第百十八面 かわいい顔して恐ろしい子だね
「あ……。あぁ、あっ。ああああああぁぁっ……!」
認めたくない。認めたくない。認めたくない。
僕は石畳に膝を着いた。じわじわと滲み出るように浮かぶ忌まわしい過去を振り払おうと頭を大きく振るけれど、すぐ傍に立っているクロヴィスの気配がそれを許さない。
「いやっ、いやぁっ、おじいさまぁ!」
アーサーの手が僕の腕を掴んだ。震える背中を撫でる彼の手に僅かな安心感を取り戻しつつも、僕は未だ混乱状態にあった。今見えているはずの現実とあの時の光景がぐちゃぐちゃと入り乱れて視覚的な暴力を与えられ続けている。
銃を構えていたニールが戸惑ったように僕を見下ろした。
「おい、ブランシャールってどういうことだ馬鹿兎」
「今はそっとしておいてあげてください兄さん」
エドウィンとニールのことを警戒しながらも銃を弄んでいたクロヴィスはフードを被り直した。ニールは銃を構え直す。
「……ワタシ……ワタシ、は……。……は、ははははっ。おとなしく人間のいいなりになんてなるわけないでしょう! おやおやぁ? そんなに簡単な男だと思いましたかぁ?」
余裕たっぷりにからかっているようだけれど、フードに添えた左手はそのまま頭を押さえているようにも見えた。相手を馬鹿にしたような顔はその傍らで苦痛に耐えているかのようだった。銃を下ろし、よろめきながら後退する。
走り去る後ろ姿に向けてニールの銃から放たれた弾丸はクロヴィスのコートの裾にかすっただけだった。トランプであれば軍にも認められるであろう程の腕を持つ彼が的を外すことはほぼほぼない。なぜ外れたのか、それはアーサーを振り払った僕が飛びついて照準がずれたからである。
「あっぶな! もっとずれて通りすがりの人に当たったらどうすんだよ!」
「う、撃たないで……」
しがみつく僕の頭を押さえつける。
「詳しく話を聞かせてもらうからな、ルルー。あと、そこ。帰ろうとするな。オマエ達にも色々答えてもらうんだからな、エドウィン、クラウス」
リビングにはぴりぴりとした空気が流れていた。主にそれを放っているのはニールで、かなりイライラした様子で僕を睨みつけている。食卓に着いているナザリオ、クラウス、アリス君は見えない威圧感に怯えるようにしていて、僕と並んでソファに座るエドウィンは無表情を保っていた。エドウィンの腕に包帯を巻き終えたアーサーが場の空気を変えるように微笑んだ。
「応急処置はしましたが、後でちゃんと街の病院に行ってくださいね」
「……悪いな」
「いえ、家の中でぼたぼた血を垂らされては困りますからね」
ニールの横にアーサーが座ったのを合図に、再びリビングには緊張感が漂い始めた。
「先にエドウィンに訊こうか。森で何してたんだ?」
「……オレはオマエ達の管理者だから、オマエ達との関係を維持することが必要だ。そのために、無駄な争いは避けたい。だから答える。口外しないと約束できるか」
「言わねえよ」
エドウィンは左手に載せたアレキサンドライトを見つめていた。フランベルジュを奪われた時に咄嗟に手に取ったのだろう。それほど大事なものらしい。包帯には薄っすらと血が滲んでいて、再び垂れ始めるのも時間の問題に思われる。急なことだったから止血が不十分なようだ。
「団長からの特命でオレが動いていたことは知っているだろう? その内容がヘイヤの調査だった。詳細は聞かされていない。調べろ、あわよくば捕縛しろ、と。ヘイヤの通り名を持つ獣が時折街に現れていて、危険人物であると言うことは随分前から聞かされていて、それの調査ということで注意はしていたのだが……」
ちらりと僕を見てからエドウィンは話を続ける。
「役場でドミノの戸籍を漁っていて、ヘイヤが三月ウサギの身内だということが分かった。……三時間ほど前だったか、街にヘイヤが現れたとウィルフリッド殿下の護衛をしていた騎士から聞いた。一緒にいたクラウスを連れて足取りを追ったのだが、見事に返り討ちに遭ってな……」
「すごく強かったんですよ。おれなんか初っ端に吹っ飛ばされて、兄貴だって……。兄貴は模擬戦ではジャンヌさん以外敵なしなのに」
「……あれは普通の強さではなかった。あれは……。あの空気は……バン……っ」
何かを言いかけたけれど、エドウィンは自分の言葉を押し込むように口を押えた。
「あ、兄貴……大丈夫? 顔色悪いけど」
「問題ない……。オレからは以上だ。訊かれたことには答えた」
癖だろうか、何もない腰の辺りに手を伸ばして空振りする。いつも柄に手を添えているから習慣になっているのだろう。無表情がほんの少し寂しそうに揺れたように見えた。
ニールは僕に視線を移す。
「ヘイヤ……クロヴィスは祖父の仇だって言ってたよな。それは間違いないのか」
「そうだよ。おじいさまはクロヴィスに殺された」
「アイツは、何なんだ?」
皆の視線が僕に集中していた。
もう隠すことはできない。
一度目を閉じて心を落ち着かせる。
「クロヴィスは僕の兄だよ」
えっ。という声が聞こえた。ナザリオかな。
自分で声に出して言ってみたら、それが現実なのだと、事実なのだと、自分で自分を突き刺している気分になった。長い間忘れようとして忘れられなくて、そうして引っ掛かっていたものがさらに強くめり込んだようだ。
「じゃあ、オマエの兄貴が、オマエの祖父さんを」
「……そうなるね。本当だよ。僕はこの目で見たんだから」
「み……」
ニールの言葉が途切れる。何か想像してしまったのだろうか、アーサーが目を伏せる。
「けれど、クロヴィスのことを僕に訊くのは間違いだよ。彼はもうブランシャールの家にはいない。十一年前に失踪して以来どこで何をしているのか分からないし、どうして騎士団が彼を警戒しているのかも分からないよ」
「十一年前って、祖父さんが死んだ年だろ。殺していなくなったのか」
「……そうだね」
本当のことを言った。けれど、言ってないことがある。言ってはいけないんだ、これは。あの女のことは……。
僕は深呼吸をする。
「はい! 終わり! 話すことは全部話したよ! エドウィンは早く病院行った方がいいよ!」
「あ、あぁ……」
「あはは! ごめんねうちの馬鹿兄貴が大事な剣折っちゃって!」
「三月……」
エドウィンは何か言いたそうにしていたけれど、周囲を見て口籠った。ゆるりと立ち上がってクラウスを呼ぶ。
「帰る。団長に報告をしなくてはならないからな」
そして去り際、「後で屋敷に行く」と僕に耳打ちをしてリビングを出て行った。この場で皆に聞かれては困ることがあるらしい。
食卓の方を見遣ると、心配そうにこちらを見ていたナザリオと目が合った。それはほんの一瞬で、僕の視線はその隣に座るアリス君に釘付けになる。アリス君は考え込んでいた。また、彼の世界の物語と僕達のことを繋げようとしているのだろうか。クロヴィスがヘイヤである、ということが明らかになって、彼の考えは何か変わっただろうか。もしかしたら、何かに辿り着いているかもしれない。
アリス君は険しい顔で僕を見た。かわいい顔して恐ろしい子だね、君は。
「ここまで、か。ありがとなルルー、教えてくれて。でも、アイツがオマエの兄であろうと関係ない。もしも帽子屋に手を出すことがあったら許さない」
「なるべく殺さないでね。あれでも肉親だから」
「何故、彼は私達兄弟に突っかかってくるのでしょう……。ルルーの兄上であったとしても、私達とは直接は関係ないでしょう?」
「クロヴィスが何を考えてるのかは分からないよ。……お茶淹れるね。ああ、そうだ。アリス君が持ってきてくれたアイスティーがあったよね。あれって今冷蔵庫に入ってる?」
食卓の横を過ぎてキッチンへ向かう。
「ルルーさん」
「んー? 何アリス君」
アリス君は僕をじっと見ている。
「後でちょっと話がしたいんですけど。二人きりで」
辿り着いたのかな、この子なりの答えに。
僕は三人分のグラスにアイスティーを注ぎ、ナザリオとアーサー、ニールの前に置いた。
「よーし、アリス君! お菓子買いに行こうお菓子! ね!」
「あ、はい」
買い出しを口実に僕はアリス君を連れて家を出た。
この後何を言われるんだろう。よれよれの半袖の上着を着た小さな男の子なのに、なぜだかとても恐ろしい存在に思えてしまった。




