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アリス少年と鏡ノ空間  作者: 月城こと葉
十七冊目 ドール・ドリーム
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第百二十七面 月を見るたびに悲しくなる

 目が覚めてしまった。枕元の腕時計を見てみると午前二時だ。


 隣のベッドでは鬼丸先輩が寝息を立てていた。眼鏡を外している姿は温泉で見たけれど、寝ているとこういう感じなのか。仰々しい名前に反して穏やかな人だよな、と思う。ぼくは寝返りを打つ。反対隣のベッドでは伊織さんが……。


 伊織さんがいない。


 先輩を起こさないようにしつつ、ぼくは起き上がった。広いテントのどこにも姿が見当たらない。トイレかな。


「今は昔、竹取の翁という者ありけり……」


 風に木々が揺れる音に混じって、声が聞こえてきた。


「野山にまじりて竹を取りつつ、よろずのことに使いけり……」


 この声は伊織さんだ。


「名をば、さぬきの造となん言いける……」


 『竹取物語』……。


 ぼくは立ち上がってテントの外に出る。傾いた月の明かりが湖に落ちているのが見えた。しかしテーブルの周辺に人影は見当たらず、折り畳まれた望遠鏡が立てかけてあるだけだった。夏の生温い夜風がぼくの顔を撫でていく。


 姿は見えないのに声だけが聞こえていた。おじいさんがかぐや姫を見付ける。どこから聞こえてくるのだろうか。


 地上に見当たらないのであれば、上か。


 木に近付こうとして一歩踏み出したぼくは枝を踏みつけてしまったらしく、足元でぱきっという小さな音が鳴った。『竹取物語』の暗唱がそこで途切れる。まるで誰かに聞かれては困るというように、沈黙が訪れた。


 木が揺れる音。夜通し盛り上がっている宴会の声。虫の鳴き声。湖が波打つ音。それらが森全体や少し離れたところから聞こえているけれど、ぼくの周囲は静かだった。


 ぼくは近くの木を見上げる。


 葉や枝の間で長い黒髪が揺れていた。シュシュを彩る蝶の柄は、まるで羽ばたいているように見える。青みを帯びた瞳がぼくを見下ろしているが、それは左目だけのようだ。風で舞った髪が右目を覆い隠している。


「まだ起きてたんですか」


 声をかけていいのだろうか。躊躇わせるような空気を纏っていた。ぼくは絞り出した声で問いかける。


 太い枝に腰かける伊織さんはビールの缶を持っていた。ずっと飲んでいたというわけではないだろう。おそらく。


 ぼくを見下ろしている目がすぅっと細められた。


「目、覚めたの」

「あ……。はい」


 ひらり。という表現がぴったりな軽やかな動作で伊織さんが木から下りてきた。乱れた髪を直しながら歩み寄ってくる。


「ねえ、神山君」


 右手にビール。左手は髪を押さえている。


「ここではない場所って、あると思う?」

「……えっ」


 この質問を前にも聞いたことがある。寺園人形店を訪れた際、帰り際に訊かれた。その時ははぐらかされてしまったけれど。しかし、最初に聞いたのはそれよりも前だ。木の根元の地面をくりぬいた、蝿が営むパブ。その奥の居住スペースで、夜風に翅を揺らしながら彼は訊いてきたのだ。


「それって、例えば?」

「異世界。アリスが迷い込んだ不思議の国だったり、ルーシィが冒険したナルニア国だったり、マリーもしくはクララが辿り着いた人形の国だったり。浦島太郎が過ごした竜宮城も広義ではそうなるかな」


 別の人から同じ質問をされる、ということ自体はおかしなことではない。しかし、その人達がそっくりな姿をしていたらどうだろう。「ここではない場所」、前にぼくにこの質問をしたのはヤマトさんだ。


 伊織さんはぼくの返事を待っている。本当に、よく似ている……。


「あったら楽しいだろうな、とは思います。本の中の世界は面白いから」

「そう」


 空になったらしいビールの缶をテーブルに置く。


「そうか、そうか、つまり君は……」


 一段と強い風が吹いた。木々が唸り、テントがばたばたと音を立てる。湖面が波打っているのが見えた。


「僕と同じだね」


 日本人離れした青い瞳が不気味に煌めく。


「僕も好きなんだ、異郷訪問譚。じゃあ、かぐや姫が帰って行った月は?」

「月? ですか? んー。宇宙は同じ世界だと思います。宇宙人がいたら、その人達は同じ世界の人であって異世界人ではないと」

「なるほどね」


 伊織さんは月を見上げる。横顔もやはりヤマトさんにそっくりだ。十五夜を待つかぐや姫のように、憂いを帯びた目をしている。


 寺園人形店のショーウインドウにはかぐや姫を模した人形が置かれていた。かぐや姫、好きなのかな。


「……かぐや姫を読んでから、月を見るたびに悲しくなるようになってしまった。でも、元々月が好きなんだ。だから見ていたいのだけれど、悲しくなってしまう。困ったね」


 そう言いながら伊織さんは右手首をさすった。湿布やサポーターはしていないけれど、まだ少し痛むのだろう。


 ぼくも月を見上げる。今日は満月ではない。しかし月光は辺りを照らすのに十分な明るさだし、欠けた月にもその美しさがある。


「帰りたいのか、帰りたくないのか……」


 ぼくに聞かせている訳ではなさそうな、小さな呟きが聞こえてきた。そして、溜息。


 聞こえていないふりをしてぼんやり月を見ていると、大きな欠伸が出た。


「眠れそう?」

「そう、ですね……。伊織さんは寝ないんですか」

「……寝るよ。そろそろ眠い」


 眠くならなかったらずっと起きてるつもりなのだろうか。顔に出ていたらしく、伊織さんはくすりと笑った。


「さすがに徹夜はしないよ。人形作ってるわけじゃあないし」


 作業中は徹夜するんだな。


 風に舞う髪を押さえて伊織さんはテントの方を向く。その時、ぼく達の目の前を蝶が飛んでいった。


「小さな揺らぎはいずれ積み重なり連鎖を起こし、大きな歪みになるかもしれない」


 細い指が蝶へ伸ばされた。月光の下、麗しいと言って差支えのなさそうな容姿をした長髪の青年が美しい蝶へ手を伸ばす。まるで絵画のようだ。美術に詳しいわけではないので具体的にどのような部分がよいのか、ということは言えないけれど、美術館に飾ってあったらぼくはしばらくこの絵の前で立ち止まるだろう。


 指先が翅に触れる、その直前に手が下ろされた。いや、落ちたという表現の方が適切なのかもしれない。なんだか神秘的にも見えてきたな、と思いながら様子を見ていたぼくの目の前で動きが止まってしまった。重力に従って降りた腕。そして、大きく傾ぐ上半身。


「伊織さん……!?」


 電源の切られたロボットのように、糸の切れた操り人形のように、翅を失った蝶のように、人形職人は地面に倒れた。


「えっ、だ、大丈夫ですか……。大丈夫じゃないですよね……。え、あ、どうしよう……。いっ、伊織さんっ!」


 ぼくは屈んで肩を揺する。しかし、反応はない。


 こんな時間にみんなを起こしてしまっていいのだろうか。緊急事態ではあるけれど、真夜中なんだよな。だからといってここに放置するわけにもいかない。先輩に助けを求めてひとまずテントに運ぶとしよう。


 テントへ向かおうと右足を踏み出す。が、次の一歩を踏み出せない。自分の喉の奥から声にならない悲鳴が漏れたのがよく分かった。ぼくの左足は言うことを聞いてくれない。なぜなら、何かに掴まれているからである。


 夏の夜。真夜中。背筋がびりびりとして全身に危険信号を伝える。怖くてどうしようもない。動けない。このまま謎の手に引っ張られ、ぼくは地面の中に引きずり込まれるのかもしれない。恐怖心が声を出すことすら妨害してきた。今のぼくの口から発せられているのは言葉ではなくて音だ。ただの音。謎の手を威嚇することはもちろん、誰かに助けを求めることすらできない。


 目を回しそうになりながら口をぱくぱくさせていると、足元から声が聞こえてきた。


「い、や……。やだよぅ……」


 小さな子供のような話し方。けれど、この声は伊織さんだ。ぼくの足を掴んでいるのはおばけではなくて彼なのかもしれない。しかし怖いのでまだ確認できない。


「一人じゃ……。ん……」


 ぼくの足を掴んでいた手が緩められる。


「一緒、に……。……ね」


 昔のことを夢に見ているのだろうか。眠っているだけで大事はなさそうかな。ぼくは体の向きを変えて手を振り解く。


「テントに戻りましょう、伊織さ――」

「ヤマ、ト……」


 耳を疑った。今何と言った。


「嫌だっ、ヤマト……っ!!」


 がばっ、という効果音が実際に鳴っているのではないだろうかという勢いで伊織さんが起き上がった。切れ長の目が見開かれ、周囲を窺うように視線が彷徨う。焦りや恐怖に似た表情が浮かんでいたけれど、ぼくのことを視界に捉えるとほっとした顔になった。ゆるりと立ち上がり、服に付いた土を払う。


「あの……」

「驚かせてしまったかな……。ごめんね。確か、初めて会った時も僕が倒れていた時だったね。疲れやすいし、貧血だし、眠いし、意識飛ぶし、手首も痛いし、散々なんだけどもう慣れたし……」

「あの、ヤマトって誰ですか」


 とても恐ろしいことを訊かれた、と言わんばかりに表情が激しく揺れ動いた。


 ヤマト、大和、倭。どこにでもいる名前である。名字ということもあるかもしれない。人形店の常連さんかもしれない、友達にいるのかもしれない、行きつけの美容師さんかもしれない。それとも、それとも、それとも。


 しかし伊織さんの動揺っぷりはある種異常とも言えるレベルだった。見るからに狼狽え、困惑している。


 ぼくは彼から目を逸らさない。ここで引いてはいけない、そう思った。答えを待たなければ。答えてもらわなければ。


 そうしないと、ぼくは前のページを見返すばかりで次のページへ進めない。


「伊織さん」

「……あ。……えーと。……あのね」


 顔にかかった髪をかきあげる。


「思い出せないんだ……。それが、誰なのか。夢の中に現れる彼の顔も声も、名前を呼んで手を伸ばしたら遥か彼方へ消えてしまう。ついさっきまで、彼もこちらに手を伸ばしていたのに……」


 根元側から毛先側へ、手が髪を滑っていく。シュシュが外されて長い髪が宙に舞った。絹織物が広げられるとこのような感じになるのだろうな。


「いや、覚えている。覚えているはずなんだ。だって、だってヤマトは……っ! 誰……なんだっ、け……」


 シュシュを指先からぶら下げて、伊織さんはテントの方へ歩いていく。ぼくは後を追った。ふらふらと覚束ない足取りで進んでいった伊織さんは勢いよくベッドに倒れ込む。ぼすんっ、という音と共に髪が舞い上がり、そしてふんわりと体に下りていった。


 ぼくも寝よう。


「神山君。伊織さんと何の話してたの」


 布団に入ると、先輩に声をかけられた。いつから起きていたのだろう。


「話し声が聞こえてね」

「ちょっと、色々です」

「ふぅん。……おやすみ」

「おやすみなさい」


 先輩は寝返りを打ってぼくに背を向ける。もう寝てしまったのか、狸寝入りをしているのかは分からないけれど、規則正しい寝息が聞こえてきた。


 ぼくは仰向けになる。


 すぅすぅという音の反対側からは、うなされているような声が聞こえていた。







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