第百二十四面 テンション上がってヤバいです
夏休みが始まって数日が経った。
バスに揺られながら車窓を眺めていると、次第に緑が多くなっていくのが分かる。ペットボトルの紅茶に蓋をしてボトルホルダーに載せ、ぼくはシートに凭れた。
「神山君、ちょっと眠い?」
通路側に座っている鬼丸先輩がそう訊いてきた。先輩の手には閉じられた本がある。こちらからは裏表紙しか見えていないため、それが一体何の本なのかは分からない。あらすじは先輩の指で隠れている。
「そう見えます?」
「あれ、当たってた? 訊いてみただけだったんだけど」
「でかけるの楽しみだなあって思っていたら目が冴えてしまって、眠くなるまで本でも読もうとしたんですよ。気が付いたら朝になっていました……」
先輩はくすくす笑った。眼鏡のブリッジを押し上げ、両手で持っていた本を左手に持ち変える。
「分かる。分かるよ、ボクもたまにそれやらかすから。読めば読むほど止まらなくなるから困ったものだよね」
「本を読んで眠くなれる人が羨ましいです。……先輩、バスの中で読んでて酔わないんですか」
「平気だよ」
「何読んでるんです?」
ぼくが訊ねると、先輩は本の表紙を見せてくれた。『アーサー王宮廷のヤンキー』。図書室で初めて会った時にもこの本を持っていた。あれは図書室の本だったけれど、今持っているものには図書のシールが貼られていない。先輩の私物なのだろう。
図書館や学校の図書室で借りた本の中で特に気に入ったものを本屋さんで買うことがある。先輩もきっとそうだ。
「気に入ったんですか?」
「うん。好きなんだよね、異世界へ行ったり、時代を越えたりする物語が」
開かれたページにはステンドグラスを模した栞が挟まっていた。オレンジ色と黄色で描かれているのはライオンだろうか。おそらく、アスラン。日光を受けてページにカラフルな影が落ちている。
先輩の指が栞の縁を撫でた。
「キャンプ場まではまだかかる。着いたら起こしてあげるから休んでていいよ」
ぼくは改めてシートに凭れた。軽く振り向き、シートの隙間から後ろの席を見る。シートを倒していいかと訊こうとしたのだけれど、寺園さんと伊織さんは寄り添って眠っていた。首の辺りから三つ編みになっている伊織さんの髪は、その状態でも十分な長さを保っている。括っているのは蝶の飾りの付いたリボン。……いや、あれは蝶ではない。ふんわりと広がった触覚。あれは、蛾だ。
気配を感じ取ったのか、伊織さんが薄く目を開けた。ぼんやりとぼくを見た動きに合わせて髪を纏めている蛾が揺れる。
「あの、リクライニングしてもいいですか」
「……あぁ、いいよ」
気だるげな空気を纏っていると、一層ヤマトさんに雰囲気が似てくる。寝起きでやや目付きが悪いところがよりそれを強めているようにも見えた。
「何か?」
「いえ……。あの、じゃあ、椅子倒しますね……」
先輩に肩を揺さ振られて、ぼくは目を覚ました。先輩の持った本は先程よりも後ろのページに栞を咥えていた。
「着いたよ」
後ろの席では寺園さんが兄に声をかけている。
「お兄ちゃん、起きて」
そして、寺園さんは通路を挟んだ席にも声をかけた。
「亀倉先輩も起きてください」
「起きてるよー」
寺園さんを女子一人ぼっちにしないために先輩が声をかけたのは亀倉さんだった。特に予定はないからいいよー、とのことだったけれど、本当によかったのかな。じっと見ていると、目が合ってしまった。亀倉さんはぼくを見てちょっぴり不思議そうに小首を傾げた。
同じ二年生だけれど、ぼくは彼女とあまり面識がない。同じクラスになったことはないし、図書室でもあまり顔を合わせない。同じ学年ということは、彼女はぼくのことを知っているのだ。一方的に。不登校のやつがいるぞ、ということは昨年度一年生の間でほぼほぼ知られていたことなのだ。だから亀倉さんも知っているはずだ、ぼくがずっと学校を休んでいたことを。
ぼくは亀倉さんから視線を逸らし、先輩に続いて席を立った。
バスから降りたぼく達は運転手さんにトランクから荷物を下ろしてもらい、人数を数える。五人いることを確認したところで先輩がキャンプ場のゲートを指し示した。目の前にあるバス停の名前と同じ「真晝湖キャンプ場」という文字が躍っている。
管理事務所があるはずなんだけど。と先輩は辺りを見回す。リュックの中からチケットを取り出し、きょろきょろ。ちらりとぼく達を見て、再びきょろきょろ。
「あ。……えっ、と。来るの初めてだからちょっと待っ」
「下見とかはしていないのかな」
先輩の手からチケットを奪い取ったのは伊織さんだった。ボストンバッグを肩から下げながら、すたすたと歩いて行ってしまう。三つ編みを揺らして振り向き、ぼく達に手招きする。
「こっちだよ。昨日調べておいたから」
寺園さんと亀倉さんが弾む足取りで後を追う。「ぼく達も行きましょう」と先輩を見ると、先輩は宿敵を睨みつけるかのように伊織さんのことを見ていた。
「先輩」
夏の日差しが眼鏡のレンズに不気味な光を宿らせている。
「先輩。鬼丸先輩」
「えっ……?」
「置いていかれちゃいますよ」
「あぁ、ごめん……」
「あの。伊織さんのこと何か気になるんですか?」
一瞬、はっとした顔になる。けれど、すぐにごく普通の笑顔に戻った。
「先輩……?」
「格好いい人だなと思ってね」
「まあ、確かに」
「行こう」
リュックを背負い直して先輩は歩き出す。ぼくも後を追った。
先輩が伊織さんを見ている時のあの様子は何なのだろう。白ずくめの女を見ている時と似たような感じなんだよな。伊織さんと、白ずくめの女、二人には何か先輩の興味を引く部分があるのだろうか。けれど、あれは興味を抱いているというよりも若干の敵意を含んでいるようにも見えるんだよな……。
二分程歩いて管理事務所に着いた。バス停からはコテージなどに紛れてよく分からなくなっていただけで、実際には近いところにあった。テントが並ぶ先に湖が見える。
星夜市の隣町、昼日市。昼日の誇る観光地の一つがこの真晝湖である。何万年も前にできたそうだけれど、火山の噴火でできただとか川の流れが変わってできただとか、その辺りの知識をぼくは持っていないので定かではない。ただ、水が綺麗で、周辺の森の緑も美しいということだけは確かだ。星夜のベッドタウンと言われることのある昼日は、星夜に負けないくらい市街地も郊外も景観が玲瓏である。開発の進んだ星夜では端に追いやられてしまった自然も残っている。街の半分以上が山になっている星山町にはさすがに負けるけれど。
管理事務所の人にチケットを見せると、グランピングをすることのできる場所へと案内された。大きなテントが二つ。その前に木製のテーブルと椅子、そしてコンロが鎮座ましましている。係の人は今日の今後の予定を告げると事務所の方へ戻って行った。午後三時頃からガイドさんが近くの森を案内してくれるそうだ。今は二時半。自由時間ということでいいのかな。
「じゃあこっちのちっちゃい方のテント、わたしと亀倉先輩が使うからお兄ちゃんと鬼丸先輩、神山先輩はそっちのちょっと大きい方のテントで」
テントと言っても、寝袋で横になるタイプのものではない。中にはベッドがあり、テーブルと椅子があり、一部屋分くらいの大きさがある。
「ふわぁ、すごい」
「神山君、真ん中のベッドで寝て」
「えっ?」
「……ボク伊織さんの隣はちょっと」
「僕鬼丸君に何かした?」
「いえ……。あの球体関節人形達の作者が隣にいるとかテンション上がってヤバいです」
「褒められてる……のかな。ふふ、ありがとう」
また睨みつけてる? と思ったけれど、今度は笑いだしそうな口元を必死にこらえているようだった。本当にテンションが上がってヤバくなりそうなようだ。先輩が伊織さんに向けているのは敵意なのか尊敬なのかわけが分からないな。
ぼくは真ん中のベッドにリュックを下ろした。




