第百二十二面 あまり無理はさせられない
学校の知人とお泊りだなんて、一年前には考えられないことだった。璃紗と琉衣とは付き合いが長いけれど、出会って一年も経っていない人と出掛けるだなんて。
弾む足取りで姿見を潜ったぼくは、前方不注意の結果何かに激突してしまった。
「はわっ」
「うおっ」
おでこをぶつけた。
相手も額を押さえている。背の低いぼくとぶつかったということは、相手は屈んで姿見を覗き込んでいたのだろう。
「うぅ……」
「イグナートさん、どうしてここに」
意外とダメージを受けたらしく、見るからに上物のスーツを纏った男は屈んだ体勢のまま額を押さえている。その手にはいくつもの指輪が煌めき、耳にはピアスが光っている。そして、背負われた漆黒の翼は痛みに耐えるようにぷるぷる震えていた。北東の森、岩の広場を根城にする何でも屋のギルド・コーカスレースのオーナーである。
空間を繋ぐ姿見が置かれているこの部屋に、アーサーさんが簡単に人を通すわけがない。ここに来られるのは毎日のお茶会に参加しているメンバーくらいだ。なぜここにイグナートさんがいるのだろう。アーサーさんが許可したのだろうか。
目に映ったもの全てを吸い込んでしまいそうな、深く暗い漆黒の瞳がぼくを見る。見惚れてしまいそうなくらい美しく涼やかな目元が鋭くなった。
「本当にその鏡から出てくるのだな」
「あの……」
「君は本当に異空間から来た人間なのか」
見られた。
ぼくが異世界人だと知っている人は数人いる。しかし、その中にイグナートさんは入っていないのだ。初対面で「人間ではない」と見抜かれたことから打ち明けていた気になっていたけれど、はっきりと「異世界人です」とは彼に言っていなかったはずだ。
ぼくの横を過ぎて、イグナートさんは姿見に手を伸ばす。大人の男の人にしては華奢な指先が触れ、部屋を映し出している鏡面が波打った。
「この向こうにはどのような世界が広がっているのだろうなぁ」
「イグナートさん、どうしてこの部屋に……。アーサーさんは?」
漆黒が僕を見る。じっと見つめていたら吸い込まれてしまいそうだ。
「帽子屋ならリビングのソファで眠っている。……物品を回していたら面白い薬が流れてきてな。あんなにすぐ眠るとは思わなかったが」
「薬って……」
あれ? 何だろう。何か違和感が。
「チェシャ猫が留守でよかった」
「な、何を……何をするつもりですか」
「なあに、ただの興味……っう」
口元に手を当て、イグナートさんが蹲った。整った顔は真っ青になっていて、汗がにじんでいる。見るからに具合が悪そうだ。先程まで余裕たっぷりに妖しげな微笑を浮かべていたことが嘘のようだ。ぼくは屈んで背中をさすってあげる。さすってあげようとした。が、振り払われてしまった。
「翼に触るなっ!」
「はわっ、ごめんなさい!」
黒ずくめの姿。その中で目立つ白い手に赤が付着していた。
「くそっ……。この体にあまり無理はさせられない、よな……」
「い、イグナートさん?」
「人の子、ここで見たことをレイヴンに言うでないぞ」
そう言うと、イグナートさんは糸の切れた操り人形のように倒れてしまった。レイヴン、というのは大烏の通り名を持つ彼自身の別の呼び名だ。ナザリオが眠り鼠とヤマネの二つの名前で呼ばれているように、イグナートさんも二つの名前を持っている。レイヴンに言うな、とはどういうことだろうか。
ぼくが考え込んでいると、倒れていたイグナートさんが体をゆらりと起こした。驚いた様子で辺りを見回し、ぼくを見て目を見開く。そして、自分の手を見て、口元に触れて、もう一度手を見た。
「え……。何……。血……? 血? えっ……。血ぃ!? なんっ、なんじゃこりゃあ!」
「あのぅ」
「何で? 誰かに攻撃された? まさかナオユキ君が私を」
「まさか」
「事務所を出てからの記憶がない。……薬、薬がない。薬がポケットに入っていない!」
大きな翼を揺らしながら、イグナートさんは部屋を出て行ってしまった。慌てふためいて動揺している姿なんて初めて見たかもしれない。
今部屋を出て行ったのは確かにコーカスレースのオーナーであるイグナート・ヴィノクロフその人だった。先程までぼくの目の前にいた彼はまるで別人のようだった。ちょっと変だな、と思ったのは気のせいではなかったようだ。喋り方も、人の呼び方も違った。偉そうな雰囲気を纏っているものの、普段はあれほど高圧的ではない。それに、彼はアーサーさん達のことを通り名に敬称を付けて呼ぶ。そして、「この体」という言葉。まるで……。
まるで、別の誰かがあの体に入っているみたいだった。
ぼくも部屋を出てリビングへ向かうとしよう。
「帽子屋さんっ、帽子屋さん、起きるんだ。起きろ」
リビングへ入ると、イグナートさんがアーサーさんを揺さぶっていた。帽子が脱げ落ちても、アーサーさんは微動だにしない。
「まさか薬を飲んだのか。いや、もしかして私が飲ませた? 記憶が定かじゃないな……」
絨毯の上には中身の零れたティーカップが転がっていた。テーブルの上には小瓶が置かれている。
「薬って、それですか」
「……そう。この小瓶に入っている粉だよ。色々と物を取引している間にコーカスレースに流れてきてね、少し危ないところから。……即効性の睡眠薬だ」
少し危ないところ。気になるけれど訊かないでおこう。
「ほんの少しだけで快適な眠りを手に入れることができるんだよ」
「へえ、いいですね」
「いいものか。少量で眠りにつくということは、大量に摂取するとなかなか目覚めないどころか命にかかわる。危険な薬だよこれは。少し危ない人達の取り締まりをしてもらいたくて、帽子屋さんにエドウィンへ中継してもらおうと思って事務所を出たのだけれど……」
形のいい眉が歪められる。薬を飲ませたのはイグナートさんだ。本人がそう言っていた。しかし、覚えていないと同じ口で言った。別の誰かが彼の体に入っていて、それがアーサーさんに薬を飲ませたのだろうか。所謂二重人格だとか、そういう人だったのだろうか。
ぼくはテーブルに近付き、薬の小瓶の脇に置かれていた紙束を手に取った。紅茶と思わしき染みが付いている。お茶を飲みながらアーサーさんが読んでいて、薬によって眠ってしまった時に手から落ちたのだろう。文章は読めないけれど、帽子のデッサンが添えられているのは分かる。帽子作りの資料かな。
紙束を眺めていると、玄関のドアの開閉音がした。ニールさんが帰って来たらしいな。ぼくが顔を上げたタイミングで、アーサーさんの肩を叩いていたイグナートさんが突然手を止めて退いた。口を押えて、足元はふらついている。
「イグナートさ……」
「気持ち悪い……」
「ただいまー。帽子屋ぁ、お茶淹れてくれ……って、な、なんだどうしたんだこれ」
「お帰りなさいニールさん。あのっ、イグナートさんが」
青褪めた大烏がチェシャ猫を振り返る。
「……吐きそう」
「は。ま、待て、待て、ちょっと待て」
「無理……」
「こっち来い、ほら。歩けるか。トイレまで耐えろ」
お酒で酔った時のアーサーさんの介抱をしているからだろうか、慣れた手つきで体を支えてあげて、そのまま廊下の向こうへ連れて行く。少しして、ニールさんだけがリビングへ戻って来た。ソファで眠るアーサーさんのことを気にしつつも、ぼくに視線を向ける。
「背中さすってやろうとしたらすげえ拒絶された」
「ぼくも触るなって言われました」
「どうしたんだアイツ、具合悪いとかそういうレベルじゃねえぞ。……置いて来ちまったけど戻って来られるかな」
別人のようだった点を伏せつつぼくの知っている範囲のことを話すと、ニールさんは険しい顔になって廊下を見た。ぼくに向き直り、何かを振り払うように首を横に振る。おそらく、薬を飲ませたかもしれない、という部分からイグナートさんのことをアーサーさんの敵であると認識してしまったのだろう。本当に厄介な呪いだと思う。
がしがしと頭を掻きながら、呆れたように弟を見下ろす。
「ぐっすりじゃねえか。いつになったら目ぇ覚ますんだよ」
「さあ?」
アーサーさんはソファに横になってすうすうと寝息を立てていた。確かに快適な眠りは手に入れているようだけれど、全く目を覚ます気配がない。ナザリオよりも深い深い眠りについている。
糸車の錘が指に刺さってしまい、百年の眠りについてしまったお姫様のお話がある。グリム童話では王子様のキスで目覚めるけれど、ペロー童話では百年経って自然に目覚めるのだったっけ。アーサーさんはいつになったら目を覚ますのだろう。王子様が……いや、それはないな。帽子屋がお姫様になったら誰が王子様になるんだ。
ニールさんは眠り続けるアーサーさんの髪を優しく撫でる。
「ったく、イグナートのやつも厄介な物持ち込みやがって。どれくらい飲まされたんだ一体。……アイツ戻って来ねえな」
ぼくは廊下に顔を出して水回りのある方を見た。廊下の向こうからは苦しそうな声が小さく聞こえてきている。
「ものすごく苦しそうです」
「もう何も出ねえだろうになぁ」
ぼくの肩越しに壁に手を当て、ニールさんも廊下を見遣る。しばし様子を窺っていると、廊下の角を曲がってイグナートさんが姿を現した。覚束ない足取りで数歩進み、そして、倒れてしまった。ぼく達は慌てて駆け寄る。ニールさんが抱き起すと漆黒の瞳は力なくぼく達を見上げた。ただでさえ色白の肌は恐ろしいほど血色が悪くなっており、翼にも艶がない。
別人のようになって、血を吐いて、戻ったと思ったら具合が悪くなって。彼の身に何が起きているんだろう。バンダースナッチに噛みつかれて酷い怪我を負ってもすぐに回復していたのだから、体自体はふざけたレベルで頑丈なのだ。それでも、風邪や病気が相手では勝手が違うのだろうか。そもそも今の状態が風邪や病気なのかは分からないけれど。
イグナートさんは指輪の光る指でニールさんのジャケットの袖を掴んだ。
「ハワードを……呼んでくれ……。こんな、状態では……飛べない……か、ら……」
ニールさんは頷きつつも軽く睨んでいた。
「帽子屋にどれだけ薬を盛ったんだ」
「知らない……。覚えて、いない。わた、私……私、は……」
指が袖から離れ、それと同時に体全体から力が抜ける。大烏はもう何も言わない。目を閉じて眠りについてしまった。口の端から血が一筋垂れている。
「あの、ぼく、岩の広場まで行ってきます。道というか、どの獣道かは分かっていますから。イグナートさんとアーサーさんのこと、よろしくお願いしま」
「こいつの体は馬鹿みたいに頑丈なんだ。それがこんな……。……ハワードに知らせるんだぞ。他のメンバーに悟られるな。頑丈なはずのオーナーがこんな状態だとなれば混乱を招く」
「分かりました」
ぼくは猫と帽子屋の家を駆け出した。目指すは岩の広場、コーカスレースの事務所である。