第百十九面 すごく失礼なこと言っていいですか
家から少し進んだ獣道でアリス君は立ち止まった。
「この辺でいいですかね」
「いいよ。話してみてよ、アリス君の考えたこと」
振り向いたアリス君は悲しいような苦しいような顔をしていた。これから話そうとしていることを躊躇っているようにも見える。
「すごく失礼なこと言っていいですか」
「うん」
「クロヴィスさん……。あ、あのあの、ヘイヤって、ぼくの好きなお話にも出てくるんですけど、彼は伝令なんです、王様の。真っ白なチェスの、王様の……。……クロヴィスさんは、チェスと何か関係があるんですか」
純粋にすごいと思った。この子はすごいな。それと同時に、彼の世界にある物語のことを恐ろしく思った。
「もしそうだったらどうするの?」
「ぼくは何もしません。ぼくはこの世界の人間じゃないので、引っ掻き回すようなことは……」
「裁判所で王様に啖呵切ったくせによく言うねえ」
「あう」
僕は木に凭れる。初めて会った時よりも少しだけ背の伸びたアリス君が不安そうにこちらを見上げていた。丁度僕がアリス君くらいの頃だった、あの事件が起きたのは。
「エドウィンとも話さなきゃいけないんだ。うちに来る?」
「え?」
話を終えてから買い物に行けばいいよね。
アリス君を連れて屋敷に帰ると、メアリーが目を丸くした。
「人間!」
「アリス君だよ。ニールとアーサーのところでお世話してる子」
「こ、こんにちは。アレクシス・ハーグリーヴズです」
「後で騎士団の子が来ると思うから部屋に通してもらえるかな」
驚いた顔でアリス君を見つめたままのメアリーを玄関に放置したまま僕は廊下を進む。
「ルルーさん、本当にお嬢様だったんですね」
「嘘だと思ってたの?」
「さっきの人はメイドさんですか」
「メアリーだよ」
メアリー・グローブファン。五年前にやって来た僕より二つ年上の彼女は、僕に兄がいることを知らない。僕の部屋を片付ける際に、クロヴィスとのツーショットが入った写真立てをいつもいつも起こしていくのは彼女だ。「お友達ですか?」と微笑む彼女に悪意は全くない。
部屋のドアを開けてアリス君を通す。机の上に置かれた写真立ては案の定起こされていた。出かける前に伏せておいたのに。
「あれっ、この写真。もしかしてルルーさんとクロヴィスさんですか」
「そうだね」
十年以上前に撮った写真。レースで飾られた衣装を纏うお坊ちゃん然としたクロヴィスと、フリルふりふりのドレスを着て不機嫌そうな僕が並んでいる。ちゃんと笑っていればよかったな、と今になって思う。けれど、きりりとした表情に見えるクロヴィスも僅かに口元が引き攣っているのがよく見ると分かるのだ。二人そろってそんな顔で映っているのが唯一残ったツーショットだなんてね。
残りの写真は全て失われてしまった。
ママンが全部燃やしたのだ。あんな子はうちの子ではありません。うちの子はルルーだけです。祖父の葬儀の後、そう言いながらアルバムをかき集めて火を点けた。取り上げられる前にアルバムから剥がすことができたのはこの写真だけだった。
あの事件以来パパンもママンも変わってしまった。いや、変わらない方がおかしいか。おかしいのは僕なのかもしれない。怖い怖いと思っていても、いつか彼の戻ってくる場所を守りたいとも思っている。どう足掻いても彼が僕の兄であることは変わらない事実なのだから。
「そこの椅子にでも座ってよ。少ししたらさっきのメアリーがお茶を運んできてくれるだろうから」
「メアリーさん、兎さんなんですね」
「兎の家の使用人だし、おかしくないでしょ? モルモットさんとかもいるけど」
「へえ。……こっちの話です、お気になさらず」
アリス君が椅子に座るのとほぼ同じタイミングでドアがノックされた。返事をすると、ティーセットの乗ったワゴンを押してメアリーが入って来た。後方にエドウィンの姿も見える。
「ごゆっくりどうぞ」
カップに紅茶を注ぐとメアリーは退室した。入れ替わるようにエドウィンが入って来る。クラウスは先に戻らせたのだろう。
「……なぜナオユキがいる」
「アリス君と話をしていたんだよ、クロヴィスについてね」
無表情な緑色の瞳がアリス君を捉える。
「ナオユキ、オマエ何か分かったのか」
「あぁ、ええと、ちょっとね。たぶんエドウィンが考えてることと似てると思う」
エドウィンは腕を組み、右足にやや体重を乗せてこちらを見ている。腕に巻かれた包帯は巻き直したらしく今は血が滲んでいる様子はない。少し躊躇うようにしながら、エドウィンは口を開いた。
「……騎士として恥ずべきことなのかもしれないが、オレはバンダースナッチが苦手だ。理由は聞くな」
「去年コーカスレースでバンダースナッチを見た時具合悪そうだったもんね」
「……。ヘイヤと対峙した時に感じたやつの纏う空気、あれはバンダースナッチのものに非常に似ていた。やつは影の力を持っている……気がする……。犬がチェスの力を帯びることができるのなら、兎にできないとは限らない……。ヘイヤは、チェスと関係があるのか」
辿った道は違ったけれど、アリス君もエドウィンも同じ結論を出してきた。
僕は写真立てを見遣る。
「クロヴィスは僕の目の前でおじいさまを手にかけた後、チェスに連れて行かれてしまったんだ。だから、たぶん、今もチェスと一緒にいる可能性はあると思う……」
「チェスに連れて行かれた? そんなことあるんですか?」
「聞いたことのない事例だな」
「見間違いじゃないよ。僕はあの夜はっきり見たんだ。影を揺らすチェスの姿を。それに手を引かれて、クロヴィスは行ってしまった」
祖父のことはあの女に誑かされてしまったからではないかとも思っているけれど、クロヴィスは自分からあの女の手を握ったのだ。あの女に仕組まれたのか、クロヴィスが願ったことなのか、それは僕には分からない。
エドウィンは低く唸る。
「ヘイヤがチェスと繋がっているのなら、チェスについてやつは何かしら知っているということか。……上層部はどこまで知っているのだろう。何もないのならわざわざ特命任務など与えないはず……。……団長に訊いてみるか」
「エドウィン、気を付けてね。クロヴィスは強いよ」
「分かっている」
「元がボンボンだからさ、一応の護身術は身に着けているんだよ。もしもバンダースナッチみたいになっているならそれが更に強力になっている」
「銃の腕はチェシャ猫と競えるくらいだろうな。……次はあんな醜態晒さない」
メアリーが運んできてくれた紅茶を一口飲んでエドウィンは壁に凭れかかった。アリス君もカップを手に取る。カップの中で波打つ紅茶は薄っすらとピンク色を帯びていた。何かの花が入っているのかな。
話してしまった。クロヴィスとチェスのことについて。けれど、あの女については言わなかった。これは話すべきではない。そこにまで辿り着いてしまったら言わなければならないかもしれないけれど、それまでは言うつもりはない。
ちらつくあの女の顔を頭の中から消し去る。今は出て来ないで。
紅茶を飲み干し、エドウィンはカップをワゴンに置いた。それをアリス君が下から覗き込む。
「ねえ、顔色悪くない? 大丈夫?」
「……問題ない。本部に戻って団長に報告しないと……」
オレはこれで、と言ってエドウィンは部屋を出て行ってしまった。さっきはクラウスが一緒だったから安心していたけれど、今は一人だ。あの状態で王宮の方まで行けるだろうか。ちょっと心配だな。
同じことを思ったらしく、アリス君はカップをワゴンに置いて立ち上がった。「街まで送って行きます」と言って出て行くのを僕も追う。お菓子を買ってくる、と言って猫と帽子屋の家を後にしたのだからそもそも街へは用事があるのだ。
「クロヴィスさんはぼく達のことを完全に敵視していました。本当にチェスに……」
僕の方を向いたまま話していたアリス君が、角から出てきたパパンに激突した。
「あばぁっ」
「むっ。何だこのトランプの子供は」
「あわわわわぼぼぼぼくぼくぼくはアレ、アレレレクシシシ……」
動揺しすぎだよアリス君!
僕は尻餅をついているアリス君と、威圧感を放っているパパンとの間に入る。怪訝そうな目でアリス君を見下ろしているパパンはややイラついているようにも見える。
「友達だよ」
「ふむ?」
「また出かけてくるね!」
腰を抜かしているアリス君を引き摺るようにしてパパンから逃げた。家政婦達の間を縫って外に出て、広すぎる庭を進む。
きびきび歩くエドウィンでも、あの傷の状態ならさほど遠くまでは行っていないだろう。
「家に寄って行かない?」
庭の外に出たところでそんな声が聞こえた。見ると、木の根元にへたり込んでいるエドウィンと、それに声をかけている公爵夫人の姿があった。傍らにラミロが控えている。
「病院になんて歩いて行けないでしょう。医者を家に呼ぶから私のところに来なさい。ラミロ、街まで行ってもらえるかしら」
「はい、奥様」
ぴょんぴょん跳ねていくラミロを見送り、公爵夫人は僕達の方へ向き直る。銀色の髪の間で琥珀色の瞳がきらりと光った。
「あら、ルルーとアリス君。何があったのかしら、教えてくれる? 内容によってはブリッジ公爵家の人間として見過ごすことはできないけれど」




