第百三十面 どこまで行くんだい?
真っ暗なトンネルの中しか見えない真っ暗な車窓から、席へと視線を戻す。
地下鉄に乗ってから一時間半近く経った。地下鉄と聞いて、端から端までかかっても三十分程度だと思っていたぼくは、腕時計を確認して驚愕した。そりゃあぐうぐう寝てしまうよね。エドウィンはまだ起きそうにない。
とある市の中を走っているのではなく、国のほぼ全域を走っているのだ。いわばJRが全て地下にあるようなものだ。距離は長いし、時間もかかる。
「どこまで行くんだい?」
新聞を読んでいた男の人が顔を上げた。山羊のような、羊のような人だ。ぼく達のことなんて気にしていないと思っていたから、突然声をかけられてちょっぴり驚いた。
びっくりしたぼくが黙っていると、男の人は新聞を閉じて頭を掻いた。
「ああ、すまないね。獣に話しかけられて驚いたかな」
「……いえ。いえ」
彼の言葉を聞いてぼくはひどく悲しい気持ちになってしまった。
「そんなこと、言わないでください……」
「若い人はあまり気にしないか。ごめんね変なこと言って」
男の人は、あははと笑う。若い人は、か……。
「私はオスカー・ゴートン。商人だ。地下鉄の開業で物流にもいい影響があるだろうからね、視察をしているんだ。君は?」
「ぼくはアレクシス・ハーグリーヴズです。友人の買い物に付き合って西へ行くんです」
オスカーさんは眠っているエドウィンを見る。
「お買い物か。随分遠出するんだね」
「ちょっと特殊な買い物なので」
今日は非番なのだ、王宮騎士であるとは言わなくてもいいだろう。第一、珍しく気を抜いてだらけている今は騎士だと知られない方がいい。寝顔は意外とかわいいんだな。
窓の外が明るくなり、汽車が停まった。駅の周りは明かりが灯っているから明るくていいね。
何分ほど停車するのだろうか、などと考えているとぼく達のコンパートメントに新たな乗客が入って来た。紙のように白い服を着た男の人だ。彼はオスカーさん、ぼく、エドウィンの順に先に乗っている客を見た。空いているオスカーさんの隣を指し示し、同席していいか訊ねる。
「どうぞどうぞ」
「ありがとうございます」
白い服の男の人が座ると、丁度汽車が動き出した。彼は丁寧にぼく達に挨拶をして、手にしていた大きな鞄を床に置いた。
「こうして同席したのも何かの縁。目的地までよろしくお願いしますね」
獣耳は見えない。そして、人間を気にしている様子もない。彼もトランプなのだろう。
「ネルケジエへ向かうんです」
出版社の人間だ、と彼は言う。
「ジョナサン・ペイジ。この本を図書館へ届けにね」
ジョナサンさんは大きな鞄をぽんぽん叩く。この鞄の中にはぎっしりと本が詰まっているのだろう。想像するだけで楽しくなってきてしまう。ただし、英語もといワンダー文字で書かれているからぼくには読めないのだけれど。
ネルケジエは確か南西の国だ。要塞国家ネルケジエ。
「外国の図書館に本を届けに行くんですか?」
「ネルケジエの大図書館に行くんですよ。このキャロリング大陸の全ての本を収めていると言われる、国自慢の図書館にね」
自分の口角が上がったのを感じた。そして、自分が興奮しているということも。ありとあらゆる本があるとは聞いていたけれど、大陸全てときたか。何百、何千、何万の本があるのだろう。おそらく、休憩せずに読み続けても読破することなくこの世を去ることになるだろう。素晴らしい。そんな最期でもぼくは満足だ。
行ってみたいな、ネルケジエ。
ふへへ、へへへへへ。と不審者極まりない笑い声が自分の口から漏れていることに気が付いたのはしばし後だった。オスカーさんとジョナサンさんが若干引き気味にこちらを見ていた。
「へへ……へ……。す、すみません……」
「アレクシス君は本が好きなんですね」
「はい! 大好きです! ネルケジエにもいつか行きたいと思っています」
「うんうん、私も本好きだよ。一枚一枚味わってさ……。いや、読むのももちろんね」
山羊だろうか羊だろうかと考えていたけれど、オスカーさんは山羊のようだ。ぼくが普段使っているノートやコピー用紙のような紙は山羊に与えてはいけないと聞く。ワンダーランドで現在使われている紙には山羊に与えても問題ないものもあるようだね。
「キャロリング大陸の各国の出版社は、新しい本を出したらそれをネルケジエへ運ぶんです。毎回毎回だと大変なので、こうしてまとめて。普通ならば図書館で蔵書を購入するんですが、ネルケジエの大図書館は例外です。あそこには、我々が本を運ばなければなりません。どうして? と訊かれても、昔からそうだったから、としか言えないのですがね」
キャロリング大陸に収まらず、世界各地の本もあるはずだ、とジョナサンさんは言う。ますます楽しくなってきた。
その時、ぼく達の話し声がようやく気になってきたのかエドウィンが身じろぎした。「ファリーネ……」と呟いているので王女様の夢を見ているのかもしれない。
「……ん。……ジャンヌっ」
そこで目を覚ました。王女様かと思ったら今度はジャンヌさんか。エドウィンは目をこすりながら周囲の様子を確認する。乗った時にはいなかったジョナサンさんの姿を見て、僕を見る。
「……寝てたか」
「ぐっすりね」
「……無警戒すぎたな。油断は禁物だ」
ちらりとぼくのダイヤのブローチを見る。大丈夫大丈夫、ボロを出してなんかいないよ。しかし、エドウィンはぼくをじろじろと見ている。もうちょっと信用してよ。
そして、小さく欠伸をするとエドウィンは鞄をごそごそ漁り始めた。すると、かわいらしいリボンでラッピングされた袋が出てきた。「げっ」という声が聞こえた気がする。
「それなあに?」
「腹減ってこないか」
「減ってる」
リボンがほどかれる。袋の中にはマドレーヌが入っていた。
「こんな装飾いらない……」
「どうしたのそれ」
「昨日ファリーネに貰ったんだ。地下鉄で食べるのに丁度いいと思って持ってきた」
王女様からの貰い物だ。王室御用達のお店のものかもしれない。
エドウィンはリボンを雑に鞄に突っ込む。
「『頑張って作ったんだからしっかり味わいなさいよね』と言っていたから味わって食え」
ちょっと待って?
それはつまり、王女様がわざわざ自分の手で作ったということだろう。かわいいラッピングまでしてエドウィンに渡した。もしかしなくても王女様からエドウィンへの贈り物なのではないか。何かしらの思いが込められているのではないか。しかし、本人は全く気が付いていないようだ。こうしてぼくに食べさせようとしている。
ぼくは伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「ぼくが食べてもいいの?」
「……なぜだ? 腹が減っているんだろう、食え」
鈍感だ……。
「ほら」
「……あ、ありがとう」
貰った本人がいいと言っているのだ。説明するのもちょっと違うだろうし、いただこうかな。
ぼくはマドレーヌを手に取る。するとエドウィンは向かいの席に袋を向けた。
「アンタ達もよかったら食べてくれ」
オスカーさんもジョナサンさんもぼくと同じことを思ったのか戸惑った様子だ。しかし、やはり、エドウィンはなぜ二人が困っているのか分かっていない。
「甘いものは嫌いだったか……?」
「い、いやいや。では一ついただくよ」
「ありがとうございます、いただきますね」
王女様お手製のマドレーヌはほんのり甘くて美味しかった。お城の料理人さんに教えてもらったのかな。お店のものみたいに美味しい。
「君はもしかして王宮騎士様なのかい。王女様の名前、だよね?」
「……そうだ。……アンタは山羊だな? こうして地下鉄で長距離移動していることから考えると、ドミノ間の物流を担う商人のオスカー・ゴートンか」
オスカーさんは驚いた様子で目を見開く。山羊である、ということと地下鉄で移動している、ということだけで名前を当ててしまった。ドミノの管理をしているエドウィンだけれど、もしかして国中のドミノの情報を掌握しているのだろうか。
まあまあだな、と言いながらマドレーヌを齧って、オスカーさんの方を向く。
「別にアンタのことを調べているとか、全部のドミノを知っているとか、そういうわけではない。レイヴンから聞いたんだ。コーカスレースの取引相手なのだ、と」
「ヴィノクロフさんから。なるほど」
コーカスレースの恐ろしいほどの物資の収集力の一旦を彼は担っているのか。
袋の中のマドレーヌがなくなった頃に停車した駅で、ジョナサンさんは席を立った。この地下鉄は西へ行くのだ、南西へ行くには乗り換えなければならない。しかも、ネルケジエへ行くには最終的に徒歩もしくは馬車や自動車になるそうだ。国境の近くは地下鉄が走っていないのだという。
「お仕事頑張ってきてくださいね」
「ありがとうございます。あぁ、そうだ。本好きの子に出会ったって司書長に言っておきますね」
「司書長」
「ネルケジエの大図書館を守る不思議な方です。アレクシス君の話を聞いたらきっと喜ぶでしょう」
では、とジョナサンさんは降車していった。
数駅過ぎて、ぼく達の降りる駅に着いた。オスカーさんは終点まで乗るそうだ。
「オスカーさん、お話できて楽しかったです」
「こちらこそ。王宮騎士様、ヴィノクロフさんにはよく会うのかい?」
「そこそこ」
「ではその時に、私がよろしく言っていたと伝えてほしい。次の約束まではしばらくあるから」
エドウィンは頷く。
オスカーさんに礼をして、ぼくはコンパートメントを出た。置いて行かれないように、エドウィンの後ろにぴったりくっついて歩く。乗る人降りる人ホームにいる人駅員さんでごった返していて今にも見失ってしまいそうだ。
「待っ、エドウィン待って!」
「街の西側は職人が多く住む。大きな市場などもあるから利用客が多いんだな」
「ごめん、冷静に解説してるところ申し訳ないけどはぐれそう!」
エドウィンが振り向き、こちらに手を伸ばした。
「ナオユキ、手を――」
ぼくの目の前を大柄な人が通った。
「ナオユキっ」
手が届かない。
緑色の瞳が人ごみに掻き消える。
「ナオユキ! 鍛冶屋だ! 鍛冶屋に来るんだ!」
声が遠くなっていく。
もみくちゃにされながらぼくが駅の外に出た時、そこにエドウィンの姿はなかった。鍛冶屋さんが目的地だ。鍛冶屋さんに辿り着けば合流できるかな。
……というか待っててくれればいいじゃないか。
不安だ。とてつもなく。西側には来たことがない。
「やあ」
声をかけられ、ぼくはそちらを見る。
「そんなにびっくりしなくてもいいんじゃないかな」
銀色のローブが日光を受けて鈍く煌めく。白い髪が風に揺れ、気だるげな青白い瞳がぼくを見ている。
「こんにちは、アレクシス君」
赤黒い汚れの付いたほどけかけの包帯を靡かせながら、ランスロットは微笑んだ。