第百二十五面 思い出してしまったのかもしれない
生い茂る木々の隙間から夏の日差しが地面に落ちている。木漏れ日、とは綺麗な言葉だと思う。
真晝湖周辺の森は散策コースが整備されていて、地元の小中学生が校外学習で訪れることも多いのだという。整備されているといっても舗装されている訳ではないし、歩く時に危険ではない部分に関してはほぼ自然のままだ。
ガイドさんが説明を終えて振り向く。
「木の間から湖が見えるでしょう」
結構歩いてきたんだな。意外と遠くに見える。
「さあ、もう少し登りますよ」
「……神山君、大丈夫?」
ガイドさんに続こうとして、亀倉さんに呼び止められた。貝殻を模した髪飾りが光っている。
「えっ……?」
「ちょっと疲れてるみたいだから。……神山君もしかして体弱いの。一年生の時ずっと休んでたんだよね?」
「ずっとじゃないし、体弱いのは幼馴染の方だから……。体力はあまりないけど」
やはり知っていたか、ぼくが休んでいたことを。しかし、その理由までは知らないようだ。それとも、知っているのに言わないのか……。
亀倉さんは黙っているぼくを見てちょっぴり小首を傾げた。そして、へらっと笑う。
「そんなに見つめられても困るよー」
「え」
「いやいや、冗談冗談。……ちょっと休憩する?」
「……そうだね」
ぼくは後方を見遣る。亀倉さんも後ろを見て、そして前方を行くガイドさんと鬼丸先輩の方へ「ちょっと待ってくださーい」と言いながら向かっていった。
先輩に色々と質問されていたガイドさんは嬉しそうに解説しながらずんずん進んでしまっていたので、ごめんねというジェスチャーをして見せた。
休憩が必要なのはぼくではない。ぼくも疲れているけれど、彼ほどではない。
「お兄ちゃん」
「ごめん……」
近くの木の根本に伊織さんが座っている。顔にタオルを押し当てて、肩で息をしていた。
「だからお兄ちゃんはテントで待っててって言ったのに」
「森……いいじゃないか……。インスピレーションが……沸くでしょ……」
「森ガール? みたいなお人形作るの?」
服には拘りたいよね。と言い、伊織さんは汗を拭って立ち上がった。見るからに疲れきっている。普段ずっと室内で人形を触っているから、あまり運動はしないのだろう。体力がないというだけなら休憩しつつ行けばいいけれど、ぼくは心配でならなかった。初めて伊織さんに会った時、彼は道に倒れていたのだ。もっと深刻な体の事情があるのかもしれない。
ガイドさんが戻ってきて声をかける。
「あのぅ」
「……キャンプ場に戻ってます。子供達のことよろしくお願いします……」
「一人で戻れます?」
「ゆっくり行きますから……」
タオルを手に、三つ編みを揺らしながら伊織さんは散策路を下っていった。寺園さんは思い詰めた様子で兄の後ろ姿を見送っている。そして振り返ると、胡乱げな顔をしている先輩と目が合った。
休みながら行きましょうね。というガイドさんの声にぼく達は頷く。
……伊織さん大丈夫かな。
ペットボトルを開けて水分補給をしていると、寺園さんが近寄ってきた。
「すみません神山先輩、お兄ちゃんが迷惑かけて」
「なんか、その、失礼なこと訊いちゃうけど病気か何かなの……? 倒れてたこともあるし」
寺園さんは首を横に振る。
「いえ、お兄ちゃんは……。ん。なんでもないです」
お兄ちゃんは何なんだ。とても気になる。そしてものすごく先輩の視線を感じる。
「……疲れやすいだけです」
「そうなの?」
「そう、です」
ぼくが人を見下ろすということはほとんどない。悲しいけれど自分の背の低さは自覚している。そんなぼくよりも小柄な寺園さんは、上目遣いにぼくを見てすぐに目を逸らした。サイドアップにされている髪が揺れる。
生まれてしまった沈黙を掻き消すように、ざわざわと木々が音を立てた。ひらりと舞う葉っぱの向こうで寺園さんは小さく口を開く。何か呟いたようだったけれどぼくには聞き取れなかった。目で追ってしまったのは彼女の口の動きではなくて、彼女が向けていた視線の先。青い色の翅を光らせる蝶が飛んでいた。
綺麗な青い蝶だ。
馬鹿でかいきのこに腰かけて、煙管をぷかりぷかりと燻らせている姿が脳裏に浮かぶ。長い前髪で隠された顔の右半分にどのような表情が浮かんでいるのかは窺い知れない。怪しい、いや、妖しいと形容してもいいかもしれない。ワンダーランドにいるには場違いな格好の、妖しい青年。
ぼくは寺園さんに視線を戻す。彼女はまだ蝶を眺めているようだった。
「……あの、寺園さん」
「は、はい。何ですか」
「伊織さんが髪に留めてたのって、蛾だよね。珍しいなと思って」
ぼくの質問に対して明らかに動揺しているようだった。泳ぎ始めた目が下を向き、半歩後退る。
「気持ち悪い、ですよね……。アクセサリーとして売られていたものなので綺麗なデザインだなとはわたしも思うんですけど、でも、蛾ってちょっと……。やっぱり気持ち悪いですよね。ですよね。です、ね……」
そこまでは言ってないんだけど。
「神山君、寺園さん、そろそろ行くよ」
木漏れ日の中に一筋だけ氷が刺さったようだった。振り向くと、自らを白い魔女にしてしまったような鬼丸先輩が冷ややかにこちらを見ていた。ぼく達が完全にそちらを向いたのを確認するといつものように優しく笑う。けれど、眼鏡のレンズが反射していて目元はよく分からなかった。亀倉さんがのほほんとした雰囲気で手招きをしている。
「行こうか」
「はい」
図書局のみんなで夏休みを楽しく過ごそうという予定だったのに、なぜだかぼく達の間には何とも言えない微妙な空気が流れていた。それは伊織さんを中心に渦巻いているようで、彼が動くとそれに合わせて寺園さんと先輩の様子がころころと変わる。ぼくはどうやらその渦巻きに足を突っ込んでいるらしく、亀倉さんは少し離れたところから傍観しているようだった。
友達とはどのようなものなのだろうか。
ぼく達は友達なのか。同じ中学校の生徒で同じ外局に所属しているぼく達は友達なのだろうか。学校の関係者のことを友達だと考えたことがなかった。今、ぼくは誰と出掛けているのだろう。仕事仲間なのだろうか。同じ仕事をしているだけの、ただの知り合い。ぼく達の間には守るべき、いや、崩れるような絆なんてそもそもないと考えた方がいいのかな。ざわざわとするこの嫌な感覚も、ぼく達が友達ではないから。学校の外に出てしまったらぼく達は無関係だ。他人といるから心穏やかでいられないのか。
そうなのかな……。
おそらく、今ぼく達はそれぞれ別の本を開いている。本当は机に広げた本をみんなで囲んでいるべきなのに。
人混みの中に紛れ込んでしまった赤白ボーダーの男を探すように、一冊の本を楽しむことができればいいのだけれど。
鳥の囀りが聞こえている。みんなに置いて行かれないようにぼくは歩き出した。
散策を終えてテントに戻ると、伊織さんがスケッチブックを手に湖を眺めていた。ぼく達が戻ってきたことには気が付いていないらしく、背を向けたままだ。ちらりと見えたスケッチブックには女の子の絵が描かれていた気がする。
「お兄ちゃん」
寺園さんの呼びかけに振り返る。動きに合わせて三つ編みが揺れた。
「ああ、お帰り。どうだった? 鳥とか動物とか、色々見られた?」
「うん。鳥さんかわいかった」
「それはよかっ……」
にこにこと妹の話を聞いていた伊織さんの顔が微妙に歪んだ。鉛筆をスケッチブックと同じ左手に持ち替えて、右手で頭を押さえる。
「お兄ちゃんっ」
「大丈夫……。大丈夫だよ、つぐみちゃん」
よろめきながら近くのベンチに腰を下ろす。頭が痛いのだろうか。
「水でも飲みますか」
先輩がリュックからペットボトルを手に取って差し出す。未開封だから、と言って渡されたボトルを受け取り伊織さんは水を口に含んだ。
「似ていたから、思い出してしまったのかもしれない……」
「何をです? 伊織さん、何か森に思い出でも?」
「……いい思い出ではないけれどね」
探るような先輩の視線を振り払い、伊織さんはふらふらと立ち上がった。ペットボトルをベンチに置き、スケッチブックを手に再び絵を描き始める。その様子を少し眺めてから先輩はテントに入って行った。寺園さんは不安そうに兄を見ている。
木々の間を吹き抜ける風に揺らされて三つ編みに留まる蛾が翅を光らせた。風で舞う髪を押さえながら亀倉さんが伊織さんに歩み寄った。ぼくも一緒に。
「あのぅ、寺園さんのお兄さん。何描いてるんですか?」
「お兄ちゃんはデザインを考えてるんです」
スケッチブックには湖畔に佇む女の子が描かれている。体のラインが分かるようなぴたっとしたドレスを纏う少女。すらりと伸びた手足の関節部分には丸い形に線が引かれていた。
「お人形?」
「お兄ちゃんは人形職人なんです。本体だけじゃなくて、ドレスのデザインも自分で考えることが多いんですよ」
「へえ。……なんか、うん、乙姫様みたい」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいな。人魚姫と言われるかと思ったけれど」
亀倉さんの貝殻の髪飾りが煌めく。
「わたし、『浦島太郎』が好きなんです。というか、日本の御伽話に興味があって」
図書局員の中で交流があるのは鬼丸先輩と寺園さんくらいだったから、亀倉さんの本の好みを聞くのは初めてだった。先輩が好きなジャンルは時間や世界を超えるSFやファンタジー。寺園さんが好きなジャンルは日常に不思議が潜むローファンタジー。そして、亀倉さんは日本の昔話が好きなのか。
どんな本が好きなのか。それが分かればぼくから話を振ることができる。いい情報を手に入れた。
夜ご飯を食べながら少し話をしようかな。そう考えながら、ぼくは寺園さんと亀倉さんと一緒に伊織さんの描いている絵を見守っていた。




