第百二十三面 安心したまえ
よいしょよいしょと岩の広場へ向かったぼくだったが、帰りは梟に抱えられて飛んで来たので楽ちんだった。ぼくのことを地面に下ろし、ハワードさんは玄関のドアを見る。
「そんなに酷いのかい」
「見れば分かると思います」
ぼくは合い鍵をドアに挿し込んだ。ここで暮らしているアレクシス少年を装うにあたって、家の鍵を渡されていた。使うことなんて滅多にないと思っていたけれど、こんなことで出番がやってくるとはな。ハワードさんを迎え入れてから、戸締りをしっかりする。廊下を振り返ると、リビングの前にニールさんが立っていた。
「チェシャ猫さん」
「ハワード、イグナートのやつ変な物でも食ったのか」
「まさか。彼に限ってそんなことはないだろう。お金片手にいつだっていい物を食べようとしているからな」
ぼくはハワードさんを案内する。リビングのソファでは相変わらずアーサーさんがぐっすりと眠っていて、一向に目覚める気配がない。その向かいのソファにイグナートさんが膝を抱えて座っていた。漆黒の翼は自分を守るかのように体を包み込んでいる。依然として顔色は悪いけれど、手にはアイスティーの入ったグラスを持っているので飲み物を飲むことはできるようだ。
ぼく達の気配に気が付いて顔を上げたイグナートさんは、ハワードさんの姿をその目に捉えるとほっとしたような表情になった。グラスをテーブルに置き、ゆるりと立ち上がる。
「ハワー、ド……。ありがとう、来てくれて……」
「無理はするな、座りたまえ」
そう言われて、すとんと座り直す。
「ハワードぉ……」
「はいはい、私はここにいるから安心したまえよ」
「吐きそう……」
「は」
困ったようにこちらを見てきたハワードさんに対し、ニールさんは無言で廊下を指差した。イグナートさんを連れて、ハワードさんはリビングを出ていく。
「なんか、珍しいですよね弱ってるイグナートさんって。さっき倒れた時だって、苦しいの我慢して偉そうなオーラ放ってましたし」
「ああ。……あの大烏が弱ってるところを見せるのは、きっと梟に対してだけなんだろうな。見たか、ハワードが部屋に入って来たのを見た時の顔。迎えに来た親鳥を見た雛みたいだったぞ」
白鳥に出会えた醜いアヒルの子か。親子というか、どちらかというと兄弟かな。
キッチンへ向かったニールさんがグラスを手に戻ってくる。ぼくが持ってきた水出し紅茶とピッチャーは役にたっているようだ。グラスを受け取り、ぼくはアイスティーを一口飲む。
ほどなくして、ハワードさんが一人で戻ってきた。眼鏡のブリッジを押し上げて溜め息をつく。
「参ったな……。すまないチェシャ猫さん、しばらく籠ることになるかもしれない」
「変な物食ったのかやっぱり」
「いや……」
何か言おうとしたけれど、ハワードさんは躊躇うような素振りを見せた。しかし、ニールさんに睨み付けられて諦めたような顔になる。……ニールさん、年上を威圧するのはやめた方がいいですよ。
チェシャ猫に睨まれた梟は腕組みをして睨み返す。
「時々あるんだ。まあ、ただの発作だから君達が心配することではない」
「いやいやいや、そうもいかねえだろ。時々ある発作って、逆に大丈夫なのか」
ハワードさんは纏わりついてくるようなニールさんの視線から逃れ、沈黙している暖炉の方へ歩いて行った。そして、茶色い翼を揺らしてこちらを振り向く。
「コーカスレースのオーナーたる者、敵も少なくない。相手がだれであろうとも弱点になることを話すことはできない」
「医者に診せなくていいのか」
「……診せてよくなるものでもないからな」
「えぇ……?」
ニールさんは困惑した顔になる。おそらくぼくも同じような顔になっていると思う。お医者さんに診せる意味がないとは、更に不安になる言い方だ。イグナートさん、そんなに悪いのかな。ものすごく重い病気とかだったらどうしよう。
しかし、ハワードさんはそれほど思いつめた様子には見えなかった。いつものことだから、と思える程度のことなのだろうか。ぼくとニールさんは顔を見合わせる。
「彼が落ち着くまで私はここで待つことにするよ。飛べるようになったら連れて帰る」
「それは別にいいけどよ、うちの馬鹿弟はいつになったら目を覚ますんだ?」
「……さてな」
「おい」
ニールさんはハワードさんの胸ぐらを掴んだ。弟を気にしてやまない兄の気迫に押されることなく、ハワードさんは涼しい顔をしながら眼鏡のブリッジを軽く押し上げた。
「私は、危ないやつらから回ってきた危険な睡眠薬であるということしか知らない。おそらく、イグナートも詳しい効果は知らないだろうな」
「このまま目を覚まさないとかないよな」
「分からない」
ついにニールさんがハワードさんに殴りかからん、というところでイグナートさんがリビングに戻ってきた。顔色はやはり悪い。とても悪い。組み合っているチェシャ猫と梟を眺めて、大烏は力なく笑った。
「ハワード」
力の抜けた笑みを浮かべていたけれど、メンバーの名前を呼ぶオーナーの声ははっきりしたものだった。名前を呼びながら、両手を広げる。
「今から倒れるから受け止めてくれ」
「待っ……」
傾いていくイグナートさんにハワードさんが駆け寄り、腕と翼で体を支えてあげる。受け止めてくれだなんて、相手を信じていないと言えないことだろう。二人の信頼関係が窺える。
ハワードさんに体を預けたまま、イグナートさんはぼくとニールさんを見た。覗き込んだら吸い込まれてしまいそうな深く暗い漆黒が揺れる。
「私は本当に覚えていないんだ……。帽子屋さんに薬を盛ったのは私なのかもしれないが、その記憶がない……。頭が回らない、し……」
「いい、考えなくて。君は休みたまえ」
「私は……自分が、怖い……」
その言葉を最後に、彼は眠ってしまった。ハワードさんはイグナートさんをソファに横たえる。
「……医者呼ばなくていいのか?」
「いいんだ。眠れば落ち着く」
「……そうか」
大丈夫だと言われても大丈夫そうには見えないので心配だ。顔に出ていたらしく、ハワードさんはぼくを見ると優しく微笑んだ。安心させようとしてくれているのかな。ぼくも笑い返したけれど、おそらくぎこちない笑いになっていたと思う。
眠っている二人がソファを占領しているため、ぼく達は食卓に着く。ニールさんが追加のアイスティーを持ってきてくれた。
「ハワードは?」
「ではいただこうかな。事務所の方が気になるが、オーナーを置いてはいけないからな。おそらくレベッカさんがどうにかしてくれているはず……」
眼鏡の奥の目はちらちらとイグナートさんの方を見ている。平気そうに見えて、本当はハワードさんが一番心配しているのかもしれない。
ぼくはグラスに口を付ける。みんなのために持ってきたアイスティーだけれど、ぼくがこんなに飲んでしまっていいのかな。また今度新しいのを持ってこよう。
弟を気にする兄とオーナーを気にする腹心は動く気がないのか、黙って座ってお茶を飲んでいる。お茶菓子が出ていないから持ってこようかな。このまま放っておいても二人は動かない気がする。
ぼくは席を立ち、キッチンへ向かった。棚の中には買い置きしてあるお菓子の箱がいくつか入っている。クッキーでいいだろう。
「あのー、ニールさん」
クッキーを並べたお皿を食卓テーブルに置きながら、声をかける。
「夏休みの予定についてなんですけど」
「おや、皆で旅行にでも行くのかい」
「あ、いえ、えっと。……あぅ」
ハワードさんのいる時に話すべきではなかったかもしれない。おろおろするぼくを見てニールさんは微妙な表情になる。
ぼくがこの国の人間ではないと気が付いているのはイグナートさんだけだ。ハワードさんはぼくのことを「クロックフォード兄弟が世話をしているみなしごのアレクシス少年」だという公の設定通りに認識しているはずだ。コーカスレースメンバーの例に漏れずナオユキ君と呼んでくるけれど、それに関してはあの裁判より前に出会った人達なので仕方ない。あれは偽名ということになっている。本名だけど。
なので、アレクシス少年が家主に夏休みについての話をしている姿というものは、皆で出かける相談をしているように見えるのだ。
「あうぅ」
「前にイグナートにおかしな相談をされたのだけれど……。まあ、君のことを詮索するつもりはないから私のことは気にせず話したまえ」
ぼくがトランプではないかもしれないと、ハワードさんには言っていたのか。
「あー。聞かなかったことにしてください」
「私はここにいないと思ってくれて構わないよ」
「……えっと。あの、ニールさん。夏休みの予定なんですけど、学校の人達とキャンプに行こうと思うんです」
「学校のやつ? へえ、いいじゃねえか。楽しんでこいよ」
グラスを弄びながらニールさんはぼくを見る。ハワードさんはほんの少し不思議そうにぼくを見ていたけれど、言っていた通り詮索する気はないらしい。今は黙っているけれど、きっとイグナートさんが目を覚ましたら後で話をするんだろうな。
数日こちらへは来られないけれど、一緒にいることになるのは学校の人だけれど、それでも行こうとしている。楽しく過ごせそうだとも思えている。
未知の本のページを捲るようだ。ぼくはまた、新しい景色を見ることができるはず。読み終えた時に、アーサーさんが感想を聞いてくれればいいのだけれど……。




