第百二十八面 また少し、前に進めたかな
グランピング二日目。ぼく達は波に揺られている。
「酔った……」
カヌー体験を楽しんでいるはずだった。昨夜のことをすっかり忘れてしまったかのように、なかったことにしようとしているかのように、伊織さんはいたっていつも通りだった。朝食のホットケーキをにこにこ焼いていたし、カヌーを漕ぎ始めた時も楽しそうだった。
水面近くを泳ぐ魚や、浮かんでいる鴨、岸辺に生える草花を眺めながら進んでいた。途中までは。
「ゆらゆらする……。気持ち悪い……」
「待ってお兄ちゃん! パドル! パドルから手を離さないで!」
「くるくるする……」
妹の叫びに応え、伊織さんはパドルを握りしめたまま俯いている。後ろに乗る寺園さんは気が気でない様子だ。
前方のカヌーから亀倉さんの「大丈夫ですかー!」と心配する声が飛んできた。亀倉さんと同乗しているガイドさんも焦っているように見える。ぼくと先輩は手を振って無事を合図する。無事ではあるのだ、一応。
軽くぼくの方を振り向いて、先輩は前方を指し示す。亀倉さんのカヌーから少し離れたところにブイがぷかぷか浮かんでいる。折り返し地点だ。
「寺園さんは待機。ぼく達は先にぐるりと回って岸に戻ろう。事務所の人に助けてもらった方がいい」
「大丈夫! 大丈夫だから……」
伊織さんがパドルを強く握った。
「僕は保護者として同行したんだ。それなのに迷惑ばかりかけて……。平気、大丈夫、問題ないから」
パドルをカヌーの上にしっかり載せて手を離す。何をするのかと思ったら、ライフジャケットの隙間に手を突っ込んで服のポケットから細長いものを取り出した。
簪だ。水色と黄緑色の花柄の玉が付いている。
ポニーテールにしていた髪に簪を突き刺し、ぐるぐるとまとめる。店先にいた時の髪型だ。伊織さんは小さく頷くとパドルを握った。
「行ける。行こう」
「お兄ちゃん、無理はしないでね」
「ありがとう、つぐみちゃん。大丈夫だよ」
そうしてぼく達は改めて出発をした。湖面を撫でる風は冷たくて気持ちいい。
ガイドさんに確認をとった亀倉さんは、水を手でぱちゃぱちゃとやって楽しそうである。そのまま放っておいたら飛び込んで泳ぎ出しそうだ。『浦島太郎』が好きと言っていたし、名前の通り亀……いや、乙姫みたいだな。水の中でも平気そう。
「泳いだら気持ちいいですかね」
「遊泳禁止なんですよー」
本当に泳ぐつもりだったらしくガイドさんに止められている。
「亀倉さんは浦島太郎?」
先輩がぼくを振り向きながら言った。
「君がアリスでぼくがルーシィなら、亀倉さんは浦島太郎かな」
「乙姫じゃないですかね」
水をぱちゃぱちゃとやっていた乙姫様が顔を上げてこちらを見た。
「わたしが乙姫? というか、先輩と神山君がルーシィとアリスってどういうことですか? ……あれ。アリス……。アリスって、確か、クラスの子が……」
「待っ……。か、亀倉さんっ! その話は陸に上がってからにしよう」
慌てるぼくに不思議がる視線が突き刺さる。
やはり聞いてはいたのだ。それが誰なのかは分からなくとも、学校で「アリス」と呼ばれる生徒がいるということを。
カヌーを返却し、ぼく達はテントに戻る。
「アリスって、クラスの男子が話しているのを聞いたことがあるの。『アリスちゃんが学校に来てるぜ』って」
倒れそう。
「あれって神山君のことなの?」
具合悪くなりそう。
「いいね、素敵。お話の主役と同じ名前」
「あ、あぁ……。あり、がとう……」
亀倉さんは優しい笑顔だ。ぼくを馬鹿にしているわけではなく、純粋に「いいなあ」と思っているのだろう。寺園さんも興味深そうにこちらを見ている。対して、先輩はぼくのことを心配するような目をしていた。
先輩がルーシィ、ぼくがアリスだ。という話をした時に、ぼくはからかわれると言った。先輩は詮索してこなかったけれど、ぼくの様子やしばしば図書室に付いてくる璃紗と琉衣を見て薄々察しているのだと思う。
「ごめん、神山君。不用意に話を振ったボクが悪かった」
「いえ……」
「神山先輩! わたしは何ですか? 楽しいですね、なんだか図書局のコードネームみたいで!」
寺園さんの目が輝いている。とても眩しい。純粋無垢な子供の眼差しだ。見つめられていると苦しい。
ぼくと寺園さんの間に先輩が割って入った。
「そうだね、クララ……いや、マリーとかは? クルミ割り人形がお店にあったよね」
「クルミ割り人形好きです!」
「つぐみちゃんはドロッセルだよ。ドロッセルマイヤー」
黙って様子を見ていた伊織さんは言う。ドロッセルマイヤーは、『クルミ割り人形とネズミの王様』で主人公のマリーにクルミ割り人形をプレゼントするおじさんの名前だ。
おじさんの名前を言われて寺園さんは少し不服そうだ。しかし、伊織さんは妹にその名を与えることは至極当然であるというように穏やかに微笑んでいる。
「だって鶫はドイツ語でドロッセルだろう」
「んあ。そ、そうか……。じゃあお兄ちゃんは? お兄ちゃんは、何?」
訊かれて、伊織さんは視線を伏せた。しばしの沈黙の後で空を見上げる。つられて見上げると、青い空にもくもくとした白い雲が浮かんでいた。
「僕は……。僕はかぐや姫……」
長い髪が風に靡いている。
「かぐや姫だよ、僕は……」
夜からかぐや姫の話ばかりだ。そんなにかぐや姫が好きなのだろうか。しかし、月を見ると悲しいと言っていた。今も悲しそうな目をしている。そんな兄のことを寺園さんは不安そうに見ていた。
寺園兄妹には少し不思議なところがある。何か隠しているように見えてしかたがない。今までは気のせいかなと思っていたけれど、夜の伊織さんの言葉が決め手だった。彼の言うヤマトがもしもぼくの知るヤマトさんだったら。もしもそうなら、そんな伊織さんの妹である寺園さんのことも気になってくる。
「かぐや姫……って、伊織さんどこかに帰るんですか? 月に?」
「例え話だろう? ……鬼丸君と神山君だって異世界に行くわけじゃないでしょ」
そしてこの先輩の伊織さんへの当たりのきつさも非常に気になる。憧れの人形職人に会えて嬉しくてテンションが上がっていると言っていたけれど、それでどうしてこの態度なのか。
伊織さんは困ったように先輩を見ている。対して先輩は探るような目をしていた。
「キャラクターの名前を当てはめると、なんだか絵本の登場人物になったみたいで楽しいですね!」
楽しいと思えるんだ、彼女は。ぼくと違って。羨ましいなと思うようなことはないけれど、ほんの少しだけ、いいなと思ってしまった。
◇
グラスの中でアイスティーが揺れている。
「楽しかったです」
「よかったですね」
グランピングから帰還して数日。ぼくはワンダーランドを訪れていた。
向かいのソファにはアーサーさんが座っている。怪しげな薬を盛られて眠り姫のようになっていたけれど、ぼくが出かけている間に目覚めたらしい。あの後丸一日眠っていて、その後数日は日中もずっと眠かったそうだ。
ふあぁ、と欠伸をしてアーサーさんは目を擦る。まだ眠いようだ。
「また少し、前に進めたかなって」
「アリス君の進む先にいいことがたくさんありますように」
「ありがとうございます」
アイスティーの中に浮かんでいた氷がカランと音を立てて動いた。それとほぼ同じタイミングでルルーさんがキッチンから出てきた。手にしたお皿の上には焼き立てのクッキーが並んでいる。今日のお茶会はこの三人だ。ニールさんは公爵夫人のところへ行っていて、ナザリオは家で爆睡しているそうだ。
ココア生地の練り込まれたマーブル模様のクッキーを手に取る。ほんのりと温かい。
「あの後、イグナートさんは大丈夫だったんですか?」
優雅な動作でお茶を飲んでいたアーサーさんが手を止めた。猫が彫り込まれた木製のコースターにグラスを置く。
「私も眠っていたので詳細は分からないのですが……。馬鹿猫曰く、次の日のはけろりとしていたそうですよ。しかし、まさか薬を盛られるとは思いませんでしたね……。どうして、そんなこと……」
「覚えてないって言ってるんでしょー? 変だよねー」
あの時のイグナートさんはまるで別人のようだった。言った方がいいのかもしれない。けれど、もう一人のイグナートさんと思しき人に本人に言うなと言われている。他の人にも言わない方がいいのかな。
手にしたグラスを見下ろしていると、着ているTシャツにプリントされたイルカと目が合った。まだまだこのTシャツで過ごすことのできる季節は続く。図書局のみんなとのお出掛けは楽しかったけれど、残りの夏休みを安泰に過ごせる気はあまりしなかった。
ルルーさんとクロヴィスさんのこと、先輩と伊織さんとヤマトさんのこと、そしてイグナートさんのこと。気になること、不穏なことが盛りだくさんだ。
このページを捲るのが怖いと、そう思ってしまう自分がどこかにいた。




