第百二十面 この気持ちをどこへやろうか
エドウィンの手当てを終え、医者は街へ戻って行く。包帯やガーゼにまみれたエドウィンと、馬鹿みたいな笑みを顔面に貼り付けている僕と、縮こまっているアリス君のことを順に見て公爵夫人は息を吐いた。胸元が大きく開いている煽情的なドレスを纏う公爵夫人は、抱いていたピーターをマミに預けてテラスへと退席させる。背中の方もがっつりと開いているようだ。
「ヘイヤ? それがルルーの兄で、エドウィンを襲ったのね?」
僕達の説明を反芻するように言って、ハーブティーを飲む。
「森の治安が悪すぎるわ。王宮騎士も王国軍も、チェスには苦戦する。獣だって相手がバンダースナッチだったらなかなかうまくはいかないでしょう。余りにも頻繁に起きているのよ、チェスによる事件事故がね。貴方達も知っているでしょうけどね」
そう、だからカレン王女はアーサーに帽子の依頼をした。今までとは比べ物にならないくらいチェスが活発になっているのだ。何者なのか分からない連中がわちゃわちゃしているのだからどうしようもない。
「騎士団と軍は警察とも連携して街の警備や森のパトロールに当たっている。しかし、夜間の担当になりたくないという者が多くてな。ライオンやユニコーン、他にも協力してくれているドミノ達と共にどうにか夜も見て回っているのだが、どうしたものだろうな」
「ブリッジ公爵家の所領はこの森全体。領内で何かあれば主人は対応しなくてはならないの。随分と忙しいみたいで手紙のやり取りも滞ってしまっているわ」
公爵夫人は小さなマカロンを口に放り込む。
「……ルルー、貴女のお兄さんが本当にチェスと関係あるのなら、それ相応の覚悟はできているのでしょうね」
琥珀色の瞳は真っ直ぐに僕を見ていた。それを縁取る長くて整った睫毛がより目を強そうに見せている。僕は膝の上に載せていた拳を握った。
不安そうなアリス君の声が僕の名前を呼んだような気がしたけれど、特に意味はないのだろう。心配して声をかけてくれただけだ。要件があるわけではない。
「何が原因か分からない。もしも、チェスの関係者を捕まえることができたなら……。そう、政府は思っているはずよ」
「うん。分かってるよ」
分かっているよ。それは。
チェスは足元の影に消えてしまうから捕縛することができない。バンダースナッチ、もしくはそれに準ずる者がいればそれを捕まえればいい。今まで何人の黒い犬達が投獄され尋問され拷問されてきたかなんて僕は知らないけれど、犬ではない者もいると分かればそれも捕縛対象になり得るだろうということは分かる。
「エドウィンはどこまで報告するつもりなのかしら」
手負いの騎士は答えない。アレキサンドライトを握りしめているらしく、右の拳からはチェーンが垂れていた。公爵夫人に促されて、ようやく顔を上げる。
「……全て」
そう言うと思った。
左隣にいる僕からは彼の表情がよく見えない。伸ばされた前髪の奥にただでさえ動かない表情が隠れてしまっている。
「全て報告する。団長に。オレの仕事は森に住むドミノの管理。今回与えられた任務はヘイヤの調査。分かったことを報告する。ただそれだけだ」
「でも、ルルーさんのお兄さんなんだよ」
「知り合いとか、そうではないとか、関係ない。……ナオユキ、オマエはそんなに甘い人間じゃないだろう?」
「……確認しただけだよ」
分かっている。知っている。エドウィンは真面目な子だ。
チェスの被害が収まるのなら、クロヴィスは捕まってしまった方がいいのだ。もしそうなっても、僕はそれを受け入れよう。……できるだろうか。本当は家に戻ってきてほしいんじゃないのか。けれど怖い。顔を合わせるのが怖い。
全てはあの女の所為なんだ。あの女さえ現れなければ……。
「お仕事頑張ってね、エドウィン」
「……あ、あぁ」
「公爵夫人もね」
今日はとても疲れた。さっさと買い物を済ませて、後は家に帰ってしまおう……。
アリス君を連れて僕は公爵夫人のログハウスを後にした。エドウィンはもうしばらくしてから街へ戻るそうだ。
「チェスって、何なんでしょうね」
獣道を歩いていると、アリス君がそんなことを言った。
「分からないんだよ誰にも。分からないから怖いんだ」
適当にクッキーやビスケットを買って、それをアリス君に託す。心配そうな顔をする小さな男の子をむぎゅっと抱きしめてから、僕は手を振って彼と別れた。
敷地はとても広いけれど、屋敷そのものの前にはちゃんと門がある。そんな門の前に耳の垂れた青年が両親と共に立っていた。両親は屋敷の方を見ていて何やら話し込んでいるようだ。僕に気が付いたらしい青年が振り向く。
「ルルーさん」
「……パトリック」
両親も振り向く。男物のラフな格好をしている僕を見て驚いているようだ。
「ごきげんようガーディナーさん。どうぞ」
兎のくせに猫を被ってお嬢様然とした空気を纏い、門の鍵を開けてガーディナー家の皆さんを案内する。パパンに用事があるそうだ。家族揃って何の用事だろう。もしかしたら、もしかするのだろうか。
応接室に入る。アポは取ってあったらしくパパンが待ち構えていた。ガーディナー家の皆さんが僕に続いて入ったのを確認し、僕は退室しようとした。しかし、パパンに残るように言われたためドアの脇に立つことにした。
ガーディナー氏と夫人はパパンに向かって頭を下げた。パトリックもそれに倣う。
「申し訳ありませんブランシャール様。今回のルルー様とパトリックとの話は保留ということにしていただけないでしょうか」
「何か事情でも?」
「……パトリックがもう少し待ってほしいと言い出しましてね」
「僕には以前から思いを寄せている女性がいるんです」
はっきりとそう言ってパトリックは深々と頭を下げる。イーハトヴで使われる土下座に匹敵するのではないかというくらい深い。
「構いませんわ。わたしもまだまだ不安でしたし。ねえお父様、いいでしょう?」
パトリックには他に好きな人がいる。僕の予想でしかなかったそれは本当のことになったのだ。パパンは僕を見て諦めたような顔になる。
「分かりましたガーディナーさん。それなら仕方ないでしょう。ルルーもまだ心が決められていないようだったので。もしまた、何かの機会がありましたら」
「はい。はい。申し訳ありません」
「これからも庭の整備はお任せしますよ」
「はい」
ぺこぺことガーディナー夫妻は頭を下げる。これで僕のお見合い騒動は終わり……ってことでいいのかな。
先に応接室を出て行った両親を追うのかと思いきや、パトリックは踵を返して僕に近付いてきた。垂れた耳がふんわりと揺れる。そして、僕に向かって手を差し出してきた。
「友人としてよろしくお願いします。ルルーさん」
「あ……。はい。あの、さっきはすみませんでした……」
「いえ」
「よろしくお願いし……。よろしくね! パトリック!」
「ふふ。よろしくお願いしますね」
僕はパトリックの手を握った。
パトリックを見送り、僕はパパンに向き直る。
「パパン。クロヴィスに会ったよ」
「なっ……」
「エドウィンはクロヴィスのことを調べている。パパン、この先どうなるか分からないよ」
「そうか。元気そうだったか?」
「うん」
そうか、そうか。とパパンは繰り返す。話題に出すだけで激昂する癖に、会ったと言ったら心配するんだね。パパンの心境も複雑なのだろう。
「クロヴィス、オマエはどこで何をしているんだ……」
自室に戻った僕のことをメアリーが出迎える。
「お嬢様……お見合いは……」
「なかったことになったよ。いいんだ別に」
「……気になるのはお兄様のことですか。この家を継ぐべきなのは自分ではなく彼のはずだ、と」
「そうかもしれないね。……えっ?」
今なんて言った?
今なんて言ったの?
メアリーは紅茶をカップに注ぐと退室してしまった。彼女が知っているわけないのに。どうして君が……?
机の上の写真立てが起こされている。メアリーは知っているのか、クロヴィスのことを。パパンかママンにでも、それとも、他の使用人にでも聞いたのだろうか。家政婦達はおしゃべりだからそうかもしれないな。
写真立ての前にお見合いのために撮った写真が置かれている。かわいい女の子じゃないか。ねえ?
貴女のようなお嬢さんの来る場所ではありませんよ。と、彼は言った。僕は……。僕は、どこへ行きたいの? この写真みたいなお嬢様でいたいの? それとも。
「あぁ、そうか……」
嫌だったのは、上流階級の空気。守りたかったのは、兄の帰ってくるべき場所。けれど、もう一つ引っ掛かっていたのは何だっただろうか。
「同じだったんだ。パトリックと」
皮肉だな。本当に。
僕はもしかしたら、君のことが好きなのかもしれない。それはずっと友人としての感情だと思っていたけれど、本当は――。
お見合い写真を棚にしまう。
この気持ちをどこへやろうか。
「参ったな。僕は兎で、君は猫なのに」
たくさんのフリルもレースもいらない。自由な格好をして、明日も君に……。君達に、逢いに行こう。
庭に住んでいる、おかしな兄弟に。
日々の記録 了