第十一面 私のお願い聞いてくれるかしら
ログハウスの中から赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。赤ちゃんが苦手なのか、エドウィンは踵を返して帰ろうとする。
ばああん! 漫画だったら後ろに大きな字でそう書いてありそうだ、という勢いでログハウスの扉が開いた。ひええ、と言ってエドウィンが後退る。
「あらあらまあまあ、今日はお客さんが多いのね」
赤ちゃんを抱いた若い女の人が出てきた。ハートの飾りが付いた赤いドレス姿で、ドレスと同じ色のボンネットを被っている。裾には白いフリルが揺れ、足元でリボン付きの靴がぴかぴか光っている。ボンネットから垂れる銀髪はツインテールというよりおさげかな。女の人の脇には守るようにニールさんが立っている。
家の奥から「奥様ー!」という声が聞こえる。ふわふわのフリルの影からカエル頭の人が顔を出す。あれ、この人、さっきから何回か見てるカエル人間だ。やっぱり公爵夫人の召使なのかな。『不思議の国のアリス』通りなら魚男もどこかにいるのだろうか。
「うふふ、かわいい男の子ね。ニールのお友達?」
女の人――おそらく公爵夫人――に尋ねられ、ニールさんは恭しく頷く。泣いている赤ちゃんをあやしながら、公爵夫人はぼくに近付いてくる。
「こんにちは。自己紹介をした方がいいかしら。私はミレイユ・コントラクト・ブリッジ。ブリッジ公爵の奥さんをしているわ。貴方は?」
「ぼくは……」
この人には言ってもいいのかな。
「コイツはアリスだ」
聞こうと思ったら、ぼくが聞く前にニールさんが言ってしまった。
「貴方がアリスね。ニールから話は聞いているわ。貴方も大変ね。森の外へ不用意に行っては駄目よ。あら、エドウィンがいるのね。駄目じゃないニール、ちゃんと守ってあげないと。王宮騎士に見付かってしまっているわよ」
赤ちゃんを抱え直して、空いた手でニールさんの額をこつんと叩く。公爵夫人は赤ちゃんをカエル男に預けると、テラスの階段を下りていく。裾を引き摺らないように軽くドレスを持ち上げるようにして下りる。なんだかフリルの塊がふよふよ動いているみたいだ。
「久しぶりねエドウィン。貴方がここまで来るなんて珍しいこともあるものね。明日は雨かしら」
「それ以上近付くな。オマエの香水の匂いを付けてしまうと城に戻れなくなる」
「うふふ、つれないのね」
エドウィンは公爵夫人から目を逸らした。腰の剣の柄に左手を軽く乗せながら、少しずつ後退る。
「……帽子屋」
「何ですかー?」
「明日出直してくる。家にいろ」
「分かりました」
近付いていく公爵夫人を躱し、エドウィンは茂みの中に消えていった。
つれないのね。ともう一度言ってから、公爵夫人はテラスに上る。アーサーさんの目の前にあったティーカップを手に取って、飲んでしまう。声にならない叫びを上げてアーサーさんがうなだれた。
「何か面白いことはないかしら」
カエル男から赤ちゃんを受け取り、あやす。赤ちゃんはだいぶ落ち着いたらしく、何かよく分からない音を出して笑っているようだった。
「ぼくまだ飲んでないので、これあげましょうか」
「いえ、大丈夫です」
公爵夫人も席に着き、自分の分のお茶を飲む。穏やかな時間が流れる。
家の奥から料理をしている音と女の人の声が聞こえていた。カエル男がテラスと家を行ったり来たり、食器を運んでぴょんぴょん跳ねながら忙しそうだ。ほどなくして焼きたてのパンケーキがテーブルの上に登場する。ふんわりとしたパンケーキの上にはクリームと苺のような果物が載っていた。
「わーい! おーいしそーう! ……おーいしー!」
口の周りにクリームを付けながらルルーさんがパンケーキを頬張る。
「ルルー、クリームが」
アーサーさんが拭ってあげると、ルルーさんはちょっと赤くなりながら手足をばたばたさせた。いつもより艶っぽい感じにアーサーさんを見る。
「もー! 自然にそういうことするところ嫌いだよ! 好きになっちゃったらどうするのさー!」
「ご自由にどうぞ」
「もー! 僕、兎じゃなくて牛になっちゃうよ! もー! 嫌い嫌い!」
二人のやり取りを見て、公爵夫人がくすくす笑う。まるで子供を見守っている親みたいだ。見た目の年齢はみんな二十代かなと言う感じだけれど、実際はいくつなんだろう。この国では何歳から大人なのかな。
公爵夫人の脇に控えていたニールさんが物欲しそうにパンケーキを見ている。それに気が付いたのか、公爵夫人は一口分フォークに刺して差し出す。
「お食べなさい」
そのまま「あーん」とするのかと思いきや、ニールさんはフォークを持つ公爵夫人の手を掴んで引き寄せ、彼女に何も言わせないままぱくっと食べる。
「うめえな」
「お菓子作りは得意なのよ、あの子。スープとか作らせるといつも胡椒まみれになってしまうのだけれど」
公爵夫人に抱かれた赤ちゃんが小さなぷくぷくした手をうーんと伸ばした。屈んでいたニールさんの猫耳をむぎゅっと掴んで引っ張る。
「いててててっ!」
「あらあら、うふふ。ピーターは猫さんが好きなのねえ」
「痛ぇ……!」
痛覚があるということはあの猫耳は付けているのではなく生えているのだ。
涙目になるニールさんを見てアーサーさんがとても楽しそうに笑っている。兄のピンチになぜこの弟は笑っているのだろう。クロックフォード兄弟の仲がよさそうで仲が悪いような微妙なこの感じは何なんだろうか。
猫耳を引っ張る赤ちゃんを止めることはせず、公爵夫人はパンケーキを食べている。ニールさんも振り払うことはせず、たまに公爵夫人と目が合うと苦笑するだけだ。
「あのぅ……」
おーいしー! とパンケーキを食べ続けているルルーさんに声をかける。
「ニールさんと公爵夫人はどういう関係なんですか……。もしかして、愛人とか……」
「んー? 愛人ー? あはは、違うよー」
どうして小声で聞いたのに大声で答えるのだろう。ルルーさん、ひそひそ話とかできない人だ。人じゃないけど。
案の定みんなの視線が集まる。
「私達が愛人? 面白いことを言うのね。アリス君、私とニールはそんなお遊びみたいな関係ではなくってよ」
公爵夫人の琥珀色の瞳が妖しい光を宿す。見た限り人間だし、ハートを付けているからスートと番号がある。つまり彼女は人間だ。そのはずなのに、この感覚は何だろう。まるで大きな何かに見下ろされているかのようだ。アーサーさん達とはまた違うタイプの静かな威圧感。
「面白いことがしたいわ。アリス君、私のお願い聞いてくれるかしら」
「お願い……?」
「上手にできたら、私とニールの関係を教えてあげてもいいわ」
「いえ、そこまでして知りたいわけでは」
「うふふ。お願い聞いてくれたら、貴方のこと口外しないって約束してあげる」
ガタン、と椅子が音を立てた。アーサーさんが立ち上がり、公爵夫人に歩み寄る。
「待ってください公爵夫人。それはつまり、アリス君が貴女のお願いを聞き入れなければ彼のことを口外すると、そういうことですか」
約束が違う。とアーサーさんは公爵夫人を責め立てる。
公爵夫人は帽子屋に対して余裕の表情を浮かべながら、その兄である猫を撫でる。喉元を撫でられてご満悦のチェシャ猫は公爵夫人の腰に腕を回してすり寄る。さっきまでは爽やかスマイルだったのに、夫人と猫を見る帽子屋は掃き溜めのゴミを見るような顔になっている。
「私は貴女を信用しているからアリス君のことを」
「だってその方が面白いじゃない?」
「……雌狐」
「あら、何か言った?」
公爵夫人はカエル男に赤ちゃんを預けると、見せびらかすようにニールさんを抱きしめ、誘惑するような挑発するような、そんな目でアーサーさんを見遣る。
「貴方もこちらへいらっしゃい、アーサー」
ぶちん、と何かが千切れた気がした。音がしたわけではない。けれど、切れた。
テラスの柵にかけていた帽子を取って被り、びしっと音がする勢いで公爵夫人を指差す。
「兄さんが駄目になったのはオマエの所為だ、このっ、雌狐め! 帰る!」
ルルーさんの呼びかけも無視してアーサーさんはテラスを下り、茂みの向こうへ消えていく。緊張した空気が漂っていたが、公爵夫人の笑い声でそれは消える。
「アーサーったらいつもそうね。私が嫌いなら来なきゃいいのに。ふふ、貴方のそういうところ好きよ」
公爵夫人の腕の中でニールさんが苦虫を噛み潰したような顔をしているのが見えた。
「アリス君、私のお願い聞いてくれるでしょう?」
「何をすればいいんですか」
「そんなに身構えなくてもいいわよ。お遣いを頼むだけよ」
赤ちゃんを抱いているカエル男がポケットから封筒を取り出した。
「この手紙を届けて欲しいの。ホイスト・ラバー・ブリッジ公爵にね」
「旦那さん?」
「そう。頼めるかしら。郵便局を待っているのも嫌だから、すぐ届けてくれる?」
一体何をやらされるのかと思ったら、郵便配達か。簡単そうだ。お手紙を届けて戻ってくれば、ぼくのこと口外されないし、夫人とニールさんの関係も知ることができるというわけか。
「分かりました」
「ええ!?」
声を上げたのはルルーさんだ。
「アリス君、ブリッジ公のところへ本当に行くつもり」
「え、駄目なんですか」
「えーと、うーんとね……」
「ルルー、いいじゃない。彼がお願い聞いてくれたんだもの。ね」
うさ耳が元気なさげに少し下を向く。
「お遣いのお供に彼を連れて行って。道案内をしてくれるから」
指名されて、カエル男がぴょんと前に出てくる。公爵夫人に赤ちゃんを返し、カエル男はぼくの肩を叩く。
「よろしくな小僧」
出発してから聞いたのだけれど、このカエルさんはラミロ・ラーナさんというらしい。




