている。変わった子だね、という言葉がぼくの中でずっと響いている。
ずっ、という靴を引き摺る音が自分の足元から聞こえた。どうやらぼくは後退ったらしい。
随分と自分は頑張って来たなあなどと思っていた。ワンダーランドへ来るようになって、チェスやバンダースナッチにも襲われて、それでもみんなと乗り越えて来て、学校へも行けるようになった。しかし、それでも。不意に言われた言葉に恐ろしいほどのダメージを受けることは今でもあった。
強くなったと、思っていたんだけどな……。
「アレクシス君っ」
腕を掴まれ、引っ張られる。直後、ぼくの背後でがたがたごろごろと車輪の鳴る音がした。
バランスを崩したぼくはランスロットに飛び付く。
「後退して後退して馬車の前に飛び出すんだもんなー。ちょっと驚いたかな」
「ごめん……」
「いやいや。たぶんボクの所為だよね? 知らずにキミを傷付けたようだ、こちらこそごめんね」
すっ、とぼくから離れて、ランスロットは右腕を見る。包帯は先程ぼくを引っ張った際に落としてしまったらしく、ぼく達の足元で蜷局を巻くようにして沈黙していた。
「あまりボクを気に掛ける人いないから、驚いたんだ。それで、変わってるって……。……キミは優しいんだね、アレクシス君。こんなボクのことを気にして」
「だって血塗れだったら気になるし……。薬局はどこにあるのかな。知ってる?」
「こっちだよ」
包帯を拾ったランスロットと連れ立ってぼくは歩き出した。初めて来る街の西側。エドウィンが言っていた通り、工場や工房が多い印象を受けた。職人の街か。
窓越しにガラス細工の見えるお店があった。思わず立ち止まってしまったぼくを見て、少し先を行っていたランスロットが戻ってくる。
動物の形をした置物や、花瓶やグラス。照明を反射してきらきらと光っている。
「綺麗」
「奥が工房になっているようだね。ああいうの好きなの?」
「ガラスとか、木とか、なんでもいいんだけど、飾ってあるものに興味がある、のかな」
「ふうん。……あぁ、あそこが薬局だよ。さっさと包帯買って、キミのお友達のところに行かないとね」
ぼく達は薬局に入る。薬棚を眺めながら奥へ進むと、文房具の置かれている一画を見付けた。近所のドラッグストアにも薬以外のものが置かれているけれど、どうやらこの薬局もそうらしい。インク瓶とペン軸、ペン先が売られている。
思わず手を伸ばしてしまった。ペン軸には彫刻が施されている。これはお花かな? 彫刻部分が白く浮かび上がるように色が塗られている。ベースは淡い水色だ。
「それ欲しいの?」
買った包帯を早速腕に巻いたランスロットがぼくを覗き込む。文房具売り場を眺めているうちに彼の買い物は終わったようだった。失礼な言い方だけれど、愛想笑いばかり浮かべているような彼が珍しく柔らかな笑みを浮かべたように見えた。
伸ばされた左手がぼくの右手からペンを奪い取る。
「いいよ、買ってあげる」
「えっ。えっ、あ、こ、困りますよっ」
「急に敬語になってどうしたの」
「だって、だってそんな、買ってもらう、なんて……」
「お礼だと思って。嬉しいんだ、今。とても。気にしてくれて」
ペンを持ったまま、ランスロットは会計の方へ行ってしまった。ぼくもそちらへ向かう。
そんなに嬉しかったのか。感謝の気持ちを断るわけにもいかないね。けれど、そんなに嬉しく思ってしまうほど、普段は一人なのだろうか。ここへ来る前のぼくのように。
はい。と、ペンの入った紙袋を渡される。しかし、これを家に持ち帰っても大丈夫だろうか。異世界のものがぼくの部屋に存在しても大丈夫だろうか。そこまで考えて、水色の正装が部屋にあることを思いだした。うん、大丈夫だな。
「いい笑顔だね。よかった、喜んでもらえて」
「ありがとう、ランスロット」
店員さんに見送られて外に出た時、ぼくの耳に飛び込んできたのは女の人の叫び声だった。
「ひったくりよー!」
その声を認識した直後、ぼくは強い衝撃を受けた。ぶつかってきた何かに弾き飛ばされ、転んでしまう。ぶちっという音が聞こえたけれど何の音だろう。体を起こしたところで、相手が女性の言うひったくり犯であることに気が付いた。ハンチング帽を深く被った男だ。尻尾がある。獣だ。
「アレクシス君、大丈夫」
「どこ見てやがるんだこのガキ!」
体勢を立て直し、ひったくり犯はぼくが落としてしまった袋を拾い上げて逃走する。
「あっ、ちょっと待ってよ!」
慌てて飛び起き、ぼくは犯人の後を追った。
「待っ……」
「行くよ」
手を取られた。ぐんっ、と引っ張られる。ランスロットだ。
「悪い子にはお仕置きが必要だ」
にやりと笑ったその顔に形容しがたい恐怖を覚えた。この怖さはどこかで感じたことのあるものだ。でも、どこでだろう。
ひったくり犯を追い駆けて行くと、その先々で大きな悲鳴が聞こえた。物を盗られた人の他に、怪我をした人もいるらしい。
「あっちは駅だ。地下鉄で逃げるつもりみたいだね」
「取り返さないと」
「でも、キミは友達と合流しないといけないんだろう? 諦めて、新しいの買ってもいいんだよ」
黒い服を着た犯人の姿が、地下鉄の駅の出入口に消える。
ぼくは握られている右手に力を入れ、ランスロットの手を握り直す。
「あれじゃないと駄目でしょ。あれが、きみに貰ったものなんだ。それに……」
走っている途中で気が付いた。気が付いてしまった。もしもこのことに気が付かなければ、ランスロットの言う通りにしても良かったかもしれない。
ぼくは左手でTシャツの胸元を掴む。小さく穴が空いてしまっていた。
「スートを盗られた。ぶつかった時にすられたんだと思う」
ホームへ続く階段を下りながら言うと、ランスロットは首を傾げた。
「家にないの?」
至極当然な質問だと思う。
人間は皆自分のスートを表すものを何かしら身に着けている。その形態は様々だ。ペンダント、ラペルピン、カフスボタン、髪飾り、指輪、ブローチ、服の模様等々。その日その日のファッションに合わせて、着けるスートの形を選んでいる。だから、家にたくさんあるのだ。スートの付いたアイテムが。
しかし、ぼくが持っているのはニールさん達に貰ったブローチだけだ。あれを貰った時、自分もトランプになったみたいで、ワンダーランドに認められたような気がしたんだ。あれを失うわけにはいかない。ランスロットが買ってくれたペンも、もちろん。
「大切な人達にもらった、とても大事なものなんだ」
「分かった。行こう」
ホームに下りると、地下鉄は既に動き出していた。犯人がぎりぎりのところで飛び乗る。
「あぁっ、無理だぁ!」
「まだ間に合う」
手、離さないでね。そう言ってランスロットが加速した。ぼくは完全に引き摺られる形になる。
遠くなる車体に手を伸ばして、なんとか一番後ろの車両のデッキの柵を掴む。そこまでは見えていた。次の瞬間、ぼく達はそのデッキに転がった。
「いったぃ」
「ほら、間に合っただろう?」
ひっくり返っているぼくを見下ろして、ランスロットは得意げに笑った。
ホームが遠くなっていく。エドウィン、きっと待ってるだろうなあ……。