第百二十九面 見せてやろうと思ってな
汽車に揺られていた。
ボックス席に座るぼくの前には角の生えた男の人が座っている。頭頂部には白い獣の耳。黄色い瞳の中には横に伸びた瞳孔があり、それらの特徴からおそらく山羊か羊だろうと思われる。新聞を読んでいて、ぼくのことは気にしていないようだ。
ぼくの隣にはエドウィンが座っている。腕組みをしながらうつらうつらと船を漕いでいる。
ぼくは車窓を見る。暗い。ぼんやりと明かりが見えるけれど、汽車の外はほぼほぼ真っ暗だった。
――二時間前。
ブリオッシュとスコーンが並んでいる。午前十時のお茶の時間、ぼくはディンブラを一口飲んだ。
夏休みの宿題は大方終わっている。問題集を計画的に進めてきてよかった。夏休みの宿題最大の敵は問題集だ。読書感想文の課題図書一覧とにらめっこしてだいぶ経つけれど、読んで書くのには時間がかからないからゆっくり選ぼう。
ティーカップの中で赤みがかった水色のお茶が揺れる。
「今日も今日とてお茶会か。飽きないのか」
獣道を掻き分けてエドウィンがやって来た。騎士団の制服ではない。黒を基調としたジャケット姿で、緑のクラブのラペルピンが光っている。軍の将校の息子で王宮で働く騎士、カジュアルに見えるけれど質の良さもよく分かる服だ。でも、暑くないのかな。
「阿呆の帽子屋が紅茶を燃料にして動いてるからしゃあねえんだよ」
「誰が阿呆ですって?」
テーブルに突っ伏して眠っているナザリオの前からクッキーを奪い取り、エドウィンはむしゃむしゃと食べ始める。いつものような取っ組み合いを始めんとするニールさんとアーサーさんを見る目は、いつにも増して感情を映していない。右足に重心をかけ、腰の辺りに左手を持ってくる。そして左手は虚空を掴み、勢い余って若干よろめいてしまった。
剣の柄に手を添えて立つのがきっと癖になっているんだろうな。取っ組み合いを始めたチェシャ猫と帽子屋、眠っている眠り鼠、誰も見ていないことを確認したところでぼくと目が合う。無表情がほんの少し動いた。
「ナオユキ、誰にも言うな」
「言わないよ。今日は非番?」
「ああ。……三月ウサギは?」
お見合い騒動とクロヴィスさんのことがあって以来、ルルーさんはお茶会を欠席がちになっていた。そして、エドウィンを避けているように見えた。
不在を告げると、エドウィンは小さく溜め息をついた。
「避けられている、か」
「そう感じる?」
「あぁ……。大方オレがヘイヤのことを調べているからだろう?」
「報告、したんでしょ……?」
エドウィンは答えない。無言のまま、再びナザリオの前のお皿からクッキーを漁り始める。
仕事上の機密情報というやつだろうか。
ヘイヤという名前を聞いた時、すぐに『鏡の国のアリス』の彼を思い浮かべた。だから、クロヴィスさんがヘイヤだと知って驚いたんだ。皆が警戒するクロヴィスさんが、三月ウサギだと知って。ヘイヤは白の王の伝令だ。このワンダーランドでもチェスと関わりがあるという。
「エドウィン、今日はどのような御用で?」
取っ組み合いを終えたアーサーさんが訊ねる。すると、エドウィンはクッキーを漁っていた手を止めてそちらに向き直った。
「西へ行く。鍛冶屋から連絡が入ってな、新しい剣ができたそうだ」
淡々と語る言葉に感情は添えられていない。けれど、ほんの少しだけ口元が笑っているように見えた。クロヴィスさんと対峙した際に愛剣のフランベルジュがへし折れてしまい、人並みの悲しさに打ちひしがれていたからとても嬉しいのだろう。
「ナオユキも一緒に行かないか?」
「はい? なんでぼく?」
「折角だからオマエにも見せてやろうと思ってな。地下鉄を」
地下鉄が走っていたのか。街へはあまり行かないからぼくが知らなくて当然だね。黙って納得していると、エドウィンはちょっぴり興奮した様子でジャケットのポケットからチラシを取り出した。ばしんっ、とテーブルに叩きつける。
チラシには屋根のある場所を走る汽車の絵が描かれていた。絵と一緒に英語で何やら書かれているけれどよく分からない。
「ようやく開業したのですね」
「ジャバウォックが出たとか何とかで遅れてたもんな」
「あぁ。地下鉄の件もアルジャーノン殿下の押し付けでウィルフリッド殿下が任されていたからな。……最初に『作りたい』と言い出したのも、できて一番に乗ってはしゃいでいたのもアルジャーノン殿下だが」
兄に振り回される弟は大変ですね、とアーサーさんが言った。満面の笑みで。すっ、とニールさんが目を逸らす。
「ナオユキ、どうだろうか」
地下鉄か。星夜にはないし、都心に出かけることもないから乗ったことないんだよね。
クッキーだけでは足りなかったのか、エドウィンはぼくの答えを待ちながらナザリオのブリオッシュを頬張っている。一瞬目を覚ましたナザリオが「おれの……」と呟いたけれど、すぐに眠ってしまった。
「うん、行く。ニールさん、アーサーさん、いいですか行っても。エドウィンが一緒だし」
「夜までには帰って来るのですよ」
「どんなだったか後で聞かせろよ。俺達はたぶん乗れねえから」
じゃあ行くぞ、とエドウィンは踵を返してすたすたと行ってしまった。ぼくは残っていた紅茶を飲み干し、スコーンを口に突っ込む。そして、獣道の向こうへ消えてしまったエドウィンを追って席を立つ。いってらっしゃいと見送る声に手を振りながら、茂みへ飛び込んだ。
草を掻き分けて進んでいくと、すぐに追いついた。なぜならエドウィンは立ち止まっていたからである。待っていてくれたのだろう。基本的に相手に対して無関心だけれど、根は優しいよね。
ぼくに気が付くと、手にしていた懐中時計をポケットにしまった。ちらりと見えた時計、その蓋の部分にはピンク色のハートが描かれていた。随分とファンシーだな……。
「かわいい時計だね」
ぼくが言うと、エドウィンは目を伏せた。元々ぼくを見下ろしているから下を見てはいるのだけれど、更に伏せた感じだ。
「オレには似合わない、か?」
「そんなことないけど……」
緑色の瞳がぼくを見る。何の感情も感じられない、無だ。もはや心というものを失ってしまったかのような無表情がぼくに向けられている。酷い言い方だけれど、それがぼくの目の前にいる青年を表現するのにぴったりすぎる例えなのだ。先程のような優しさは本当に、本当に……無の奥に垣間見ることしかできない。
……あれ?
「エドウィンの左目って」
はっとして、エドウィンは手で左目を抑える。緑の中に一瞬赤が見えた気がしたけれど、気のせいだろうか。
「……行くぞ」
エドウィンが街に向かって歩き出す。置いて行かれては困る、ぼくはすぐに後を追った。
石やレンガでできた建物の間を進んでいくと、地下へ続く階段が姿を現した。獣の多いぶたのしっぽ商店街と違い、周りを歩いているのは人間ばかりだ。ドミノの姿がないと、テレビで見たイギリスの風景そのままと言ってもいいくらいの風景だな。
ぼくは着ているTシャツの裾を掴む。街へ出るのだったらこの格好は不釣り合いだったかもしれない。せめてYシャツを着ていた方がよかったかも。
シャツを睨みつけていると、肩にジャケットが掛けられた。緑のクラブのラペルピンが光る。
「え」
「その格好は目立つ。羽織ってろ」
ベスト姿のエドウィンが告げる。ぼくはラペルピンを外して彼に渡し、黄色いダイヤのブローチをTシャツから付け直した。ベストのポケットにラペルピンを付けると、エドウィンは階段を降り始めた。
身長差は二十センチほどある。長く余った袖を振りながら、ぼくは地下空間へと踏み込んだ。
切符を購入してホームへ向かう。
「わぁ」
そこに広がっていたのは大きな大きなトンネルだった。トンネルの端から端へと線路が伸びている。
ホームにいるのは時間を確認している人や路線図を確認している人、ぼんやりとトンネルの奥を見ている人など様々だ。少しだけれどドミノもいるみたいだな。ただ、トランプの客から向けられている視線は厳しいものだ。
エドウィンが懐中時計を見る。
「そろそろだな」
トンネルの暗闇から、がたんごとんという音が近付いてきた。




