第百十七面 じゃあ、あの人は……
「よし、ぶたのしっぽ商店街に到着です」
どうしてあの場にいたのだろう。あれは間違いなくクロヴィスだった。街へ入ることなどできるのだろうか。いいや、できるのだ。前にクラウスが言っていただろう。ヘイヤが街に現れた、と。バンダースナッチも街にいるのだから。
「……ルルーさん?」
「あぅ。な、何ですか?」
パトリックが心配そうに僕を見ている。
「さっきのフードの男、知り合いですか」
「あ……。……えっと」
「……言いたくないのなら言わなくてもいいですよ。何だかわけありのようですからね」
柔らかく微笑んで、パトリックは商店街の一角にある喫茶店を見た。
「飲み直しましょうか」
「ごめんなさい。今日はもう、帰ります。ちょっと気分が……」
送りましょうか、というパトリックをやんわりと断り、逃げるように僕は森へ向かった。
会えたらきっと嬉しいはずなのに。助けてくれたのだからクロヴィスだって僕のことを気にしてくれているはずなのだ。けれど、それでもやっぱり怖いと思ってしまう。
頭の片隅に蘇ったのは朧げな老いた兎の姿だった。優しそうな好々爺だ。傍らに男の子が立っている。男の子の頭頂部にも長い耳がぴんと立っていた。曖昧なのに明瞭な記憶が複雑に絡み合い、次の瞬間にはだいぶ時間が過ぎていた。燃える暖炉の火、絨毯に広がる赤、泣き崩れる男の子の姿。十代に足を突っ込んでからまだそれほど経っていないような小さな男の子が、謝罪を述べながら泣いている。そしてまた時間が過ぎる。女がいた。女が差し出した手に、男の子が縋り付く。時間が巻き戻る。老人が倒れている。老人は動かない。
「……ぅ」
気持ち悪い。先程の変な味のアイスティーがお腹から出て来そうだ。僕は近くにあった木に手を着いて体を支える。
忘れてしまえば楽になるのかもしれない。それでも忘れられないから、クロヴィスのことが頭をよぎる。そして、それと一緒にあの時のことが思い出されてしまう。赤く濡れた、祖父の姿――。
僕は地面に膝を着いた。体の底からこみ上げてくる不快感を押し込めるように口を押えて蹲っていると、誰かが近付いてきた。手にしていたらしい荷物らしきものが脇に置かれ、手が僕の背に触れる。
「ルルー、大丈夫ですか。お加減が悪いようですが」
横目でちらりと見遣る。そこにいたのはアーサーだった。買い物に行っていたのだろうか、荷物は食材のようだ。帽子の影が落ちる彼の顔には不安と焦りが浮かんでいた。頼りになんてならなさそうな手が僕の背を撫でている。
皮肉なものだ。あの時のことはとても辛く悲しく恨めしいことで、あの女のことを考えてしまうことすら不愉快でならないというのに。だから君の顔も、時に嫌いになってしまうのに。それでも、そうだとしても、僕がこうして安心できるのは、君の隣なんだ。
しばらく撫でてもらって、僕は深呼吸をする。
「落ち着きましたか」
「まだちょっと気持ち悪い……」
「何か変な物でも食べたのですか」
変なお茶を飲んだけれどあれは直接の原因ではない。
「もう少し安静にしていましょうか」
安心してしまったのだろうか。緊張感がなくなってしまったのだろうか。僕は崩れるようにしてアーサーに寄り掛かった。瞼が僕の世界を塞ぐ……。
次に僕の目に映ったのは天井だった。そして、青い掛け布団。
「ルルーさん」
アーサーの部屋だ。僕は彼のベッドに横になっているらしい。そして、枕元に置かれた椅子にはアリス君が座っていた。
「よかったぁ。姿見潜って来たらルルーさんがベッドで寝てるからびっくりしたんですよ」
「アリス君」
「みんなを呼んで来ますね」
とてとてとアリス君が部屋を出て行く。
さっき、アリス君と顔を合わせた時、僕は笑えていただろうか。心配させないように、詮索されないように。僕は顔面に笑顔を貼り付ける。馬鹿みたいに笑っていれば、きっと楽しいことだけ考えられるはずだから。
「ルルー! よかった! 気が付いたんだな!」
ニールを先頭に、アーサー、ナザリオ、アリス君達が入ってくる。
「ったくびっくりさせんなよな。帽子屋がここまで運んできてくれたんだから礼言っとけよ。オマエなんか重くて普段なら運べねえのに頑張ったんだぞこいつ」
「僕重くないもん!」
「違う帽子屋が非力なんだ」
「ああー! そっかー! ごめんね! ありがとうアーサー!」
ニールは呆れた様子で苦笑している。しかし、その隣に立つアーサーは思いつめたような顔をしていた。何か言いたそうに僕を見ている。
後で家の人が馬車で来るってさ、とニールは言う。それまでおとなしくしていろということだろうか。
「ねえねえ! 具合悪いの? 大丈夫?」
「うん。心配してくれてありがとうナザリオ。ちょっと疲れちゃっただけ」
「……お見合いの話?」
「うん、まあ、そうだね。なかったことにできそう……」
「よかったですね。あれ、よかったのかなぁ」
アリス君とナザリオが顔を見合わせて首を傾げた。かわいらしい。その様子を見ているだけで少しは心の平穏を取り戻せそうだ。
そう思ったのも束の間、アーサーが身を乗り出して僕に顔を近付けた。
「ルルー、何があったのですか。顔色も悪かったですし、動くこともできなかったように見えたのですが」
「はぁ? そうなのか。おい、言わなきゃ分かんねえぞ。酷い病気とかだったらどうすんだよ」
整った顔が並んで僕に迫る。今一番近くで見たくない顔。折角振り払ったのに思い出されてしまう。
「……クロヴィスに会った」
「えっ。な、何かされなかったか」
「特に」
ナザリオとお見合い云々という話をしていたアリス君がベッドに歩み寄って来た。
「あの、クロヴィスさんって何者なんですか。裁判で会った時にルルーさんの様子おかしかったですよね」
「あー、それおれも気になってた。ねえー、そろそろ教えてよー。気になって昼も眠れない」
「昼は起きてていいんじゃないかな」
本当のことを伝えたくはなかった。いや、本当のことは誰にも言っていない。
「言っていいのか」
「いいよ。ニールから言って」
誰も知らない。ニールも、アーサーも。言うわけにはいかなかった。二人のことを傷付けてしまうのではないだろうか。二人を絶望させてしまうのではないだろうか。伝えてしまったら自分でも再確認してしまって、皮肉どころではなくなってしまうだろう。
どうして僕は君達と一緒にいるんだろうね。
少し躊躇うような素振りをしてから、ニールは口を開いた。
「クロヴィスは仇だそうだ。ルルーのじいさんがアイツに殺されたって」
「忘れた頃に現れては妙に私達に絡んできますね……。彼がなぜ我々に興味を抱いているのかは分かりませんが」
アリス君とナザリオはそれぞれ違う反応を見せた。ナザリオは素直に受け止めたようで悲しそうな顔をしたけれど、アリス君は少し眉根を寄せて何か考え込んでいるようだった。
アリス君は時々こういう反応をする。まるで僕達の向こう、それとも手前だろうか、誰か、何か、別の存在を通して想像を巡らせているようだ。彼の世界で語られるお話の中に僕達と似た登場人物が出てくるものがあるという。その登場人物達を僕達に重ねているのかな。
沈黙を破ったのは考えのまとまったアリス君ではなく、森のどこかから響いてきた乾いた音だった。考え中だったアリス君が悲鳴を上げる。
「ひぃ! い、今の銃声ですよね」
そして、玄関のノッカーが打ち鳴らされる。が、すぐに音は止み、今度は居間の窓が叩かれる音が聞こえた。さらに音は近付いてきて、僕達のいるアーサーの部屋の窓が叩かれた。
「すみません! チェシャ猫さん、帽子屋さん、助けて下さい!」
大慌てのクラウスが窓ガラスをばしばし叩いている。アーサーが窓を開けると、クラウスは半泣きで要件を告げた。
「兄貴を助けて下さい! 一人じゃ勝てません!」
「どうしたのです」
「ヘイヤが、ヘイヤが出ました! 襲って来たから応戦してるんですけど、兄貴結構振り回されちゃってて」
「……兄さん」
「しゃあねえな」
愛銃を取りに行くのだろうか、ニールが部屋を出て行く。
「早くしてください! 兄貴殺されちゃう!」
「僕も行くよ」
止めるアーサーを振り払い、僕はベッドから起き上がって靴を履いた。ドアの向こうで、銃を手に廊下を駆けていくニールの姿が見えた。僕はそれを追う。「いけません! そんな体で!」と追い駆けてくるアーサーと、戸惑うナザリオとアリス君の声。
玄関のドアを開けると、ニールに睨みつけられた。
「馬鹿兎おとなしくしてろ」
「でも」
視界の端から何かが飛び込んでくるのが見えた。黒くて緑の何かが、赤を散らしながら石畳を転がってくる。
「エドウィン!」
「は? 何……。うわっ」
吹き飛ばされたのだろうか、土埃と血で汚れたエドウィンが倒れている。咳き込みながら起き上がった彼の視線を追って、僕は息を呑んだ。ゆっくりと歩いてくるのは銃を携えた男だ。右手に小銃、左手には刃が波打った剣を持っていた。フランベルジュ、エドウィンの愛剣だ。しかし、美しい波は随分と歪んでしまっていた。激しい戦いの痕が見える。
僕は駆け寄ってエドウィンを支える。
銃を持った男はフランベルジュを後方へ放り投げてしまった。重力に従って石畳に打ち付けられた剣がへし折れる。
「っ、オレの……オレのフランベルジュが……!」
「思ったよりも面白くないですねえ。ワタシはこの程度じゃ楽しめませんよお」
「動くな、狙い撃つぞ」
僕達と男の間に躍り出たニールが銃を構える。丁度そのタイミングでアーサー達も庭に出て来た。エドウィンを見てクラウスがさらに泣き顔になる。怯えた様子のナザリオと、驚いた様子のアリス君。
「クラウス……あれがヘイヤなの」
「そうだよ」
「そんな……。じゃあ、あの人は……。アーサーさんは知っていたんですか」
「ええ。彼は」
愉快そうに笑う男の顔には影が落ちていた。深く被ったフードの影だ。
「ヘイヤは、クロヴィスの通り名です」
「それならクロヴィスさんは」
強い風が吹いて、ヘイヤ――クロヴィスのコートの裾が大きく広がる。押さえようとした手が間に合わずにフードも舞い上がる。栗色の髪と共に風に揺れるのは長い耳だ。はっきりと彼の素顔を見たのはいつ以来だろうか。貼り付けられた笑顔が僕達を見回す。
「参りましたねえ。ワタシの姿見ちゃいました?」
僕は知っている。彼がこうしてふざけた喋り方をするのは、虚勢を張っているだけなのだと。不気味な道化を演じ続けることで自分を守ろうとしているのだ。昔からそう。大嫌いなパーティーで嘘の笑顔をくっつけて、おじさんやおばさんをおだてて居場所を作ろうとしていたのも、すぐに化けの皮が剥がれそうになって会場を飛び出していったのも知っている。あの雰囲気が嫌なのだと、会場の外で蹲る姿を見て僕は安心したのだ。僕だけじゃなかった、と。彼もそうなら仕方ない、と。
エドウィンは僕を押し退けて立ち上がった。破れたマントが風に揺れている。口の端から垂れる血を拭って、クロヴィスを見据える。
「ヘイヤ、ようやく見付けた。チェシャ猫を相手にして逃げられると思うなよ」
ふらつく体でどうにか踏ん張りながら、エドウィンはクロヴィスを指差した。
「おとなしく投降しろ、ヘイヤ、クロヴィス・ブランシャール」




